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髙橋真由美「バラ色の人生」

1.社会保険労務士という仕事

世の中には実にさまざまな種類の社会保険や年金が存在している。

いずれも働く人たちにとっては非常に大切な制度だが、自分がどんな保険に加入して毎月いくら支払い、怪我や失業した際にいくら受け取ることができるのか、誰にも相談できずによくわからないまま制度を活用できていない人はとても多い。

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こうした人たちを助けるのが、社会保険労務士の役割だ。

さらに、企業から不当な扱いを受けたとき、経営者に提言して状況を正すことができる役目も担っている。

本日ご紹介する髙橋真由美さんは、静岡市内にローズ社会保険事務所を開業し、社会保険労務士として活躍を続けている。

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労務関係のスペシャリストとして順調な人生を送っているように見えるが、ここに至るまでの道のりは波乱に富んだものだった。


2.父の背中を見て

髙橋さんは、1976年に山形県米沢市で2人姉妹の長女として生まれた。

父の転勤の都合で、幼稚園から小学校3年生頃までは、酒田市、山形市、そして実家のある寒河江市と家族で転居を繰り返していたようだ。

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「父は幼少期からの病気が原因で、慢性腎不全と診断されて、私が小学校3年生のときには叔母をドナーにして腎移植を受けているんです。母が父の看病をしていたから、私はその頃、祖母に預けられていたこともありました」

小さい頃は、自他共に認める「ちょっと変わった子」だったという。

『聖闘士星矢』が好きで、テレビや漫画に夢中になった。

同年代の子と同じように、松田聖子や中森明菜と言ったアイドルに熱中し、歌番組が始まるとテープレコーダーをテレビ画面に近づけて録音していたようだ。

中学生になると、自ら手を挙げて、学校のさまざまな役を請け負っていたようだ。

「やりたくない仕事も結果として回ってきちゃっていましたけどね」と当時を振り返る。

小学校1年生のときからピアノを習っていたが、両手で弾けるようになると習い事をやめて、それからは自分で好きな曲を弾き始めた。

将来は中学の英語教師になりたいと憧れを抱くようになった。

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「中学校のときの英語の先生が、教室にギターを持参して授業で弾き語りするようなユニークな先生でした。お陰で英語が大好きになり、暇さえあれば英語の勉強をするようになったんです。中学2年生からは英語の弁論大会にも出場するようになったんです」


3.国家公務員として

高校は地元の県立高校へ進学した。

友だちを上手くつくることができず、クラスでは少し浮いた存在だったようだ。

演劇部に所属し、ひとりで劇に合わせて作曲をするなど、そうした中でも自分の楽しみを見つけようと必死だった。

頼まれて廃部寸前だった放送部へも入部したこともあった。

放送部で、後輩たちと部室でゲームをしてよく遊んでいたのは良い思い出だ。

在学中に演劇の面白さを知り、卒業後は演劇を学ぶことのできる私立大学への進学も考えた。

ところが、両親からは「就職してから劇団には入れば良いじゃないか。大学は行かせられない」と告げられた。

両親の勧めもあって、国家公務員試験を受験し、翌年春より大学の事務職員として働き始めた。

大学医学部の事務職で働くことになり、2番目の配属先である泌尿器科で転機は訪れた。

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「子どものころから父の病気と向き合ってきて、偶然にも大学病院の医療事務業務職に就くことができたんです。しかも、父の病気と深く関わる泌尿器科に携わることになったことに対して運命的なものを感じるようになりました」

さらに、長時間労働と医療事務によるストレスで精神的に追い詰められていき、急に怒ったり泣いたりと情緒不安定となり、自分でも感情をコントロールすることが難しくなっていった。

食欲不振に加えて、睡眠障害も現れるようになったため、通院したところ、鬱病との診断を受けた。


4.東京での暮らしで

1ヶ月ほど休職し服薬を続けながら仕事を再開。

その後は、大学病院の医療事務、医学部総務課、大学病院放射線部、医学部看護学科事務室などを時折休職を続けながら働き続けた。

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「放射線部で放射線技師と4年ほど働くなかで、何度もプロの医療現場を目にする機会がありました。そして、看護学科で看護師の人たちと触れ合っているうちに、看護師になってみたいという夢を抱くようになったんです」

