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氏家 敏幸「等身大の生きざま」

1.波乱万丈な男

「スタッフの皆様、おはようございます。さて今日は、どうすればファンが増えるかというテーマでお話ししようと思います」

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埼玉県川口市にある不動産販売店の朝が始まる。朝礼でスタッフに語りかけているのは、今年5月から40歳にしてこの店舗の責任者となった氏家敏幸(うじいえ・としゆき)さんだ。

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氏家さんとは、いちどZOOMで1時間ほど話を伺っただけだけれど、その波乱万丈な人生に、僕は驚愕してしまった。

「NGは無いので全部書いてもらって構いません」という潔い言葉に後押しされ、僕は筆を走らせる。

「父の実家が北海道だったんですが、いま思えば父は何かから逃げるようにこっちにやって来たのかも知れません」

この一言から、インタビューは始まった。

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2.プロ野球選手になりたい

1979年に北海道札幌市でひとりっ子として生まれた氏家さんは、1歳に満たないときに家族で埼玉県に転居してきた。

氏家さんによると、父親は売りづらい土地を入手し、売れる状態に整備してから転売をするブローカーのような仕事をしていたそうだ。

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家に不在のことが多く、収入も不安定だった父親の代わりに、母親は家計を支えるため、昼は餃子製造工場で、夜は飲み屋で働くなど昼夜を問わず汗を流していた。

そんな父親も氏家さんが38歳のとき、75歳で他界。

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小学2年生からソフトボールを始めた氏家さんは、小学5年生からは野球に熱中した。

もちろん、夢はプロ野球選手になることだった。

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中学でも実力を発揮した氏家さんは、推薦で埼玉の春日部共栄高校に入学。

春日部共栄といえば、甲子園にもよく出場している強豪校だ。

しかし、入部して全国から集った猛者たちとの実力の差を感じ、先輩たちとの厳しい上下関係にも耐えることができず、1年の終わりで退部届けを提出した。

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「それでも野球を諦めることができなかったんです。放課後に近所で毎日3〜4時間ほど練習をしていましたね。もちろんひとりなので、練習と言っても、ただひとりで走るだけなんですけど。いま考えると何やってたんだろうなと思います」


高校卒業まで秘密の特訓を続け、卒業と同時に「広島東洋カープ」と「北海道日本ハムファイターズ」のプロ入団テストを受験するも不合格に終わった。

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それでも夢を追い続けた氏家さんは、滋賀県甲賀市にある社会人野球の専門学校へ入学した。

「昔から体力だけはあったから、野球の技術さえ習得できれば、まだチャンスはあるんじゃないかと思っていました。でも、同じ練習をしている人に比べて、技術も未熟だったことが分かったんです。2年制の学校だったんですが、途中で学費が払えなくなって8ヶ月で辞めてしまいましたね。『野球で食べていくのは無理なんだ』と完全に諦めがつきました」


3.転職続きの日々

母親が親戚からお金を借りてまで専門学校へ行かせてくれていたことに気づいた氏家さんは、「これ以上、母親に苦労をかけさせられない」と埼玉へ帰郷。

19歳から近所のガソリンスタンドで働き始めた。

その後、ガムテープ製造工場やラブホテルに日焼けマシーンなどを納品する会社、電位治療器などの医療機器を扱う会社、看板制作会社など多様な職をどれも半年から1年で転々とした。

「プロ野球選手しか夢がなかったから、特にやりたい仕事もなかったんです。求人情報を見て待遇が良さそうだったら、すぐに面接へ出向いていました。仕事が長続きしなかった理由は、人間関係のトラブルも一因でしたね。自分が納得できないことに対して、上司と衝突してしまうことが多かったんです。例えば、日焼けマシーンを納品する会社では、身体を焼くためのランプの寿命を会社は納品先に虚偽の申告をしていたんです。『正しいランプの寿命を伝えるべきじゃないですか』と上司に噛み付いていました」

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24歳からは、父のあとを追うように不動産売買の会社へ就職した。

