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僕の心の中にある都市-多和田葉子さんについて

時間があれば、ほぼ毎日スターバックスに通って勉強している。ド田舎の幹線道路沿いにある、ひときわ明るい郊外型の大きな店。居場所を求めた田舎の若者たちが集まっていて、今日も店内は騒々しい。そのうるささが、どこか心地良い。

小説家・多和田葉子さんのエッセイ「百年の散歩」を時間をかけて読んでいる。多和田さんも冒頭でベルリン・カント通りの喫茶店での思索を綴っていて、そのどこまでも自由でゆるりとした文体は読んでいるだけでうれしくなる。居合わせた他の客の動きを観察してみたり、会話を想像してみたり。

多和田さんは言う。

でもたまには町中に出てクマンバチのように襲ってくる他人の声に身を任せるのもいいんじゃないかな。それができなくなってしまったら、やっぱり何か欠けていることにならないかな。
だって、わたしたちの身体にはすでに一つの都市ができあがっていて、たとえ森で暮らすようになっても、その都市はいつまでも憧憬の叫びを挙げ続けるのだから。
多和田葉子,『百年の散歩』2020(12)

僕もそう思う。いつの時代、どんな場所でも騒々しさは安心感を生むものだ。自然豊かな諏訪平のはしっこで働くようになっても、僕の心の中には都市のガヤガヤとした騒がしさがあって、その下水臭い空気や薄ら笑いの店員、均一化されたカフェの内装にもノスタルジーを見出すのだから。

多和田さんといえば、忘れられない思い出がある。ジャーナリストになるべきか、それとも小説家やライターの道を選ぶべきか。進路に悩んでいた大学2年生の冬、他学部の講義に多和田さんが来ると聞いて、必修科目をサボって会場へ潜り込んだときのことだ。

講演終了後、多和田さんに思い切って話しかけ、「どちらの道に進むべきか悩んだ挙句、何者にもなれない気がするんです」と悩みをぶつけた。図々しいバカ学生の質問にもかかわらず、多和田さんは美しく微笑んで「それを素直に伝えられる君はきっと、何者かになれますよ」と答えてくれた。それがとても嬉しくて、それからますます何者かになりたくって、紆余曲折を経て記者の道を選んだ。

僕は何者かになれたのだろうか。これから何者かになれるのだろうか。スターバックスのゆるやかな騒がしさの中で今も自問自答を続けている。

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