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私はそこを名付けた「希望ケ丘限界パーク」

管理組合長の家はすぐ分かりました。朽ち果てた廃墟が並ぶエリアに、一軒だけ小綺麗に整えられた家がありました。
管理組合長は70歳くらいの小柄な男性で、数年前、奥様に先立たれ、希望ケ丘に一人で暮らしていました。彼は明らかに私に対し怯えた顔を見せ、20年ぶりに帰ってきた、得体の知れない団地の息子を警戒していました。
管理組合長は一言も声を発さなかったので、私は感情的にならないように、冷静に話をしました。
父が免許を返納すること。車なしではこの最果ての団地で生活が成り立たないので引っ越しを考えていること。けれども母が管理組合を怖れて引っ越しできないと言っていること。法外な違約金には納得できないこと。
黙って聞いていた管理組合長は、おもむろに立ち上がり、何冊か冊子を持ってリビングに戻ってきました。
希望ケ丘ニュータウン建設時のパンフレットでした。管理組合長は私に1冊渡しました。私は受け取りました。希望に満ち溢れたパンフレットでした。「豊かな自然とテクノロジーが融合した希望のまち」
ピンク色のモノレールがピカピカに輝いています。丘の上では小鳥がさえずり、公園では笑顔いっぱいの子どもたちがブランコで遊んでいます。
「こうなるはずだったんですよ」管理組合長はそう言って、静かに泣きはじめました。
ひとしきり泣いたあと、冷静さを取り戻した管理組合長は私に言いました。
引っ越しは個人の自由であり、引き止めるなんてしないし、また管理組合にその権限もないこと。ただこのコミニュティを維持するにはこの12世帯が限界であり、1世帯でも減るともはや団地全体の生活が成り立たないこと。12世帯はみないい人たちで、結束しており、1世帯でも欠けるのは哀しい気持ちであること。仮に引っ越しをするとしたら、残りの10世帯にも挨拶をしてほしいこと。違約金は規約で決まっており、このコミニュティを維持するにはむしろ50万では安すぎるくらいであること。
「それと最後に」管理組合長は言いました。「あなたはちょっとだけ私を誤解しているのかもしれませんね。なにも私がこの団地で恐怖政治を強いているわけではありません。組合長の任期は4年です。ご存知のとおり、この団地は道路も水道も下水道もすべて自己管理です。台風の崖崩れで道路が塞がれても誰も何もしてくれない。自分たちでなんとかしないといけない。小さな独立国家みたいなものなんです。大統領とまでは言いませんが、私だってこんな重責を負いたくなかったですよ。でも組合長は持ち回りで、どうしても断れませんでした。やっとこの3月で任期を終えます。そして、順番から行けば、次の管理組合長はあなたのご両親なのですよ」
管理組合長はさらに畳みかけるように言いました。「私もこういうことは言いたくないんですが、この4年、本当に苦しかった。なんとか責任感でここまでやり遂げました。ですからあなたのご両親にも責任感を持ってもらいたい。組合長就任を前にして、引っ越しをするのは人として不誠実なのではないですか」
私はなにも答えられませんでした。
「ぜひ、あなたのような若い、血気盛んな方に管理組合長をやってもらいたい。私はそう思っています」

私は残りの10世帯すべて挨拶に回りました。みな外から来た私を異様に警戒していました。その風情はどこか、隠れキリシタンを思わせました。そして彼らはみな、組合長か言うようにいい人たちでした。

そんな中、不意に父が死にました。76歳でした。脳出血でした。自宅で倒れ、救急車が到着したのは40分後でした。間に合いませんでした。

父の死をきっかけに私はいろいろ考えました。
そして我が家の財政状況を始めて知りました。違約金はおろか引っ越し資金すらほとんど残されていませんでした。父が医療費を消費することなくポックリ逝ってしまったのは、むしろ不幸中の幸いでした。
なぜそれほど困窮しているのか不思議に思われるでしょうね。山奥の宅地と言うと安価のイメージがあるかもしれません。
しかし実際は市街地の新築一戸建てに平気で億の値がついたバブル期に、中流家庭がギリギリ手の届く価格設定をしようとしたその結果が、この辺境の希望ケ丘団地です。
小市民が一生かかってやっと払えるくらい、十分高額なのです。かと言って莫大なローンを抱えた中、バブル崩壊後、資産価値ゼロになった家を手放して次に移ることもできない。
出るも地獄、残るも地獄の状況で、インフラの老朽化から増加する一方の団地管理費が家計を圧迫します。
我が家の家計はほとんど住宅ローンと団地管理費に充てられ、ほとんど何も残されていませんでした。

私は考えました。
生涯の稼ぎの大半をこの絶望の団地に貢いだ父の人生は一体なんであったのかと。
そして、なぜこのような辺境に来てまでも新築一戸建てに拘り、価値がないと分かったあとも漫然と時をやり過ごしてきたのか。

うまく言葉で説明できる自信がないのですが、私が導き出した答えはこうです。
希望ケ丘ニュータウンとは、誤解を恐れず極端に言うならば、ヤマギシズム実顕地とか、上九一色村の第6サティアンと同じではないかと。
希望ケ丘ニュータウンの残留者は「持ち家一戸建て教」の信者であり、生活上のいかなる困難よりも、持ち家一戸建てを所有し続けることだけが最優先される。ただ「住めば都」というお題目を唱え続け、現実から目を背けて、問題は常に先送りにされてきた。そう考えなければ、説明がつかない。
私は、その結論に達したとき、私が15歳から20年間、実家に帰らなかった理由が分かりました。15歳の私が何に怒っていたのか。
その思考停止した化石のような価値観。新築一戸建て幻想が指し示す、惨めな中流家庭の世間体至上主義。15歳の私はそれにノーを突き付けていたのです。そして四半世紀が過ぎて、もう許そうと思いました。