しかし、電話セールスと飛び込みの営業が業務の中心で、アポが取れないと帰宅することもできないような状況が続き、その過酷な仕事に2年ほどで退職した。

そして私生活では、20歳のとき、早々と結婚し、子どもを授かった。

「私の収入が安定しない生活だったため、奥さんが居酒屋で働き始めたんです。朝まで帰ってこないことが続いたから、子どもと探しに出かけたら、別の男性との浮気現場を目撃しちゃったんですよね。結局、3年で離婚して、子どもが成人になるまでの養育費は全額先払いしました。次の結婚は、25歳のときで、彼女が束縛の強い人で、私も仕事が忙しくて帰宅が遅い日が続くと、次第に精神科を受診して多量の精神薬を服薬するようになってしまったんです。31歳で離婚しました。お陰様で3度目の結婚をすることができまして、妻は8歳下です。ドラマのような話ですが、妻が新入社員でいまの会社に入社してきて、私が彼女の教育係だったんです」


4.自分の店舗を何とかしたい

氏家さんが現在の賃貸不動産会社に勤め始めたのは、26歳のときからだ。

東京都練馬区の店舗で13年間勤務したあと、店舗責任者として埼玉県川口市の店舗へ異動になった。

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コロナ禍のなか、自分の店舗を軌道に乗せるため、試行錯誤の日々を送っている。

「扱っている商品が賃貸不動産のため、他社と差別化を図ることが難しいんです。インターネットで検索すれば、すぐに正解に辿り着いてしまう時代ですから、いま競争している市場を抜け出して、違うフィールドで勝負する必要があると感じています。人を売り込んでいかなきゃ駄目だなと感じていて、地域の行事などにも積極的に参加するようにしています」

氏家さんの口からは次々と経営戦略に関する言葉が飛び出してくる。

インターネットで完結する時代に、どうすれば店舗に足を運んで貰うことができるかを思考し、自腹で店を装飾するなどして顧客の体験価値を高めようとしている。

そして、「部屋のことは、この人に相談したい」と思ってもらえるように、地域の催事などにも顔を出すなどして、勤務外でもたゆまぬ営業努力を続けている。

目に見えて成果がすぐに出ているわけではないが、氏家さんは、店舗のことや社員ひとりひとりのことをいつも真摯に考えている。

夢を追い続けて挫折してしまった野球少年は、いつのまにか別の夢を描こうとしている。

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そこに至る思考は、日頃の努力の賜物なんだろう。

聞けば、西野亮廣さんが運営する国内最大のオンラインサロン「西野亮廣エンタメ研究所」を筆頭に、片手では数えることができないほどのオンラインサロンに入会し、知識を吸収し続けている。

「いままで何も勉強してこなかったので遅いぐらいですよ。妻には内緒なんですが、オンラインサロンの会費だけで毎月1万円ほど支払っていますね。YouTube講演家・鴨頭嘉人さんの妻で、ファスティングマイスターの鴨頭明子さんが主催するオンラインサロン『かもあきお花畑サロン』では、ダイエットに挑戦して、2ヶ月で13キロ落としたんです。この仕事をしているときに、テレビ番組『幸せ!ボンビーガール』で「お部屋探しのルームアドバイザー」として二度ほど出演させてもらったこともありました。テレビの影響で『部屋を探して欲しい』という依頼を多く頂いたんですが、結局成約には至りませんでした。そのときは、チャンスをつかむことができなかったんですよね」


5.人間味にあふれた人

振り返ってみると、氏家さんはいつも何かに挑んできた。

ときには、自分の正義を振りかざし他人と衝突してしまうこともあったけれど、たとえ失敗に終わっても、決して自分を大きく見せることはなかった。

そう、彼の言葉には嘘がないのだ。こんなにも自分のことをさらけ出してくれる上司を、僕は知らない。

そして氏家さんが失敗をすればするほど、なぜか氏家さんのことが愛おしいとさえ思えてしまう。

正直言って、僕はすっかり氏家敏幸さんのファンになってしまったのだ。

手を差し伸べたくなるキャラクターとでも言うのだろうか。

スーツの下からあふれる人間味に、僕は魅了されてしまう。

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「私が行おうとしていることを現場スタッフに理解してもらうため、そして店舗を愛してくれるファンを構築するために、今年の10月1日から、朝礼でスタッフに伝えている内容を毎日noteというブログに綴ることにしました。内容は西野亮廣さんに教えてもらったことばかりで恥ずかしいんですけど。でも、幸いなことに、まだスタッフにはバレていないようです」

どこまでも憎めない人だ。

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