【書き散らし】正しさから自由になれなかった幼少期


 小学生の頃の僕はまだ大人が完全に正しい存在だと勘違いしていた。故に当時の僕にとって大人に怒られることは完全な失敗であり、その失敗にあえて飛び込んでいくやんちゃ坊主の心中を理解できていなかった。クラスに一人や二人ではきかないそういう輩を僕は心のどこかで見下している節があったのかもしれない。

 大人になった今、当時を振り返ってみると彼ら彼女らは僕よりずっと小さな頃から完全な正しさなど存在しないということに気が付いていたのかもしれない。当時の僕は先生や親の言いつけを守ることによって自分が正しい存在なのだと信じることができたし、その正しさに疑問を覚えることもなかった。しかしその生き方はずいぶん窮屈だった気がする。当時の僕は窮屈せずに生きる処世術を知らなかった。処世術という概念すら曖昧だったかもしれない。なにしろ正解は大人によって既に決定されていると考え、どう振る舞えばうまくやれるかではなくどう振る舞うのが正解かとしか考えていなかったのだからそうなるのも頷ける。

 もちろん処世術をまだ知らなかったという点に関してはクラスのやんちゃ坊主も同じだった。しかし僕が処世術を知る前に正解しかできなかったのに対し彼ら彼女らは処世術を知る前は完全に自由だった。前者にとっては今後も失敗しないための手段が処世術となり、後者にとっては今後も自由に生きるための手段が処世術となる。前者である僕が獲得することになる処世術は挑戦しないことだった。挑戦しなければ失敗することもない。思えば当時の僕の自分とは違う人種に対する不理解が今の受動的な性格に繋がっているのかもしれない。

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