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《短編小説》ドットスペース

「実にたいした部屋でしてね」

調査員にむかって得意げな表情をした社長が言った。そしてとっくにおなじみのはずのそれを、あらためて感嘆の面持ちでしげしげと見つめた。まもなく、調査員がこの中に入り安全性を検査することになる。今回は珍しい事業のということもあり、いつもなら調査員が一名しかこないところが特別に二名来ることになったのである。社長としてはそのことがさも満足だったのであろう、表情を見れば一目瞭然である。

その二名の調査員がこのマンションの一室に入ったとき、目の前に突如として現れた巨大で真っ黒なオブジェがあるという異様な空間に圧倒されたらしく、間の抜けたように口をぽかんと開けていた。しかし一人の若い調査員は、興味津々な様子ですぐに目をキラキラと輝かせた。少々変わり者なのだろう。もう一人の調査員は貫禄のある中年の男性で、仕事柄か、あまり感情を露わにしないような素振りを見せているが、黒い壁に取り付けられた機械をチラチラと見る目は、それが本意ではないことを告げていた。

「さて、少々おまちくださいよ」

遠目から見たら黒い壁についた擦り傷のような線状の突起が、この部屋をコントロールしている操作盤で、社長は部屋の稼働のため操作盤についているスイッチをパチパチと切り替え、扉の部分を点検したりと最後の仕上げに余念がなかった。

「はい、もうはじめられますよ!」

準備が終わったらしく、勢いよく振り返って二人の調査員に声をかけると、若い調査員が身を乗り出した。

「それではどちらの方が入られますかな?」

社長は悪戯に言った。口元は隠しきれずにやけている。

「エエ、わたくしが調査させていただきたく思います」

若い調査員は社長を上目遣いでチラリと見て、鼻息を鳴らしながら頭をペコペコと下げた。

「わかりました。では最後にこの部屋の説明だけさせていただきます。この部屋のことは、もう調査書をみてご存知かと思いますが…」

若い調査員は曖昧な反応をした。恐らくしっかりと調査書に目を通していなかったのだろう。その反応を見た社長は、これ幸いとばかりにいそいそと説明を始めた。

「そもそもこの部屋は…」
社長は、黒い壁に片手をついて物思い顔にその部屋を見た。そして意気揚々と振り返り、得意気に説明を始めた。
「わたくしの旧友が発明したものでして、わたくしもそもそもの最初から関わってきました。完成まで、ともに仕事をしてきたのです。……旧友の死に際し、わたくしがこの発明品を受け継ぐことになったのですが、イヤ、実に素晴らしい内部機構でしてね。この機構には全く非の打ち所がないので、数年間、いや数十年間は全く手をつける必要がないだろうと思われます」

社長はスーッと鼻から息を吸い込んだ。

「さてこの部屋ですが、外側からでは分かりにくいのですが正方形の部屋となっております。内壁もこの外壁と同じように真っ黒に塗装しておりまして…」

社長は光の反射のない真っ黒な壁を四本の指で愛撫するように叩いた。

「エエ、外側の壁も真っ黒に塗装したのは、実はわたくしの個人的なアイディアなのです。旧友はそこまでする必要はないだろうと言っておりましたが、やはり内装まで黒く、こだわらないと、そうですね、一種の…。そう、心が奥に引き込まれるような、そういった神秘性を表現できないのではないかと思いましてね。この部屋のコンセプト自体が宇宙的なものでございますから、そういったものに近づけるためにわたくしが個人的に手を加えたわけです」

調査員は複雑そうな顔で頷いた。

「部屋の壁は何重にもなっておりまして完全防音の無響室となっています。地上で最も静かな場所の一つにミエアポリスの無響室がありますが、わたくしが今回作ったものは、その無響室の残響時間すら超えるものです。壁にも床にも多孔質のくさびが張り巡らされておりまして、低周波音はくさびに当たったのち、このくさびの形によって反射して減衰してなくなるまで反射し続ける仕組みになっています。一方、高周波はくさびに当たったら素材に吸収されて消えてなくなるという仕組みになっています。まあそこまではミエアポリスの無響室と同じなのですが、これが三重にもなっているというのが他の無響室との大きな違いなのです。……エエ、そこまでする必要はないと思われるかもしれませんが、この徹底ぶりのおかげで、残響時間はほぼ全くの0です。音に関して言えばもはや真空と変わらないのです。………部屋の中を密閉して耳を澄ませると自分の心臓の音が簡単に聞こえてきます。だからほら、部屋はこんなに大きいのに中はこんなに小さい……」

社長は二段のアルミ製の階段を駆け上がり、密閉性の高そうな二重扉に手をかけた。扉はそれぞれ外開きと内開きになっている。社長が内開きの扉を開けた時、突然、吸い込まれるような真の暗闇が現れた。