30歳で国家公務員を退職したあと、看護師の専門学校へ通うため東京へ転居。

予備校へ通う生活資金を貯めようと、アルバイトをしていたとき、事件は起きた。

「アルバイト先で給与未払いのトラブルに巻き込まれたんです。その会社相手に民事裁判を起こして、強制執行手続きもしてもらいました。色々な手続きを全て自分ひとりでやっていたんです」

その後も都内の派遣仕事などを転々としたが、勤めていた会社が長時間労働を強いるブラック企業だったこともあったようだ。

あるとき、派遣の仕事で社会保険労務士事務所へ入職したことを機に、髙橋さんは看護師から社会保険労務士へと夢を転換させていく。

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「子どもの頃から父親が週3回、人工透析をしながら働いている姿を見てきたんです。大学病院で働いていたときも、医療制度の知識を得ることができたので、これまでの自分の人生を考えると、社会保険関係や企業の人事、労務に関する専門家である社会保険労務士になりたいと思うようになりました」


5.自分らしく過ごせる場所

故郷である山形に戻り、病院や会計事務所などで働きながら、2010年から2年ほど仙台の予備校に通い、勉強を続けた。

そして2012年には社会保険労務士試験に合格することができたというわけだ。

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さらに、社会保険労務士同士の仲間の集まりで知り合った男性と、36歳のときに結婚し、静岡に転居した。

静岡に移住して1ヶ月半で、鬱症状のために仕事を休職。

職場復帰を目指した「リワーク・プログラム」を受講するなかで、病気を治すのではなく病気と一緒に生きる人生を選ぼうと心がけるようになった。

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考え方を改善していくことで、気持ちが随分と楽になったようだ。

いまから3年前には離婚を経験したものの、高橋さんは静岡に残り、2018年12月に「ローズ社会保険事務所」を独立開業したというわけだ。

「皆さんがバラ色の人生を過ごせるように」との願いを込めて、事務所名に「ローズ」と名付けた。

「雪が苦手だったこともあり、静岡の温暖な気候が私にはぴったりだったんです。何より山形で自分のやりたいことをやろうとすれば、親や親戚から『お前はあがすけ(山形弁で“生意気”)だ、もっと素直になれ』と指摘されて、いつも息苦しさを感じていました」

このまま静岡にいたほうが自分らしく生きていける、そんなことを髙橋さんは感じていたようだ。

「これまでは、すぐに疲れが溜まって仕事が続かなくなっていたんです。身体が疲れやすいので、いまは疲れたらすぐに休むようにしています。そして、元気になったら、また働くという細切れの働き方をしているんです。会社勤めをしていたら、こんな働き方はできていなかったと思いますね」


6.バラ色の人生

ローズ社会保険事務所の特徴は、お客さんや従業員との距離が近いことだ。

若い人とやり取りしやすいようにLineを活用するだけでなく、相手が対面を希望すればいつでも飛んでいく。

相手の希望によっては、土日の夜に訪問することもあるようだ。

徹底的に相手に寄り添い、親身になって相談に乗る。

いままで相談相手などいなかったため、ひとりで民事訴訟を起こしてきた髙橋さんにとって、過去の自分から必要とされる人材になろうと努力を続けている。

そして、雇用保険電子申請アドバイザーの活動も始めた髙橋さんは、「社会保険労務士の枠に収まらず、色んな人のニーズに合わせて寄り添うことで、その人がより良い選択ができるお手伝いをしていきたい」と夢を語る。

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「昔の私に言いたいことは、『諦めずにコツコツとやっていけば、人生は少しずつ良い方向に向かうから自分を信じて欲しい』ということです」

髙橋さんは、ようやく自身が生き延びるための道を見つけたようだ。

それは薬で押さえつけて自分自身を変化させてしまうのではなく、働き方など自らを取り巻く環境を少しだけ変えることで、適切な距離感を保ちながら病気との共存を続けている術に他ならない。

そして過去の自分と対峙していくことで、あのときの自分がどんな人を必要としていたかを探ろうとしている。

遅咲きかも知れないけれど、ときには休憩を入れながら、まだまだ髙橋さんの人生は続いていく。

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そのバラ色の人生は、もう目の前に近づいている。


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