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Mom

 始まりの知らせに次いで聞いたのは、終わりの知らせだった。
 

 少し前に僕は作られた。最初の記憶は朧気(おぼろげ)だ。柔らかい光の中で、僕は長い間まどろんでいたような気がする。僕にまだ形はなく、僕を成す、何物もなかった頃、僕は知った。もうすぐ僕が「産まれる」のだと、この柔らかい光を練って僕という形を成し、「人間」というものになるのだと。さっぱり理解できなかったが、それはどうやらこことは違う場所へ行くことらしく、そしてそれは素晴らしいことのようだった。


 しかし唐突に終わりは訪れた。ようやく僕と僕以外の境界線ができ、僕が僕を認識し始めた頃、僕は「死ぬのだ」と知った。また元の混沌へ還るのだという。
「君は死ぬが、死ぬ前に君が望むものを見せてあげよう。何を望む。」
彼は言った。
「僕は何も知らないんだ。見たいものなんて無いよ。」
僕が当惑して答えると、彼も困ったように答えた。
「でもこれは決まりなんでね。」
とにかく頼むよと、彼は言った。
僕は考えあぐねて、ようやく一つ思いついた。
「それじゃあ、人間になった僕を見せて。」
彼は一瞬喜んだかと思うと、途端に不機嫌そうに顔をしかめた。
「それは無理だ。だって君は産まれないんだから。存在しないものを見せることは、誰にもできない。」
僕はまた色々と考え始めたが、残念ながらどれだけ頭をひねっても、知っていることは『産まれるはずだったが、生まれる前に死んでしまう』ことだけだった。
 いつまでも答えを出せない僕を見かねて、彼が提案した。
「人間になった君は無理だが、君が歩んだかもしれない人生を見せてあげることは出来るよ。」
「どういうこと。」
顔を上げて、僕は聞いた。
「ほとんど君みたいな人間がいるんだ。母親も父親も同じ人間だ。まあ、それが何なのか、君は知らないだろうが。彼の人生でよければ、見せてあげられるよ。」
彼の提案を、僕は考えるまでもなく受け入れた。
「いいのかい、君はナポレオンの人生を見ることも、宇宙の終わりを間近で見ることもできる。過去も未来も、自由自在だ。それなのに名もなき人生を選ぶ、後悔しないかい。」
彼はどこか楽しんでいるようだった。
愚門だ。僕は何に価値があって、価値がないか知らないんだ。
「後悔なんてしないよ。」
そう答えると、彼は笑った。
「みんなそう言うんだ。」
「誰のこと」
彼は質問に答えなかった。
「さあ、君の最期の望みを叶えよう。君は兄弟の人生を縦横無尽に好きに見て回れる。人間とは何か、人生とは何か、君が得るはずだったもの、失ったものを知るといい。不幸な者よ、最後の時は幸福であれ。」
まばゆい光が視界いっぱいに広がった。
「ところであなたは誰なんだ。」
僕は聞いた。もう彼の姿は見えなかったが、声だけが返ってきた。
「人間が時間と呼ぶものだ。」

 僕が初めて見た人間は、奇声を発する小さな生き物を愛おしそうに見つめていた。疲れ切った顔に笑みを浮かべて、心底幸せそうだった。その人が僕を産むはずだった人で、その腕に抱かれた皺くちゃな生き物が僕の兄弟だと分かるまで、僕はいくつもの時間を行き来した。
 兄弟はみるみる大きくなった。とても人間とは思えない姿で生まれたのに、あっという間に人間のミニサイズに成長した。彼の成長に伴って、僕はこの世界を理解し始めた。弟の周囲には彼を無条件に愛する人たちがいて、それは家族と呼ばれるようだ。彼らは弟が好き勝手に走り回って、どんな悪さをしようとも、彼がかわいくて仕方ないらしい。とりわけ彼の母と父の目は飛びぬけて愛おしそうだった。彼の親ということは、僕の親だ。これは僕が得るはずだったものなのだ。体の奥がチクリと痛んだ。これが悲しみだと、僕は気づいた。

 僕は弟の時間を次から次へと飛んだ。そうしているうちに、僕は奇妙な感覚に陥った。彼が親友のような、僕自身のような、そんな気持ちがした。初めて幼稚園に行った日も、友達と喧嘩した日も、初恋も、僕はずっと傍で彼を見てきた。次から次へと襲い来る「初めての体験」に、時には一緒に喜び、泣く日もあった。初恋が終わった日なんて最悪だった。二人して大雨の中、傘もささずにおいおい泣いて帰った。
弟が何度か僕に気付いているような瞬間があったけれど、本当のところはどうか分からない。僕が声をかけても、弟は振り返らなかった。

