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どうする、ニッポン

2.1.3 タテ社会の確立-武士道

源賴朝が坂東武者を率いて関東を支配しても、近畿では皇族と貴族による統治が続きました。日本国内に二つの権力が並走していたのです。京都貴族と鎌倉武士との権力争いは、両者の衝突を招いて「承久の乱」がおきました。乱に勝った鎌倉の武士政権は各地の豪族を御家人として、強い「タテ社会」を築きました。それまで各武家のウチで営まれていた「タテ社会」ですが、武家同士を上下関係で結ぶことで「タテ社会」がソトにもできたのです。奈良時代に中国から教わり日本型に改編して、平安時代まで行われてきた貴族統治の律令政治から、鎌倉幕府第3代執権の北条泰時らは「御成敗式目」を発表して武士が統治する政治形態へ移行しました。「武士道」の誕生です。

鎌倉時代から江戸時代まで続く武士の時代に、氏ごとに「タテ社会」を構成する幕藩体制の基礎が確立されました。徳川将軍の幕藩体制が確立されるとともに、日本人の精神的な背骨となって現代まで影響を及ぼすことになる「武士道」が江戸時代に完成しました。サムライの精神的な支えとなる「武士道」が発展してきたこともあって、武士の言葉は尊重されました。“武士に二言はない”とか“行事での間違いは許されない”とかの慣習は、必要以上に格式を重んじる伝統となって、その後の組織運営に大きな影響を与え続けてきました。形式を重んじるばかりに、型にふるまいを合わせるようなことが普通に行われるようになったのです。たとえば、旧帝国陸軍の“靴が合わなければ、足を靴に合わせろ”といった考え方です。

徳川将軍家を武士の棟梁とする幕藩体制は、約三百に及ぶ大名の支配する藩が支えていました。各藩は独自の統治制度をもっており、それぞれが独立した“国”としてふるまっていたのです。藩(国)は明確な領域と領域内に居住する人民を治めて、藩内で通用する藩札を発行していました。住民は藩(国)から勝手に出たり移動したりすることは許されていませんでした。

江戸時代の日本の人口は約3,000万人で、人々は士農工商という「資格」で身分が仕分けられていました。幕藩体制を支える武士層は人口の約7%でした。身分制度によって人の身分が基本的に固定されていたので、社会を人の属性で仕分ける文化が根付いていました。また、幕府も藩も「武士道」を規範としていましたから、すべての日本人は身分にかかわらず「武士道」の影響下にあったといえます。

藩が独立国と同様に扱われていたことは、1867年の第2回パリ万博の時に日本国を代表して参加した徳川昭武の率いる徳川幕府のほかに、薩摩藩と佐賀藩が独自に参加していたことに見て取れます。藩は小さくても一つの“国”ですから、大名とも呼ばれる藩主(殿様)は元首です。戦国時代から続く誰もが“一国一城の主になりたい”という伝統は今に続いています。たとえば、与党の派閥は譜代藩で野党は外様藩とすると、派閥を作るとか少数でも徒党を組むのは、誰もが一国一城の主になりたいだけのようにみえます。一国一城の主はグループのメンバーに「場」を提供し、メンバーは所属する「場」に安住しています。現在の日本の政党はすべて「タテ社会」そのものです。

幕藩時代の藩が“国”と呼ばれていたことは、他藩から訪れてきた人に「お国はどちらですか」と聞いていたことに表れています。聞かれた人は「拙者は○○藩の××と申す」と応えました。まず、所属藩(国)を明らかにしてから次に名前を名乗ったのです。明治維新後も出身地を聞くときに「お国はどちらですか」と言います。同じように、私たちは今でも普通に地域とか所属先などの「場」を先に話しますから、自己紹介するとき「私は○○会社の××です」と言います。初対面の人に最初から「ご職業は何ですか?」と聞くことはありません。自分を紹介するのに「エンジニアの××です」とか、「高校教師の××です」という応え方もありません。相手が知りたいことは、相手の「資格」よりも所属する「場」であることが多いので「○○会社の××です」と名乗ることが普通となっています。エンジニアとか教師、事務員などの個人の「資格」を表すよりも、会社とか学校、官庁などの「場」を優先する日本の社会は、自分が所属する組織は「ウチ」であり、相手が所属する組織を「ソト」と認識する文化で育まれました。「タテ社会」は「ウチ」の中で成立しているばかりではなく「ソト」の組織を含めた社会全体に成立しています。

日本の組織運営が先進諸国の組織運営と違う理由の一つに、日本の文化が江戸時代の鎖国政策によって独自に発展してきたことがあります。徳川幕府が幕藩体制とヨーロッパの組織運営の違いを知る由もありませんでしたので、将軍家と諸大名による日本型の封建社会が形成されたといえます。ヨーロッパの「ヨコ社会」で行われていた対等の立場で約束をするという契約的な概念はなかったようです。約束事を文書で交わす行為は、武士が統治する時代からありました。双方が約束した項目を文書にして署名を交わして行動の基としてきました。しかし、約束文書が対等の立場で交わされることはなかったようです。立場の違いは明文化されていませんが、お互いの力関係は理解していたのです。強い武家が弱い武家を“力”で従える「タテ社会」が確立されていたのです。幕藩体制はヨーロッパの契約的な考えを基礎とする封建制度とは違いました。

幕府による諸大名の支配はどう喝が基本でした。幕府は参勤交代で一万石から百万石まで大小三百を超える藩(国)を縛っていました。“力”で支配する手法は藩内においても人事面で適用されました。現在も多くの組織で行われている運営手法です。今に続く私たちの「タテ社会」は、全国の大名を徳川家の“力”による統治で確立されたのです。約三百あった藩(国)の殿様(大名)のもとで、忠信の武士たちが「武士道」によって藩(国)の運営を行ってきました。主君への忠義が大切で世襲の武士が役ごとに決められた形式を重視してきたのです。藩(国)の運営形態は世襲と過去の経験に基づいてすべて決まっており、改めて検討する必要はなかったからだといえます。

日本の文化には人を所属する組織で仕分ける武家の台頭以来の長い歴史があります。しかし、江戸時代は「資格」と「場」の機能を対等に受け入れてきたことがわかります。私たちはこの二つの機能を時と場合に合わせて使い分けてきたのです。ひるがえって、今の日本では「場」の機能が「資格」の機能に優先しているようにみえます。しかし、後れを取り戻すためには「資格」の機能を見直すことが必要です。時と場合に応じて「資格」を「場」の機能に優先する社会の運営が求められているのです。歴史的に日本の社会は「場」を優先してきましたが、時と場合によって「資格」の機能を有効に利用してきましたから「タテ社会」においても有効な手段といえます。

 

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