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エッセイ 土台がなきゃ、男性器を叫べない

脳が疲弊しまくっております。星川実業と申します。趣味で書き物をしているのですが、最近は初の長編小説に挑戦し普段との勝手の違いに苦戦しております。ちんぽこ。

その中で大きな課題が「自分が言いたいことは何か」です。本日はその話を中心に脳内を整理致します。ぽこちん。

テーマ1 なぜ書くのか

そもそも人はなぜ文章を書くのだろうか。モチベーションは様々だと思う。伝えたい事実がある、表現したい世界がある、人を楽しませたい、自分が楽しい、金や評価になる、後から記録を振り返りたい、etc

小説等の創作となると目的はさらに狭まる。吐き出されたものは圧縮された苦しみなのかもしれないし、強い怒りなのかもしれない。目的なんかなくて書かずにはいられなかった叫びなのかもしれない。その自由さが許される。故に美しい。叫びを明確にする過程も、自分だけの感覚を言葉に変換して相手へ伝えようとする過程も、美しい。

じゃあ自分はどうなんだ。言いたいことはあるのか。無い。特に無い。じゃあ書かなくていいじゃないか。はい。

それが今までの人生だった。

noteを始めた理由は自己開示をしたいから、そして痕跡が欲しかったんだと思う。こんなことを考えているアホなやつが居ましたよという痕が欲しくなったのかもしれない。1人の人間が生きて、そこから出てくるものが何の痕跡にも残らないのは勿体無いような気がした。無価値な情報だったとしても「こんな生き方をしているとこんな人間になりますよ、やめておきましょう」と失敗を示せた方が有意義なんじゃなかろうか。nullの結果というやつ

何にとって有意義?人類にとって?そんな大袈裟なことは普段考えていないが、本能的なものなのかもしれない「何か残さないと勿体無い気がする」という感覚は確実にある。

テーマ2  何を書きたいか

書いていて気持ちが乗る瞬間、書きたいことがどんどん出てくるのはどんな時だろう?を感じ取るために色々と実験をした。その瞬間にこそ「自分が書きたいこと」が詰まっているのではないか、と

私は文章が下手だが、ただ文字を埋める作業は学生時代から得意だった。試験や課題で出された文章を◯◯文字以内で要約しろとか感想を書けと言われて苦労した記憶が無い。数えずに感覚で書いてピッタリとマスを埋めて小さな達成感を味わっていた。内容はスカスカである。これは全く「書きたいこと」ではない。文字数を埋めるだけの軽い言葉、嘘の文章である。

それとは真逆、重たくて、筆が進まなくて、でも気持ちを込めたくて苦しんだ体験。そこに自分の書きたいことの本質があるんじゃないか。スラスラと嘘の文章を書いてきた自分にそんな瞬間があっただろうか。

思い当たったのは手紙だった。


小学校時代、子供から親へ手紙を書こうという授業があった。国語か道徳の時間だったか忘れてしまったが、よくある感謝の手紙というやつ。我が家は母親が早死にしたので祖母が親代わりだった。年齢的にも大変だろうに育ててくれてありがとう、という旨の、よくある手紙を書いた。単純な文言だったが、書き方はこれで良いのかとか、いつもより字を綺麗に書かなきゃと緊張感があった記憶がある。

その後の授業参観の日、親から子供達へ手紙が配られた。サプライズである。口煩い祖母のことだからちゃんと勉強しろ!とか、そろそろ風呂に入るか〜と連呼しながらゲームやり続けるな!(早く風呂入れと言われないために、入る意思はありますと連呼することでゲーム時間を延長する姑息な手法)とか説教されるんだろうなと思っていた。

手紙を開けると、殆ど謝罪だった。みんな親が居るのに貴方には居なくて申し訳ない、こんな婆さんで申し訳ない、気を遣って色々と我慢させてしまって申し訳ない、etc。手のかからない自慢の孫だが困った時はちゃんと相談して欲しい、手紙ありがとうと。

