見出し画像

孔子の『論語』に学ぶ聖人への道 ≪目安時間10分≫

聖人…なんと尊い響き…、そして我々一般人とはあまりにもかけ離れた存在…、ああ、しかし、聖人とは一体…?

今回はそんな謎に満ち溢れた聖人についてよく分かる『論語』という書物について説明していく。

『論語』とは春秋時代(紀元前770年)の中国の哲学者である孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子たちが記録した書物である。

『論語』は孔子を始祖とする思考、信仰の体系である儒教の経書の1つに数えられる。儒教の代表的な経書は『論語』『孟子』『大学』『中庸』の4つがあり、この4つの書のことを「四書」といい、儒教で重視されています。

 その中でも『論語』には、君子(徳の習得にはげむ人・徳のできあがった人)のあり方が細かく書かれています。ざっくり言うと「道徳のテストの模範解答集」です。ちなみに『論語』でいうところの「徳」というのは、心に取得して身から離れないものを指すそうです。

 徳は仁・義・礼・智・信の5つに分類されており、これらを身につけようと励む者、または身につけた者を君子といいます。仁・義・礼・智・信というのは日本でも大事とされている事ですが、これらの教えの親は孔子なのです。

『論語』は全20篇で構成されています。
学而第一(がくじ)
為政第二(いせい)
八佾第三(はちいつ)
里仁第四(りじん)
公冶長第五(こうやちょう)
雍也第六(ようや)
述而第七(じゅつじ)
泰伯第八(たいはく)
子罕第九(しかん)
郷党第十(きょうとう)
先進第十一(せんしん)
顔淵第十二(がんえん)
子路第十三(しろ)
憲問第十四(けんもん)
衛霊公第十五(えいれいこう)
季氏第十六(きし)
陽貨第十七(ようか)
微子第十八(びし)
子張第十九(しちょう)
堯曰第二十(ぎょうえつ)

 この篇の頭についている名前は、孔子の弟子たちの名前です。ちなみに12の顔淵は孔子のお気に入りの弟子だったそうです。『論語』には孔子と弟子のやり取りが書かれており、読んでいくうちに孔子の人物像がじょじょに分かってきます。興味のある方は読んでみてください。

 それでは『論語』で述べられていることを紹介していきます。読んでいくうちに聖人とはどんな人なのかが分かってくるかと思います。

相談を受けやすい人

 相談を受けやすい人は、おだやかで、すなおで、丁寧で礼儀正しく、遠慮深く物静かで、相手を敬って自分を低く謙遜する人だと言われています。

 孔子は国の代表者としていろいろな国に赴いていたのですが、どこに行っても上記のことを守り、腰が低かったので、よく偉い人から相談を受けていたそうです。

相手が自分のことを知らないのは当たり前

「自分のことを分かってくれない相手がいるんですよー」と相談してきた弟子に孔子はこのように言いました。

なーにー?やっちまったなー!漢は黙って、相手が自分のことを知ろうとしてくれないことは気にせず、自分が相手を知らないことを気にかけること。相手が自分のことを知ろうとしてくれないことは気にせず、自分に才能のないことを気にかけること。自分を認めてくれる人がいないことは気にかけないで、認められるだけのことをしようとつとめること 

 相手が自分のことを知らないのは当たり前なのでイライラする必要はないということですね。

どうすれば給料が上がるの?

「どうすれば給料を上げることができるのでしょうか?」と相談してきた弟子に孔子はこのように言いました。

たくさん聞いて疑わしいところはやめて、それ以外の自信の持てることを慎重に口にしていけばあやまちは少なくなる。たくさん見てあやふやなところはやめて、それ以外の確実なことを慎重に実行していけば、後悔は少なくなる。ことばにあやまちが少なく、行動に後悔がなければ給料は自然にあがる。

 なるほど、自分が自信を持ってできることを慎重に実行していけば自然と給料は上がるということですね。

弁が立つ必要はない

 よく、世渡りの上手な人は舌先をよく転がして出世してるような印象がありますよね。しかし、そんな人に孔子は苦言を呈す!

口先の機転で人と対応しているのでは、人から憎まれがちなものだ。徳のある人は口を重くして、うそをつかないことを第一にして、実践につとめるようにありたいと思う。

「口は災いのもと」ということわざがあります。不用意な発言は自分自身に災いを招く結果になるから、言葉は十分に慎むべきだという戒めです。今回の孔子の教えはまさにこのことを言っています。

 いくら口先が上手くても人から憎まれていては、いつか足元を掬われるかもしれません。

上の者も下の者も君子であれ!

 孔子は上の者(たとえば上司や総理大臣)のあり方についてこのように説いています。

上の者が礼を好めば人民はみな尊敬するし、上の者が正義を好めば人民はみな服従するし、上の者が誠実を好めば人民はみなまごころを働かせる

 上の者が仁・義・礼・智・信を兼ねそろえた君子だと、下の者は君子を尊敬し、服従し、まごころを働かせるということです。

 また、上の者に仕える下の者の心得について孔子はこのように説いています。

上の者に仕えるときは、上の者を欺いてはいけない。そしてさからってでも諌めよ。上の者に仕えるときは、何よりその仕事を慎重にして、給料のことはあとまわしにする。仕事をするときは、その職分以外のことは考えないことだ。

 上の者に仕えるときは、上の者に対する礼を忘れず、自分の職分を全うすることに努めることが大事ということです。

嫌われない人間になるには

自分を深く責めて、人を責めるのをゆるくしていけば、怨みごと(怨んだり怨まれたりすること)から離れるものだ。

 誰からも嫌われないためには、人を嫌わず、自分を責めることです。

 たとえば満員電車から降りようとしたときに誰かに背中を押されてこけそうになったとしても「何すんだよ!くそ!」といって人を責めるのではなく「ちょっと自分がのろのろしすぎてたかな」と自分を責めることです。最初は難しいかもしれませんが、人のせいにしない生き方をしていけば誰からも嫌われなくなります。

