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淺場 理早子「真の教育とは」

1.VUCAの時代に

IT技術の急速な進展や新型コロナウイルス感染症の拡大などにより、現代は先行きが不透明で、将来の予測が困難な「VUCAの時代」だと言われている。

コロナ禍に入り、その不確実性はさらに高まり、ビジネスの分野においては、新規事業に取り組まなければならないという機運は、ますます高まっている。

いっぽうで、大企業では事業立ち上げのプロセスを理解し、コーチングできる人材が少ないことから、外部に知見を求める流れが続いているようだ。

そうしたときに頼りになるパートナーとして、株式会社アドタグは選ばれている。

株式会社アドタグは、新規事業開発の研修やアドバイザリー、実証実験やマーケティング実務のハンズオン支援などを行う会社で、同社の代表取締役を務めているのが、淺場理早子 (あさば・りさこ)さんだ。

プロフィール写真


2.反発心から目指したもの

淺場さんは、1977年に静岡県静岡市で、3 人きょうだいの長女として生まれた。

兄弟写真(1)

両親が共に起業していたこともあり、小さい頃から何でも自分でやってしまう優等生タイプだったという。

兄弟写真(2)

「真面目で、とにかく曲がったことが嫌いな子どもでした。小学校6年間は学級委員長を務めていて、中学や高校に進学しても役員などに他薦されていました」と語る。

小さい頃は、スチュワーデスや花屋などに憧れていたこともあったが、小学校6年生のときに修学旅行で経験した反発心から教師を目指すようになった。

小学生時代(4)ディズニー(真ん中赤カーディガン)

「東京大学の『赤門』の前で、記念写真を撮ることになったんですけど、みんな騒がしくてなかなか整列しないとき、先生から『あんたたちの中で、1人も東大なんて入れないだろうから、いまくらい並んで写真を撮れ』と言われたんです。なんで、こんな人が先生になっているんだろうと怒りを覚えました。子どもの可能性を否定している人に教師なんてやって欲しくないし、教師になる人たちは大学を出て社会経験など積まずにずっと学校現場で働いている人たちが多いことを、あとから知ったんです。だから、私は社会経験を積んで、何かに挑戦する人を手助けできるような『教師』になりたいと思うようになったんです」


3.自信のあった英語

高校生3年生になって進路を考えるようになったとき、淺場さんが重視したのは、友だちと同じ大学に行くことよりも自分の個を尊重してくれる大学の存在だった。

そして、指定校推薦でリベラルアーツ教育を学ぶことのできる東京都三鷹市の国際基督教大学へ進学。

中学・高校の英語の弁論大会

英語が好きで中学・高校と英語の弁論大会に出場した経験もあり、語学力には多少自信を持っていたものの、海外で英語を身に着けた同級生たちと授業でディスカッションを行っていくレベルには届かず、苦労したようだ。

「英語では立ち向かえないなと思って、英語以外のスキルを見つけるため、パン屋や試験監督、家庭教師など、さまざまなアルバイトに専念するようになったんです」

しゃぶしゃぶ店で接客業として勤務していたときには、職場内でマニュアルをつくり、その功績が認められて50人ほどいたアルバイトの中でトップに躍り出ることができた。

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大学を卒業する頃は、就職氷河期で厳しい状況だったが、卒業後は大手外国語教室の営業職として働くことができた。

「コツをつかむのが上手だったので、当時全国で2000人ほどいた営業職のなかで、2ヶ月目には全国トップ20になっていたんです。でも、だんだん自分が関わることができる仕事の範囲が狭すぎて、仕事ができるようになってくると物足りなさを感じるようになり、9ヶ月で退職してしまいました」


4.挑戦をやめない

その後は、知人の紹介で、新卒採用の人事コンサル会社に転職した。

社会人2社目の人事コンサル営業時代(真ん中黒ジャケット)

ここでも営業成績をあげ、入社時は20人ほどだった会社も50人ほどに成長していったが、これまで小規模で比較的新しい企業ばかりで働いてきたため、「大手企業向けに新規事業を売るだけではなく、今度は大手企業の中で新規事業をつくってみたい」と大手タイヤメーカーに転職した。

「前職の人事コンサル会社では、『BtoB』で新規事業の無形商材を扱うことは難しいと言われていたなかで、販売実績を残すことができました。次は、完成された老舗企業のなかで自分がどう立ち回れるかを、この大手タイヤメーカーで試してみたんです。契約社員として新規事業開発の立ち上げを担当し、1年半ほどで引き継ぎを行って再び転職しました」

起業に向けて着実に階段を上っていた淺場さんは、これまでインターネットに関する事業に携わってこなかったことに気づき、株式会社ミクシィへ就職した。

2006年_mixiマザーズ上場時新聞一面に(beの画像にいる)

2000年代後半には、SNSの先駆け的存在として君臨することになる会社の創業期に携わり、事業部長として活躍した。


5.突然の転機

そんな淺場さんに突然転機は訪れる。

「ある日、通勤中に会社の目の前で涙が溢れてきて足が動かなくなってしまったんです。自分で原因も分からず、会社を休んで通院したところ、重度の鬱病との診断を受けました」

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30歳を目前に、睡眠不足と仕事のストレスにより、鬱病を発症した淺場さんだったが、休職しているうちに身体も回復。

再び会社に戻るべきか悩んでいたとき、「30歳になったら起業する夢を抱いていたことを思い出したんです。新しい目標ができた途端に、鬱病も治ってしまいました」と当時を振り返る。

まず起業にあたって、アメリカでは既に注目されていたシェアリングビジネスを検討していたところ、たどり着いたのが、自身も好きだったドレスに関するシェアリングサービスだった。

2009年に創業したレンタルドレス事業の店舗風景

2009年には、オンラインのドレスシェア『SHARELY』とリアルのレンタルドレス店『SHARELY CODE』を設立。

その後、都内で数店舗を展開したが、淺場さんの挑戦はまだ終わらない。

2015年_アントレプレナーズクラブ代表時代のプレゼンの様子

「ドレス事業は低単価の『BtoC』のビジネスだったので、1案件あたりの受注額や難易度の高い『BtoB』のビジネスに挑戦してみたいと思ったんです。今後、時代は副業やパラレルワークといった働き方に移行すると予期していたので、フリーランスの人や起業する勇気はないけれど自分のスキルを活かしたい人の力になれればと思ったんです」

2017年_仕事中@会議室

そうした願いを込めて、2017年1月に副業やパラレルワークの人たちと共に新規事業開発の支援を行う株式会社アドタグを立ち上げたというわけだ。


6.真の教育とは

「新規事業を始めることは難しいと思われがちです。そうした新規事業に初めて挑戦する人を応援したい」と語る淺場さんの眼差しは、かつて目指していた教育者そのものだ。

2017年_仕事中・展示会

これまでの多くの実践を武器に、淺場さんは大企業やスタートアップの複数プロジェクトとの伴走を続けている。

近年は、京都大学で教鞭を執るなど、その活動範囲もますます広がっているようだ。

2020年_京都大学大学院での特別講義中

でも、どこで活動をしようと、人の成長に関わっていくことには変わりない。

英語で「教育」を意味する“Education”は、ラテン語の“Educatio”(引き出す)が語源であるとされている。

つまり「個性や能力を引き出すこと」が教育の本質なのだ。

プロフィール写真_2021年

そのように考えていくと、誰かを支援し続ける淺場さんの背中に、僕は教育者としての姿を重ねてしまう。


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