「……部屋の中には光が一切届かないようになっておりますので、部屋がどのくらいの広さかというのは中に入って、その手で壁を触るまで分からないのですが」

そう言って社長は笑った。

「これは、ソノ、大丈夫なんですか?」

若い調査員は表情を曇らせた。殺風景な部屋に突如として現れた、光をも吸い込む暗闇。夜中の海を覗き込んだときの闇の中にどこまでも落ちてしまうような恐ろしさ、絶望感。虚無感。若い調査員が感じたのはそういった一種の原初的な恐怖だった。

「ええ、もちろん」

社長はおもむろに自身の右腕を暗闇の中に突っ込んだ。暗闇に包まれた腕は、明確な境界線で切断されたようにして消えた。若い調査員は、不自然な境界線に唖然とした表情を浮かべ、その予想通りの反応に社長は頬を緩ませた。

「これがまた、こだわりの仕掛けを施しておりまして。この部屋の壁には光を吸収するあらゆる素材を採用していましてね、だから出入り口を境に、ホラ、こんな風に……アラ不思議、急にモノが現れたり……消えたりするんです」

そういって社長は手を出し入れしながら若い調査員の反応を伺った。若い調査員は相変わらず警戒の色を解いておらず、暗闇を茫然と凝視したまま心なく頷いている。

「エエ、エエ、ご心配ならさず。安全にはこの上なく配慮しておりますので」
「それでは一度明かりを付けて中を見せてもらえませんか」
「それはまだできません」
「は?」
「……この中では一切の感覚が研ぎ澄まされます。だから、もしかすると気分が悪くなるかもしれません。そういうときは、こちらのボタンを押してください。すぐに扉が開きますから。無理やり出ようとしたり、パニックになって暴れたりしないように、このような仕掛けを施しているのです。なんせ、結構…お金がかかってましてね、何か壊される前に連れ出すようにしておりますので」

社長は携帯サイズの灰色の端末をポケットから取り出すと、若い調査員に差し出した。中央にボタンが付いている。

「……あの、質問なのですが」
「…はい、なんでしょうか?」

若い調査員は端末を受け取らなかった。

「扉を閉じると部屋は密室になりますから、それで暗闇というのは間に合っているのではないでしょうか。…何故あえて特別に多額のお金をかけてまで内部を暗くする必要があるのでしょうか…」
「ええ、それも私独自のアイディアでして」

よくぞ聞いてくれたというように社長は頭を激しく上下に動かした。ついで熱い視線を若い調査員に注いだ。

「旧友もあなたと同じことを言っていました。たしかに、扉を閉めると暗闇は作れるかもしれません。しかし、私はただの暗闇では、意味がないと思いましてねー」社長は眉間に皺を寄せ、眉を下げた。「ーあなた、『2001年宇宙の旅』をご存じですか」
「…?…いえ」
「ご存じでない?…と、いうのもですね、この施設はその映画に影響を受けおりまして、特に作中に登場するモノリスという黒石板…私はそれに惹かれたのです。そのモノリスというのは、宇宙の彼方から人類に知恵を授けにやってきた高次元の知的物体だと考察されておりまして、映画ではまだ人類が類人猿だった時代に、モノリスが地球に現れるんですよ。そのモノリスに触れた猿たちは突如として道具の使用を覚え、どんどんと進化していくんです。道具を使えるようになった人類は攻撃性を発展させ、その力と武器の扱いによって生物の頂点に登りつめ、進化の一途を歩んでいくことになったわけです。それから時が経ち舞台は2001年、その時代の人類は既に宇宙開発を進めておりまして、主人公の男性は木星の近くでモノリスと再び、時代を超えて遭遇するんですよ。その男はどうなったと思います?猿が道具の使用を覚えるほどの進化をしたのです。では人類はどうなるのでしょう。その男性、エエ、人智の及ばないような凄まじい映像が脳内で瞬く間に起こるのです。このときの映像が映画評論家さんには賛否両論でしてね……まあ、いい。そうして、その凄まじい映像を見た彼はスターチャイルドという人智を超えた人類、つまり新人類という人類の次の段階の生命体に進化することになりましてー」

社長は、自分がいま誰と話しているのか忘れているようだった。

「ええっと…」

若い調査員は額に皺をよせた。

「つまり、何故暗闇に暗闇を重ねるようなことが必要なのでしょうか」

中年の調査員が口を開いた。この状況を見かねたのだろう。

「…すみませんね…つまりですね、現代の科学に脳を毒された人類が次のステージに進むためのモノリス、それがこの『ドット・スペース』に他ならないわけです。それが、宇宙的でないわけにはいかないでしょう。それが神秘的でないわけにはいかないでしょう。外から光を当てたら内部の構造が見えるなんて、そんなの全然神秘的じゃない。むしろ、科学的だ。科学がちらつくようでは逆効果だ。こんな暗闇の技術は、世界中のどこを探しても使われていません。手品もタネ明かしされない限り、それは魔法に匹敵します。私の言いたいことがお分かりでしょうか?」
「…ここには”自律神経の調整施設”と書かれていますが?」

