見出し画像

「障害があっても楽しい」の残酷さ

こんばんは、くつばこのりこです。お好み焼き食べたい。今日は最近感じていることについて。

☆「障害があっても楽しい」は本当にそう思ってる?

例えば障害体験とか、例えばパラリンピックを見た感想でありがちな、「障害があっても、楽しくいきられる」「障害者でも普通の人と同じように生きられる」というもの。「障害があること+逆接+ポジティブな内容」というこの構文を、じゃあ「障害があっても構文」と名付けますが、この「障害があっても構文」は、本当に、障害理解につながっているのでしょうか?始めてパラスポーツを見たときに、「障害があってもこんなにスポーツができるんだ!」という単なる感想の場合もあると思います。しかし、「障害があっても」という言い方をしている時点で、「障害者は不幸で辛いけど、楽しくいきることもできるんだ」というニュアンスが感じられてならないのです。

☆障害を楽しむことはできないの?

1つ目に、「障害があるから、楽しい人生」というのはないのか?と思います。健常者であることが素晴らしいのではなく、その人と人の違いやその人らしさで人生を楽しめばよいのに、「障害者でも、健常者みたい!」というのは自分たちの価値観の押し付けであり、自分の価値判断の基準以外は認めないという態度でもあるように思います。

☆その障害を作っているのは誰??

私の考え方は障害の社会モデルに基づいているので、障害は個人ではなく、それを障害だとしている社会の方にあると考えています。たとえば、この世界には階段が存在するから、車椅子は障害になります。詳しくはこちらのノートをご覧ください。

そのうえで、「障害があって、苦しくても、楽しい毎日がある!」というのは、責任を放棄した言い方に聞こえるのです。つまり、遠足で自分だけ謎にダンベルを持参し、重たいからと誰かに持たせ、「重いものを持っていても、遠足は楽しめるよ!」と言っているようなものなのです。こんな状況ないけど。

☆「障害があるから楽しい」といえる世の中にしたい

私は、多様性を認め合い、楽しみ、そして障害がある人の日常の不便さを解消したうえで「障害があるから楽しい」といえるような社会にしたいです。

P.S.☆「手足がないのに楽しい」はこの話とは違う

ここからは少し難しくなります。
「障害があっても構文」は間違っていると書きましたが、たとえば「手足がないのに楽しい」は、インペアメントについて述べた前半部分が社会的なものではないため、今回の話とは別問題だと考えます。パラリンピックを見て、例えば「足が動かないのにこんなに泳げてすごい」とか、「目が見えないのにボールの位置がわかってすごい」という発言は、本人の気持ちを配慮する必要はあれど、ナチュラルな意見だと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?