もっとちゃんと、語彙も表現力もない自分には難しかったが、もっと色々な言葉で手紙を書けばよかったと反省した。

高校時代はメールだった。ラブレターなんて上等なものではなく、感謝の気持ちを書いた。死にかけるほど精神的に参っている時に救われたこと、迷惑かもしれないがとても深く感謝していること。こんなこと言われても気色悪いだろうし、他に好きな人が居ることもなんとなく分かっていたが、どうしても伝えたかった。書かずにはいられなかった。自己満足でしかないが、感謝の気持ちが僅かでも伝わって欲しいと強く祈った。

自殺未遂をして助けられてしまった時。謝罪と感謝の手紙を書いた。死なせてくれよという気持ちを抑えながら、こんな人間のために労力を割かせてしまったことがただただ申し訳なくて、全然筆が進まなかった。テンプレートに当てはめればすぐ書けただろうが、それではあまりにも不誠実すぎる。せめて自分の言葉で伝えねばなるまいと思った時、文章は難しいんだなと再認識した。

杞憂かもしれないが、一応揉めないように念のため遺書を書いておこうと思った時、やはり筆が止まった。株の扱いまで明記しておくべきだろうか。妻にどう伝えれば有効な運用をしてくれるだろうか。妹達は多分大丈夫だろうが、いざという時のへそくりくらいにはなるだろうか、etc。


結局「特定の誰かに心から伝えたいこと」がある時、筆は重くなり、嘘の文章は出てこないなと実感した。小説を書く時も、この重たくて進まない、嘘ではない筆で書きたい。どうすれば実現できるか?が目下の課題である。


テーマ3 目的を定めずに叫べるか

ちんちん〜〜!!(ぽろんっ

現代で顕著だが、例えば配信者が配信一本で金を稼ぎ飯を食っていこうとすると当然金になるコンテンツをやらないといけない。一握りのカリスマや異常な存在を除いて、自分がやりたいことや言いたいことは削った方が合理的だ。

YAZAWA氏も似たようなことを言っていた。だからこそ、自分が本当にやりたい音楽や表現を守るためには金が要ると。確かな基盤を作らなければ、嘘をやらなければいけなくなると。

この話は、金以外にも当てはまるなと思う。関係性や地位等。「自分の立場でこれを言ったら非難されるな」とか「これを言っておいた方が好感度上がりそう」とか。

もしかするとこれらも嘘の言葉になってしまうんじゃないか?と気付いた。

実生活をする上では必要な概念である。マナーとか配慮とか社交性とかそれらは全て意味のある、円滑な文明のために必要な要素だろう。しかしそれが書き物、特に小説となると嘘になってしまうのではないか。

「これを言ったらウケるだろう」とか「こう書いた方が支持者は喜ぶだろう」とか。これらは嘘の、軽い文章なんじゃないか。SNSやメディアでとにかく共感を集める方向へ偏ったコンテンツが気色悪くて胡散臭いのは、周りから見てどう見えるかを取り繕いすぎて自我を失った、嘘の集合体だからなのかもしれない。ネットミームと漫画のコマでしかやり取りができない人々が抱えた一種の病とも言える。

会話は互いに正解を言わなければいけないクイズになっている。コミュニケーションをクイズにするな。自分の受け入れたいもの以外を無視する行為をコミュニケーションとは呼ばない。

赤ちゃんの絶叫は純粋な叫びだとか魂の叫びだとか言われる。生物学的にも正しいだろう。生存するために本能的に叫ぶ。しかし人はいつからか、目的のために叫ぶようになる。口に出して叫ぶだけで楽しかった「うんこ〜〜!」という叫びがいつからか、周囲にウケるから叫ぶようになる。好きな子の興味を惹くために、ひょうきんな奴だと思われるために、場を和ませるために、奇を衒うために、目立つために、他に誇れるものがなくてアイデンティティを獲得するために、うんこ〜〜!と叫ぶようになる。