有益なこと 有害なこと

 孔子は有益なことと有害なことについて明確に分けています。まず、友達について、孔子はこのように説いています。

有益な友達は、正直で、誠心で、物知りだ。有害な友達は、体裁ぶって、うわべだけのへつらいもので、口だけ達者だ。

 人生のうち多くの時間を共に過ごす友達はしっかり選びましょう。もしあなたの友達が有害な友達なら、有益な友達になるようにしてあげてくださいってことですね。

 有害な楽しみと有害な楽しみについても説いています。

有益な楽しみとは、礼儀と雅楽をおりめ正しく行ない、人の美点を口にし、すぐれた友達の多いのをを楽しむことだ。有害な楽しみとは、わがままかってで、怠け遊び、酒もりを楽しむことだ。

 有益な楽しみは仁・義・礼・智・信を楽しむということで、有害な楽しみは仁・義・礼・智・信とは逆のことを楽しむことです。

君子が戒めるべきこと!

若いときは血気がまだ落ち着かないので、戒めは女色にある。壮年になると血気が盛んなので、戒めは争いにある。老年になると血気は衰えるので、戒めは欲にある。

 若者、壮年、老年で特に戒めるべき欲があるので気を付けましょう!

徳がある人 徳がない人

 徳がある人とない人の違いをさまざまな状況で説明していきます。

 まず交友関係、徳がある人はひろく親しんで一部の人に気に入られるように振る舞うことはありません。徳のない人は一部の人に気に入られようと振る舞いひろく親しもうとしません。

 明るさについては、徳がある人は正義に明るく、徳がない人は利益に明るい人です。

 気持ちは、徳がある人は平安でのびのびしていますが、徳がない人はいつでもくよくよしています。

 人の見方は、徳がある人は人の良いところを探し、人の悪いところは探さないようにしますが、徳がない人はその反対のところを探します。

 落着きについて、徳がある人は落ち着いていて威張りませんが、徳がない人はいつも威張っていて落着きがありません。

 最後は党派について、徳がある人はつつしみ深く、軽々しい行いをせず、まじめで争わず、大勢といても党派を組みませんが、徳がない人は党派を組み争います。

聖人による政治『徳治主義』

『論語』には君子による政治についても説かれています。

 君子による政治は徳治主義(とくちしゅぎ)といって徳のある統治者がその持ち前の徳をもって人民を治めるべきであるとした孔子の統治論に由来する儒教の政治理念・思想です。

 そもそも政治とは何かというと、率先すること、ねぎらうことを怠ることのないようにすることです。

 政治をする者が率先して正しくしていたら、誰もが正しくなろうと努めるでしょう。わが身を正しくすることもできないのでは、人を正すことなどできません。

 政治をするにはまず名と実とがあっていることです。父は父らしく、先生は先生らしく、政治家は政治家らしく名と実が順当でなければ仕事が出来上がりません。仕事が出来上がらなければ儀礼や音楽が盛んになりません。儀礼や音楽が盛んでなければ刑罰がうまくいきません。刑罰がうまくいかなければ人民は不安で手足のおきどころがなくなります。だから君子は名をつけたらそれを言葉として言えるし、言葉で言ったらそれを実行できるようにするものです。

 政治をするには自分の言葉については決していいかげんにしないことです。

政治は智・仁・礼の実践

 智は人を知ることで、仁は人を愛することです。智は人民を治めるのに十分であっても、仁徳で守れなければ、たとえ人民を獲得してもきっと手放すようになるでしょう。智は十分で、仁徳で守れても、作法にかなった立ち振る舞いをしなければ、人民は敬いません。智は十分で、仁徳で守り、作法にかなった立ち振る舞いをしていても、人民を鼓舞するのに礼がなければ、まだ立派ではありません。

 政治は智で人を知り、仁徳で人を愛し、作法にかなった立ち振る舞いをし、礼をもって人民を鼓舞することができて初めて立派な政治と呼べるのです。

まとめ

 この記事で紹介したことは『論語』に書かれていることのほんの一部ですが、なんとなく聖人君子のあり方についてお分かりいただけたのではないでしょうか。

「論語知らずの論語読み」ということわざをご存知でしょうか。表面上の言葉だけは理解できても、それを実行に移せないことのたとえです。私も『論語』を読んだ身なので実行に移していきたいと思っているのですが、儒家思想には少しひっかかる部分もあります。と、いうのは『論語』で教えられている徳は、善と悪をきっぱりと分別しています。しかし同じ東洋思想である老荘思想では、善と悪の分別などないと言っています。

 老子は「あるがままに、自然の流れに逆らわずに暮らすべきだ」という無為自然の教えを説いており、その教えは儒家が重んじる仁義や善や智慧、孝行や慈悲、忠誠や素直さという形式的なものとは対立しているように思います。

 荘子は「人々はこの現実世界のなかに、大小・長短・善悪・美醜・生死などといった、さまざまな対立差別のすがたを認めているが、それは人間のかってな認識判断であって、客観世界の真のすがたではない」と説いており、その教えはやはり儒家の善と悪をきっぱり分別する思想と対立しているようです。

 ただ老荘思想と儒家思想が対立している思想だからといって、どちらが良いとか悪いということはありません。儒家思想は社会生活をする上では重要な思想ですし、老荘思想はのびのびとした自然な精神を持つためには重要な思想です。


参考文献
論語 (岩波文庫 青202-1) 文庫 – 1999/11/16金谷 治訳注 (その他)
共有

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?