痛みを紡ぐ女(3/7)
3/7
桂馬は一瞬服を着る手を止めた。
「そっか……」
桂馬は考えた。学校に行く気もなくなってきたし、家にもいたくない。パーガトリウムが開くまではまだだいぶ時間がある。それに櫃児の死に興味がないでもなかった。録画し忘れたテレビ番組程度には。
桂馬は紡に頼まれ、タクシーを呼んだ。家の前にタクシーが来ると、桂馬は母親に喚き声と罵倒を背に浴びせられながら玄関を出た。紡はその隙に裏口から出た。
二人を乗せたタクシーは街に出た。遠くに見える工業区には、ツバサ重工の工場が地の果てまで建ち並んでいる。
二十四時間稼働し続ける工場の煙突は無尽蔵に排煙を吐き出し、その煙は空にぶちまけた墨汁のような暗雲に溶けていく。あらゆる汚染物質はやがて霧雨に溶け、地上に降り注ぐ。
合法麻薬《エル》薬局の前で、残業明けサラリーマンが死んでいる。その手には空になった合法麻薬《エル》の覚醒ドリンク、ドレンクロムが握られたままだ。疲れを取ろうとしてオーバードーズを起こしたのだろう。
いずれ野良犬めいた失業者たちが集まってきて、死体から身包みを残らず剥いでいく。
桂馬は頬杖を突き、窓の外に広がるその光景を見ていた。生まれてこの方ずっと見ている天外の市《まち》、通称〝雨ざらしの地獄〟を。桂馬は窓の外を見ながら紡に聞いた。
「会社を辞めたっていうのは?」
「ああ……会社を裏切ったんですよ。ツバサ重工を。それでまあ、色々あって。あとで全部話します。あなたはパーガトリウムのほうに今も?」
「ええ。行ってますよ」
「あそこ、経営者が変わったそうですね」
「らしいですね。よく知らないけど、オーナーと拷問官がヤクザに殺されたんだったかな……でもすぐに元通りになった」
タクシーが向かったのは天外市の中心にそびえる高層ビル街だ。その合間にある超高層タワーマンション型フォート、『ARK天外』に紡の自宅がある。
フォートとは天外に点在する閉鎖コミュニティのことだ。汚染霧雨が降り続け、それによる公害病――特に不治の病と恐れられる霧雨病が市《まち》に蔓延し始めたころ、人々は軒下に密集して暮らすようになった。
そうして出来た密閉区画がフォートだ。ドーム球場めいた屋根に覆われたものもあるが、ARK天外はそれよりも小規模のタワーマンション型だ。
その出入り口はエアロックと呼ばれる税関並みに厳しい検問がある。富裕層の住人しか立ち入れないようになっているのだ。
紡はタクシーを待たせておくと、ARK天外の裏口に回った。壁面に近付き、片腕で桂馬を抱え上げた。枕のように軽々と。
「え? ちょっと……」
桂馬が声を出しかけた瞬間、紡はARK天外の壁面を駆け上がった。アクション映画の忍者のように。
「!?」
何が起きているのかわからず、桂馬は口をぱくぱくさせながら幼児のように紡に抱きついた。
十階までくると、紡はバスルームの換気窓に張り付いた。
「しっかり捕まってて」
バキン!
紡は換気窓を素手でこじ開けると、桂馬を中に放り込んだ。続いて自分もするりと中に入る。
そこは紡の部屋のバスルームだ。以前桂馬が買われたとき、彼女と一緒に入ったことがある。すべて大理石製でプールのように広い。
「あ、あんた、いったい……」
桂馬が化物でも見るような目で紡を見ると、紡は口元に人差し指を立てて「しい」とやった。
紡のその眼を見た瞬間、桂馬は息を飲んだ。みるみるうちに彼女の白目が黒くなり、黒目が真っ赤に変わったのだ。
その眼で見られた瞬間、桂馬は本能的に悟った。
(この女、俺を買ってたころと何かが違う! 人間じゃなくなってる!)
「ここにいてください。絶対に出て来ないで」
紡は桂馬を残し、バスルームを出てリビングに向かった。
* * *
広々としたリビングの壁はコンクリートで、調度類は現代風の無機質な雰囲気でまとまっている。
オープンキッチンの冷蔵庫が開いたままになっていた。中の冷凍食品やテイクアウトなどが引っ張り出されてフローリングに撒き散らされ、隣の小型ワインセラーのワインボトルが数本床に落ちて割れていた。
紡はそれを一瞥し、視線をバーに移した。
背広の男がそこにいて、鼻歌交じりにベーコンをブロックごとかじりながら酒を作っていた。油塗れの手で触ったらしく、あちこちがベタベタしている。
男はジンやらウォッカやらワインやらをすべて一つのグラスに注ぎ込み、それをぐいと一気に飲んだ。大きく息を吐いてからゲップをし、さも今気付いたというように紡に振り返った。
一見では背広を着ていたように見えたが、実際はパンツ一枚の上にジャケットを羽織っているだけだ。ネクタイは締めているが。
「おおっと! 驚いたァ。お邪魔している。古鉄《こてつ》家のドリルガイだ」
「闇撫家の疵女《きずめ》」
疵女とは紡の血族として名だ。血族。すなわち妖怪、魔女、吸血鬼、精霊など人外の存在の総称だ。闇撫は魔女の血を引く血族だ。
お互いに名乗ったのは、かつて血族同士の戦いが家名を懸けたものであったころを血が記憶しているのだ。
「お前の家を一応見張っておけと言われてな。来るわけはないと思っていたが」
ドリルガイはいぶかしげに眼を細めた。
「なのに貴様……何を考えている? ツバサを裏切っておきながら、社から与えられた家にノコノコ戻ってくるとは」
ドリルガイのネクタイには翼を意匠化した銅色のバッヂがつけられている。それはツバサ重工を裏から支配する血族の組織、血盟会の下っ端であることを意味する。裏切るまでは疵女も同じものを付けていた。
疵女は答えた。
「あなたに会いに来たんですよ。待ってるんじゃないかと思って」
「俺を色香で篭絡するつもりだったか。ハ! ナメられたな! 貴様のようなサイコ女の股に興味はない」
カチャカチャ。
疵女はポケットからバタフライナイフを取り出すと、片手で振ってそれを開いた。手馴れた動きだ。
ドリルガイは嘲笑った。
「ハハハ……いいモノを持ってるじゃないか! 俺のとどっちが立派かなァ!?」
ビリィッ!
ドリルガイのパンツを突き破り、股間から穿孔用ドリルが飛び出した! 太さ六センチ、長さ一.五メートルほどもある! 古鉄家は機械の体を持つ家系なのだ。
ギュイイイイイイ!
ドリルが高速回転を始める!
「アアアオッ!」
ドリルガイは奇声を発し、カウンターを踏み台に高々とジャンプした。体を逆エビ型に仰け反らせ、股間のドリルを突き出して疵女に飛びかかる!
疵女は横に飛び退いてかわした。
ドドドドド!
ドリルガイのドリルはコンクリートの壁に突き刺さり、根元まで深々と突き刺さった。
腰を引いてドリルを抜いたドリルガイは振り返り、改めて疵女に狙いを定めた。そして再び腰を激しく前に突き出しながら突進した!
「アアアオオッ!」
「気持ち悪い!」
思わず呟きながら疵女はさらに飛び退いてかわす。