中年の調査員は、調査書の1ページ目を指さして社長に見せた。

「…ええ、そうです。間違いありません。もちろん自律神経の調節も兼ねております。究極の無音、究極の暗黒、そういった非日常的な空間に身を置くことで人間のストレスは癒されます。この部屋に入ると最初は自分の服の擦れる音が聞こえます。少し動いただけでいちいち聞こえてくるのです。次に自分の呼吸音、口周りの音、喉の音が聞こえてきます。長くこの部屋にいると、血液の流れる音も聞こえる。血が脳を巡る音がね。何かが鳴り響いているような……脈うっているような感じ…しゅー、しゅー、しゅー、と。静かで、身体全体が息をしているような、普通に生活しているだけでは絶対に味わえないような得も言われぬ快適さがあります。もしかしたら、ヨガの達人や道士などが辿り着く境地なのかもしれません。とにかく三十分もこの施設の中にいると、もう外には出たくなくなりますね。外の雑音を想像するだけで心底嫌になる。この宇宙的空間こそが人間を最もリラックスさせ、そして最も効率的に脳を活性化させることができるのです」
「…なるほど」

中年の調査員は、若い調査員に目を配らせたが、若い調査員はまだ暗闇を見つめたまま固まっていた。

「では早速、入られますか」
「…ア、ええ」

若い調査員は躊躇った。社長は片足を暗闇に入れ、安全なことを証明しながら若い調査員に手を差し伸べた。中年の調査員は口を結んだまま、その様子を見ていた。

「あの…、では、扉は開けたままにしていただけませんか?」若い調査員は言った。

社長は無言のままじっと見つめ、それから相手をはげますように笑いかけた。

「…やはり密室でないと、…わかりませんから」
「…、イエ、あのー、中に危険なものがないかとか、そういうのをチェックするだけですから」
「いやいや、ないですよ」

社長は暗闇に隠した手を握りしめていた。

「…あのーですね」中年の調査員がばつの悪そうに割って入った。「無響室に長時間居続けると正気を保っていられなくなるという調査報告がありまして、それによると、人間の精神が正気を保っていられるのは四十五分が限界だとされているようです」
「はあ、そうですか」
「もっとも、精神的に弱い方だと、それより早い時間でパニックになったり、幻覚が見えたり、とにかく精神的な障害が現れるようになるみたいで、やはり無響室というのは閉鎖感があるようで…」

社長は困惑したが、中年の調査員は構わずに続けた。

「普通の部屋にいるときは残響を感じて、自分の周りにある程度の空間があるのがわかりますが、無響室では残響がないから、現実よりももっと狭い所にいるような感じがするのだと…、反響にまつわる精神的な不安だと思うんです。周りの音があるのが『いつも通り』じゃないですか。それがないから、ちょっとしたパニックになるんですよ。いつもあるはずのものがそこにはない。そういう不安がストレスを増大させるから、脳が違和感を埋め合わせるために幻覚を見せたりするのではないかと」

調査員のまるで自分が経験したかのような口ぶりに社長は苛立っていた。調査員は一息つくと、また話し始めた。

「調査報告書を元に判断するのが我々、調査員の仕事ですからね。それで…そういった危険性と、…先ほど説明して頂きましたような宗教的…な意図を加味しますと、やはりこの施設はあまりに危険でして」
「どうですか。実際にこの中に入っていただいて、ご自身の感覚で確かめられてはいかがですか。それが調査員という仕事ではないでしょうか」
「いえ、もう結構です」
「は…?」

突然の打ち切りに、社長は何度も目をパチパチさせた。しかし、その間にも相手から目をそらさない。

「…それでは私たちはこれで失礼します。もう少し安全性や信頼性のある施設にしていただけたらと思います」

社長は黙ったまま中年の調査員を見ていた。若い調査員は目で合図されると、中年の調査員の元へ躊躇いがちに駆け寄った。そして調査員二名は部屋を出入口に向かった。

「そうですか。…ここのやり方にご不満なんですね」

若い調査員は弁解したそうな表情でチラリと振り返ったが、社長はそれ以上何も言わなかった。もう一人は振り向きもしなかった。

「わかりましたよ」

何かを訴えるような目つきで、やにわに中年の調査員の後ろ姿を凝視した。

「それでは、失礼します」

調査員らは最後にこちらを振り返り、目も合わせることなく挨拶し、部屋を出た。階段を降りる時の音が、部屋中に虚しく響き渡った。社長は一人、その場に突っ立っていた。それからしばらくして、社長は部屋の鍵をかけ、カーテンを閉じた。そして開け放たれたままの暗闇に向かってため息をついた。

「この中に入ったら一体どうなってしまうのだろうか…」

そして暗闇の中に頭を突っこんで、見渡した。

「おーい…友よ、どこに消えたんだ…。私には1人で入る勇気はない。またほかの誰か連れてくるから、待っていてくれ」

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