私は希望ケ丘ニュータウンの管理組合長に就任しました。団地住まいではない私ですが、他に誰も成り手がなく、役員会で前組合長が私を推薦して、満場一致で決まりました。希望ケ丘ニュータウン初の外部組合長です。
最初の役員会で私は、私の任期4年以内に全世帯の集団移転を目指すと宣言しました。インフラは限界、資金はない、それしか道はないと私は訴えました。
言葉にはしませんでしたが、先ほど述べたようにこの希望ケ丘をカルト化された状態と捉えるならば、それは救われるべきだろうと考えたのです。
予想に反して反論する住人は誰一人いませんでした。方向性は決まりました。

私は市役所にアポを取りました。
何度かのたらい回しを経て、最終的に都市計画課の課長さんが対応してくれることになりました。管理組合長の肩書きが効いたのかもしれません。
私は都市計画課長に希望ケ丘ニュータウン建設時のパンフレットを渡しました。私は簡潔に話しました。
限界住宅地としての希望ケ丘の現状。インフラの自己管理と管理費増大の問題。父の死の際、救急車が到着するのに40分かかったこと。私が管理組合長に就任した経緯と、4年以内の全戸集団移転を目指していること。
そういった集団移転に対する行政の何らかの支援や補助制度がないか私は尋ねました。
都市計画課長は簡潔に答えました。
結論から言うと、市外からの移住に対する補助制度はあるが、ご希望に沿うような市内間の移転に対する補助制度はない。全国的に見ても、地震や地滑り災害に伴う集団移転事業は多くあるけれども、限界ニュータウンの集団移転事業は聞いたことがない。
「希望ケ丘ニュータウンのことはもちろん存じ上げておりました」課長は言いました。「気になってはいました。今日、具体的な状況をお聞きして、驚きました。私も若い頃は市道や公園の維持管理担当をしていましたので、インフラを常に当たり前に使える状態にしておくことが、実はどれだけ大変かということを、身をもって知っています。ですから本当に皆さんのご努力には頭の下がる思いです。それだけに深刻な問題だとも思いました。ただ申し訳ないですが、行政として力になれる部分はないかなというのが正直なところで、ある意味過疎地域は手厚いんですけどね、ニュータウンは難しいですよね。なんと申しますか、やはりある程度資産を持たれた方がご自身で判断されて購入されたという部分で…」
「自業自得ってことですよね」
「そこまでは言いませんが、過疎地域はまだ行政が介入しやすい、合意形成しやすい要素というか、公費を投じる理由づけというかですね、例えば国策で開墾した経緯であるとか、守るべき第一次産業とか、守るべき生産物とか豊かな自然とか…」
「何も守るものないですもんね、ニュータウン」

私は早々に行政の支援を諦めました。
当初、私は救急車が40分もかかったことを重視していました。と言っても批判したいのではなくて、希望ケ丘の存在自体が行政にとって、高リスク・高コストだろうと。ごみ収集車も来ていますし、火事や災害で問題があれば、放置し続けた行政に批判が飛び火するかもしれない。逆に言うなら希望ケ丘が消滅するなら行政にはメリットしかないわけです。その辺なんとか人口減少対策とかコンパクトシティとかに絡めてどうにかできないかと考えました。
けれども、どう考えても無理筋だなとすぐに気づきました。バブル絶頂の最悪のタイミングで山奥の新築一戸建てを買うって、人生最大のギャンブルに盛大に負けた人たちなんですよ。そしてそんな人は日本中に腐るほどいるわけで、例えるなら、株で負けたから役所に損失を補填してくれって言ってるのと同じなんですよ。

もう自力でなんとかするしかない。
12世帯の引っ越し資金をどうやって調達するか。クラウドファンディングしか思い浮かびませんでした。
私はクラウドファンディングの企画書を考えました。限界住宅地の売りは何なのか。見返りにふさわしい価値は何なのか。
何もありませんよね。一晩中考えて「廃墟」しかありませんでした。廃墟ブーム、廃墟マニアに頼るしかない。
廃墟には一定のニーズがあります。「軍艦島」がその最たる例です。軍艦島には当然、近代産業化の歴史、世界遺産の価値があって、限界ニュータウンには何もないわけですが、ただ軍艦島にしても世界遺産的な位置づけはむしろ後追いで、廃墟マニアの人気が先行していたと思うんですよね。
限界ニュータウンの何もなさ。石炭すら出ないのに好き好んで山奥を開拓したバブル期の日本人の愚かさ。その負の遺産を後世に残し伝えていく施設があってもいいのではないかと私は考えました。
誰もいない限界ニュータウンをフィールド博物館として後世に残す。最近の流行りに便乗して、「逃走中」ごっことかに活用したり、フィルムコミッション的な使い方とか、ドローンを飛ばして遊ぶ公園にしたっていい。私はそこを名付けた「希望ケ丘限界パーク」

長々と話してまいりました。話は以上になります。ぜひクラウドファンディングにご支援をお願いしたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

参考文献「限界ニュータウン探訪記」
https://urbansprawl.net/


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