見出し画像

絶対的精神の自由を求めて…『荘子』万物斉同の哲学

荘子は紀元前369年頃から紀元前286年頃にいたとされる人物で、万物斉同と因循主義によって精神の自由と平安を求めた中国の思想家で、道教の始祖の一人とされる人物だ。

そんな荘子の著書が『荘子』である。といっても『荘子』の著者はそのすべてが荘子というわけではなく、『荘子』は前漢(紀元前206年-8年)の初めごろまでのほぼ百五十年間にわたる荘子学派の集積であり、荘子自身がどれを書いたかということは正確には分かっていない。

荘子思想の理想は「仙人」

荘子の思想は「無為自然」を基本としており、自然の成行きのままに身を任せる自由な生き方を根本とする。人手が加わることを避け、俗世を離れ、無為の世界に遊ぶ姿勢をもちづつける、そんな荘子の理想とする人物とは、まさに仙人である。仙人の説明についてこうある。

肌は雪のように白く、肢体はしなやかで乙女のようであり、穀物は食べないで、風を吸って露を飲み、雲気の流れに身をまかせて、そのようにしてこの世界の外の世界で遊んでいる者。

人の領域を超えた存在だと思われるが、これは自然と同調している「無為自然」を体現した人間の理想的な姿を想像したものと思われる。

仙人は、大自然的な思想を持っているため、俗世的に起こる小さなことには興味がないのだ。仙人の特徴をもう少しみていこう。

・逆境のときでもむりに逆らわず万事をあるがままにまかせて思慮をめぐらすことがない
・過失があってもくよくよ後悔しない
・うまくいっても自分にうぬぼれることがない
・ものを食べてもうまいものにひかれることがない
・生を悦ぶということを知らない
・死を憎むということを知らない
・生まれてきたからといって嬉しがるわけではなく、死んでいくからといって嫌がるわけでもない
・どうして生まれてきたのかその始まりを知らず、死んでどうなるのかその終わりを知ろうともしない

仙人は、ひたすら自然のままに身をまかせていることがわかる。そして、仙人が自由奔放でいられるのは、仙人の思想の根底に、荘子で説かれる「万物斉同の哲学」があるからだろう。

荘子の万物斉同の哲学

わたしたちはこの現実世界のなかに、大小・長短・善悪・美醜・生死などといった、さまざまな対立差別のすがたを認めている。そして、それを現実の真の姿だと信じている。しかし、それは人間の勝手な認識判断であって、客観的な世界の真のすがたとは言えない。

大きなものをみても、さらに大きなものをみたとき、さきほどのものは小さくみえる。人間の思う美しさは鳥や魚には通用しない。善だと思っていることも他からしたら悪かもしれない。すべての対立差別は一時的で相対的なかたちにすぎないのだ。

それにも関わらず、人間はその差別の姿にとらわれ、そのために無用の苦しみを繰り返す。偏見を去り、執着を棄て、さらには人間という立場をも放ち棄て、この世界の外からふりかえるとき、はじめて客観的な世界の真のすがたがみえてくるのだ。そして、相対的な価値を追求することをやめて、自然の道理に身をまかせていくこと、これこそが荘子の説く『絶対的な精神の自由』の教えだ。

荘子の万物斉同の哲学は、宇宙視点でものを捉える方法ともいえる。宇宙から見たら、大きいというのは同時に小さいことであり、長いものは同時に短く、善いことは見方を変えると悪いことであり、死ぬことは生まれることでもある。荘子という人物は、その鋭い洞察力で宇宙から地球にいる自分を客観視していたのかもしれない。

宇宙規模の客観視で世界を見た時、知識というものは絶対ではなくなる。また、さまざまな判断は言語によって行われ、言語によって示されるが、その言語すらも普遍的なものでもなければ、固定的なものでもない。

そのため、言葉により自然の働きを語ることはできず、心によってそれが何をしようとするのかを推しはかることもできない。故に幾ら論じても相対なる現象から離れることができず、ついに過ちをおかしてしまうものだと荘子は言う。

荘子は『人間がその知識で是非弁別を確定し得ぬことを知れ』と言うが、それはソクラテスのいう『無知の知』と似ているように感じる。

まとめ

荘子の万物斉同の哲学は、全ての対立差別をなくし、偏見を去り、執着も棄て、さらには人間という立場をも放ち棄てるという、究極的に自然の道理に身をまかせていく考え方である。

自然の道理に身をまかせることは、つまり宇宙の法則に従うということであり、それこそが「道理に従う」ということでもある。

荘子は一貫して、不知を論じ、意識作用(知・感覚)に拘泥するなと教えている。荘子の文中に、質問された道士が「分からん(不知)」と答える場面が頻出するが、この答えこそ、言葉に影響されることなく、道理に従い生きる者の答えなのだろう。

荘子のこのような自然の流れに身を任せる姿勢は「無為自然」が基本にある。そして同じく、道教の始祖の一人、老子の思想の根幹を成すのも「無為自然」である。なので、荘子と老子の思想は、合わせて「老荘思想」と呼ばれ、中国思想の根底の思想として存在し続けている。

余談 仏教の禅と荘子の思想

仏教の”禅”の形成も”荘子”なくしては考えられないとされている。

実り多き長命に固執し、かえって死に怯え、不毛な是非弁別に迷って相争うような、意識作用にとらわれず、無窮の境涯の中に、大いに己が生命を平安あらしめようではないか
荘子

これはまさしく、ただ無心で自然との調和を図る”禅”の思想である。このように、荘子は後世のさまざまな思想に影響を与え、未だに崇高な思想だと評価されている。


参考文献
荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1) 文庫 – 1971/10荘子 (著), 金谷 治 (翻訳)
荘子 第2冊 外篇 (岩波文庫 青 206-2) 文庫 – 1975/5/16荘子 (著), 金谷 治 (翻訳)
荘子 第3冊 外篇・雑篇 (岩波文庫 青 206-3)文庫 – 1982/11/16荘子 (著), 金谷 治 (翻訳)
荘子 第4冊 雑篇 (岩波文庫 青 206-4) 文庫 – 1983/2/16荘子 (著), 金谷 治 (翻訳)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?