昔はただの純粋な叫びだったものが、いつからか、嘘の、軽い言葉、ただの大声になってしまう。なんて悲しいんだろう。そもそも、赤子のギャン泣きは魂の叫びで、50代中年無職童貞男性の突然のギャン泣きは異常者の鳴き声扱いされるのもおかしい。叫ぶ以外に選択肢がない赤子よりも、他に無数の可能性があったはずの中年男性のどうにもならなくなった鳴き声の方が遥かに純粋で魂の叫びではないのか。いや、純粋を超えて濃厚だ。純粋すぎて透き通ったスープが濃くなってやばい色になっている。センチュリースープを超えた天下一品超センチュリースープである。なんの話だ。


これも、土台が必要だ。俺はこういう人間で、あとのことはどうでもいい。叫びたいことを叫ぶ。意味も結果も要らない、叫ばずにはいられないから叫ぶ。そうなってこそ、本当の叫びを思い出せるんじゃないか。

文章内に突然出てくる「ぽこちん〜」もそんな葛藤が漏れ出ている。本文中から探してみよう。ぽこちんと言うと、コロコロコミック的な、全体的にぷにっとした小さくて平和的な子供の男性器を連想しないだろうか。ちんぽこになると、中学生くらいの若干性のニュアンスが出る気がする。同じ男性器を叫ぶにも、本当に湧き上がる叫びの本質を追っていたい。男性器名称考察をしすぎて壊れてしまったのか、真理に辿り着きつつあるのかは分からない。ただ、私は文中に突然出てくるなら「ぽこちん」が一番気が和む気がする。

目的を定めずに叫ぶこと、その後で、叫びの本質を見つめること。相反する行為だが、真の重たい言葉を綴るためにはどちらも必要なのかもしれない。

テーマ4 そのまま描くな

私の書きたいことは何なのか、と向き合った結果出てきた大きなテーマは「人生の肯定」なのかもしれない。私も貴方も色々あったけど、みんなの人生を肯定していたいね、と。なんとも凡庸で面白みの無いテーマだが、大切なことは得てして凡庸なのかもしれない。手紙でありラブレターであり遺書である。貴方は自分の人生が嫌かもしれないが、私は肯定したい。貴方もいずれそうなって欲しい。分かったような口を聞くなという話だが互いに想像するしかない。貴方の痛みは誰にも伝わらない、なぜなら私の痛みも貴方に伝わっていないだろう。だから想像するしかないよね。そんな祈りかもしれない。

突き詰めると、自分の人生を肯定したい現れなんだろう。家族を壊した宗教団体も、遺産に群がってきて食い潰した親族も、友人の死を馬鹿にするTwitter民も、許し難い存在もひっくるめて全ての人生を肯定したい。それと同時に、全ての命を奪ってフェアにしたい強い怒りもある。それに嘘をついてはいけない。向き合い続けなければ、本当の言葉は出てこない気がする。ぽこまる(ちんぽこネーム

で、言いたい事をそのまま書くと小説にならない。突然なんだこいつ?で終わってしまう。物語の中に、登場人物の中に、風景に、文体に、描写に、それらを練り込む必要がある。とても難しい。技量のある人は、意図的に読み手を楽しまる工夫や表現を駆使して良いコンテンツを作りつつ自身のメッセージも上手く練り込むのであろう。自分には全くできる気がしない。きっと表層だけ真似して、小手先だけの薄くて面白くない文章になるだろう。それは嫌だ。綺麗事だけど、下手だけど良い音を出したい。重たい筆で本当の言葉を紡いでいたい。

男の娘を抱きたい!と書いていたら小説にならないし、男の娘にウケるにはこういう文章だろうと打算で書いてもそれは軽い嘘の文章になってしまう。物語全体から男の娘を抱きたいという魂が滲み出た時、それが本当の小説になる、ということなのではなかろうか


まとめ

・筆が重たくなる、本当に言いたいことを探して紡いでいたい。

・ぽこちん


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