 弟が中学に上がると、家の中の空気が張り詰めることが多くなった。
 弟は常に何かイライラしていて、母も父もその対応に疲れ果てていた。父と弟が大きくぶつかり、弟が部屋に閉じこもった夜、母は棚の一番奥から一体のテディベアを取り出すと、僕の知らない表情でそれを見つめていた。母はテディベアの頭を何度か撫で、棚へ戻すと、部屋の電気を切った。僕はいやにその光景が頭から離れず、弟が生まれたころへと飛び帰った。

 母はぬいぐるみ作家で、弟が生まれたころから時間を捻出しては、ぬいぐるみに命を吹き込んだ。その熱中は情熱だけでは説明のつかないものだったが、それが何なのか僕は知らない。
 弟が生まれたころに住んでいたアパートに僕は戻ってきた。父も弟も、もう眠っている。母は、電気を絞った暗がりの中で一人、一針一針無心で縫っている。僕は母を通り越し、部屋の隅の棚を探した。目当てのものはやはりそこにあった。ぬいぐるみにしては少し重いテディベア、ずっと母はこれを手元に置いていた。時折、思い出したかのようにじっとそのテディベアを見つめていた。母の視線に無関心な父や弟は気づいていないだろう。僕だけが知っている瞬間だった。母がどうしてそれに執心するのか、理由は知らない。僕は振りむいて、相変わらず仕事に忙しい母の前にしゃがみこんだ。無論、彼女は気づかない。顔にかかる髪一本動かない。
僕はおずおずと母の膝に頭を乗せて、彼女を見つめた。ようやく母は僕を見た。けれど彼女は僕がいることを知らない。時折、弟は僕に気づく素振りを見せていたから、母も気づくかもしれない。しかしどれほど念じても、そこには僕が母を見上げている事実しかなかった。その時、俄か(にわか)に弟が大声で泣き始め、母は立ち上がって隣の部屋に消えた。残された僕は、狭い天井を見上げて、寂寥感に苛まれていた。どれほど僕が見つめても、母の目に僕への愛を見る日はこないのだ。

 激しく長い反抗期が終わり、弟は大学生になり、やがて社会人になった。僕は依然、弟の良き理解者であり、信頼すべき兄だった。ただそれを弟が知らないだけで。
 家族や周囲が彼を厚い繭で守っていた幼少期と打って変わって、彼は人生に幾分苦戦しているようだった。ままならぬこと、所謂(いわゆる)社会の厳しさというようなものを知って、ぼろぼろで、歯を食いしばっていた。生きることが辛いと呟く日もあった。暗い部屋に横たわり、ただ涙を流す彼に、僕はそっと寄り添った。僕は誰よりも正確に彼の心を知っていた。少しだけでもいい、その苦悩を背負ってやりたいと幾度も願った。けれど僕は届かぬ声で、励まし続けることしかできなかった。
数年をかけて、彼はようやく色々と折り合いをつけられるようになった。よく笑うようになったし、自分の好きな仕事ができるようになった。いい友人とパートナー、そしてかわいい子供もいる。コーヒーを飲んでいる弟の向かいに座ると、その顔に知らない皺があった。
弟の仕事が忙しくなるにつれ、母や父と会う回数は減っていった。しかし彼らはまめに電話をよこした。弟のほうからも頻繁にかけ、親子の絆は強いままだった。僕はいつも耳をそばだてて、彼らの会話を聞く。僕は、もう自分が姿なき家族であることを受け入れていた。今は彼らが幸せであればそれで良かった。

 久しぶりに会った母と父は驚くほど小さくなっていた。
走り回る弟を追いかけ、抱き上げていたあの力強さも失っていた。しかし穏やかで、弱々しく、幸せそうだった。僕の心に一抹の不安が去来した。
 祖父母にはっきりと老いが見え始めたときも、こんな風だった。終わりの時が見え始め、運命を受け入れた諦観(ていかん)がそこにはあった。

 終わりの日は唐突に、そして足早に僕たちの前に現れた。
 年の暮れに体調を崩した母は、そのまま回復することもなく、床(とこ)についた。これまで大きな病気にかかったことのない母の急激な衰弱に、父も弟も平常心を失っていた。僕はそっと彼らに寄り添い、やせ細っていく老いた母の傍にいた。
 医者が今日を越せるか分からないと告げたとき、父は母と弟を病室に残して、病院を出た。彼は車に乗り込み、エンジンを点けたが、ハンドルに手をかけたまま、いつまでも発進できずにいた。まっすぐに前を見据える彼の唇は震えていた。僕はそっと父を抱いた。彼に見えずとも、聞こえずとも、悲しみを共有していたかった。
 父は自宅に戻ると、用事を済ませ、必要なものを雑多に鞄に詰め込み、棚の奥から取り出したあのテディベアを鞄の一番上に乗せて、再び家を出た。

 病室につくと、疲れ切った顔をした弟が立ち上がり、父から荷物を受け取った。
「傍(そば)においてやるの」
テディベアを見て、弟は言った。
「ああ。最後は全員で過ごさせてやりたいんだ。」
父の言葉に、弟は微笑んだ。弟の後ろで姪が不思議そうに、そのやり取りを見つめていた。弟は振り返って、彼女にテディベアを渡した。
「お前の伯父さんだよ。枕元に置いてあげて。」
僕は一瞬、弟が何を言っているのか分からなかった。いま、弟は何と言ったのだろう。まるで時間が止まったようだった。姪が弟からそれを受け取り、母の枕元に置くまでずっと、僕は指先一本も動かせなかった。僕は、母の傍に歩み寄り、焦点の定まらない空虚な目を見つめた。
 僕の脳裏に次々と記憶が立ち戻ってくる。テディベアを見るあの母の目、あの目はそこにいない愛しい人を切望する目でなかったか―。
 僕は、胸が張り裂けそうだった。
 戦慄く(わななく)僕の手は、決して触れられぬ母の頬を撫でた。
弟に向けられた暖かく激しい思いを、一度でいいから僕に向けてほしいと思ってきた―。
けれど、すでに僕はそれを手にしていた。

 零れた涙が、雨のように母に降り注いだ。母の眼は、僕の死から今まで、ずっと僕を見てきたのだ。

 僕たち家族は、一晩中、母の傍(そば)を離れなかった。夜中過ぎになって、姪が横になったが、父も弟も僕も、決して母から目を離さなかった。
 母の手や足先が、段々と冷たくなっていく。父と弟はしきりに母をさすり、その体に命を取り戻そうとする。けれど母には、もうそれを体に留める力はないようだった。やがて呼吸が不揃いになって、途切れ途切れになった。弟は姪を起こし、医者を呼んだ。
 父が母の額を撫でた。それは長年連れ添った妻への労いと、別れの挨拶のようだった。弟はまだどこか希望を失っていない目で母を見つめ、その手を強く握りしめた。僕は、彼らの少し後ろから、母の顔をじっと見つめていた。母の終わりの瞬間を、目に焼き付けたかった。
 母の息はどんどん弱くなっていき、皆が最期を覚悟した。緩慢(かんまん)な息をしていた母が突然大きく息を吸い込んだと思うと、力なく肺から息が漏れ出した。僕はそこに生が死へと切り替わる一瞬を見た。
 


しかし、俄か(にわか)に信じがたいことが起こった。急に母の眼に生気が戻り、そればかりか萎んでいた皮膚が柔らかな膨らみを帯びた。突然のことに僕が呆然としていると、母は迷うことなく真っすぐ、僕を見た。母は信じ難いものを見たような目を僕に向けたが、すぐにそれは愛と悲しみに満ちた眼差しに変わった。
 僕以外の誰一人、母の奇跡的な復活に気付いている様子がない。皆、死にゆく母を見つめたままだ。しかし当の母は、僕をしっかりとその目に捉えている。

母が僕を見ている―。
死んで、存在しない僕を―、母が見ている。
そして、僕はそれを本能的に理解した。
これは母が望んだ最後の時間なのだと―。

僕は、堰(せき)を切ったように、半ば叫びながら言った。
「ずっと傍にいたよ。母さん。」
その言葉を聞くと母は、目を閉じた。そしてもう二度と開くことはなかった。

 母の煙が白雲のように空を流れていった。
気が付くと、彼が傍に立っていた。
「この時間を選んで悔いはないかい。」
僕は頷いた。
彼は目を細めて笑った。
「君は随分幸福だな。」


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(note創作大賞の規定に合わせるため、再投稿いたします。)

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