痛いの痛いのとんでとんでまわってまわって
仕事で営業職だった時のこと。
夕方のアポがあったので、一人で営業車に乗り、取引先へ向かった。
そこは大きな施設だ。
敷地に入る前に、大きな門扉が立ちはだかる。
横開きの門扉を外に向けてガラガラと押し開けた。
重たいのでかなりの力がいる。
中に入り、元の通り門扉を閉める。
開ける時に重さを知ったため、閉める時は全体重をかけて乱暴にエイっと押す。
ガラガラガラガラ、
ゴンっ。
左アキレス腱に衝撃が走った。
力任せに押した門扉の突起物がわたしの後ろから追いかけてくる形になり、ちょうど左アキレス腱に直撃した。
うっ、痛い。
アキレス腱は、人間の体の中でもかなり大事な場所だと聞いている。
アキレス腱が切れたら歩くことすらできないとも。
衝撃的な痛みがおさまるのを待ってから、恐る恐る歩いてみると、痛いながらも歩けないことはない。
アキレス腱が切れた人の話を聞いたことがあるが、切れる時は音がするらしい。
今、音はしなかった。
ということは?
痛みの割に、ストッキングには少し血が滲む程度。
よし、アポの時間だ。
仕事しよう。
何事もなかったかのように、担当者の元へ向かった。
アドレナリンで痛みを感じないというのはこういうことか。
そして、予定通り商談を終えた。
辺りはすっかり真っ暗。
営業車に乗り込み、発進させようとした時。
あたたたた。
サイドブレーキを解除するのに、負傷した左足でフットペダルを踏むと痛みが走った。
怪我をしたのが使用頻度の高い右足じゃなかったのが、不幸中の幸いだ。
無事に職場に戻った。
特に階段を降りる時に痛んだが、病院の診療は終わっている時間だったため、今日のところはそのまま帰宅することにした。
傷口にはとりあえず絆創膏を貼ったが、夜の間に患部が腫れてきた。
翌朝、病院に行くことにした。
心なしか、痛みも腫れも昨日より増した気がする。
アキレス腱は損傷していないだろうか。
骨は無事だろうか。
通院のため遅刻することを朝一で上司に伝えたが、心配させないように極めて何でもないように振る舞う。
「扉が足にゴンっとなっただけで」
病院の待合で問診票を書いていると、次長から電話がかかってきた。
「病院の受付で労災ってことを伝えて、健康保険証は提示せずに一旦十割負担で支払いしてくれる?申請が要るから返金は後からになるみたい」
業務中の怪我は労災になるはずだからと、すぐに人事部に連絡を入れて取り扱いを確認してくれていた。
わたしは問診票を提出する際にスタッフに「労災です」と伝えた。
暫くして中待合室で待つように言われ、移動した。
そこにいたスタッフにも念のため「すいません、わたし、労災なんです」と伝えておく。
ありがたいことに、今までの人生、労災なんか縁が無かった。
労災の手続きがどんなものなのか、全く想像がつかない。
通常の診察と労災の診察は、何か違うのだろうか。
次長からの事づけを守り、念のため、目が合う全てのスタッフに漏れなく「わたし、労災です」と告げていく。
そして、いよいよ名前が呼ばれて診察室に入る。
いの一番に医師に「先生、労災です、わたし」と伝えた。
怪我をした時の状況を説明し、診察を受ける。
念のためレントゲンを撮影し、骨に異常が無いかを調べてもらった。
現像されたレントゲン写真を見ながら、先生は言う。
「うん。骨は大丈夫ですよ。アキレス腱も問題ないでしょう。暫く痛むでしょうが、数日で治ると思います」
よかった。
きっと大事ではないと信じていたが、医師のお墨付きにようやく安堵する。
「傷口も診ますね」
わたしのアキレス腱には、応急処置的に自宅に置いてあった絆創膏を貼っただけだ。
きっと、ガーゼを当てたり、それを固定する網網のやつを足首に被せたりしてくれるのだろう。
患部に貼りついた安い絆創膏を、先生がそっと剥がす。
「まぁ傷はありますけど。これでええです。絆創膏貼っといてください。はい、もういいですよ」
絆創膏貼っといてください
診察は終了した。
わたしのカルテには何と書かれたのだろうか。
診断名 【絆創膏貼っといて】
昼下がりのタモリさんが「ポスター貼っといて」というぐらいの気軽さだった。
あれだけ病院の中で何度も「労災です」と言って回り、次長にも面倒をかけたのに。
労災って、きっと労働災害の略だ。
絆創膏ごときで災害を謳えるのか。
【絆創膏貼っといて】で、労災申請ってできるのだろうか。
【絆創膏貼っといて】の診断は、ギプス装着、松葉杖使用、などに太刀打ちするにはショボすぎる。
格が違いすぎる。
わたしは、絆創膏の格上げを、飛躍を、切に願った。
いや、不謹慎にもほどがある。
こんなに軽症で済んだことにさっさと感謝するべきだ。
病院を後にして職場に向かう。
普段の通勤時間から遅くなり、ラッシュはとうに過ぎたので、車内はゆったりしているが、座ろうとしたギリギリのところで座席が埋まった。
吊り革を持って立つ。
電車が走り出してすぐに、斜め後ろに座っていた50代ぐらいの男性が、スッと座席を立った。
何かの目的があるようには見えず、フラッと車両の端まで歩いて行った。
まだ次の停車駅までまだ距離があるのに。
この不自然な動き。
わたしの常套手段であるため、すぐにピンときた。
この男性は誰かに座席を譲っている。
座席を譲るという行為は、簡単なようで難しい。
高齢者や妊婦だと思っても、ただの勘違いなだけで、失礼にあたる場合や、断られる場合もある。
また、その方が本当に座席を求めている場合でも、人見知りなわたしにとっては、「どうぞ」と素直に譲ることが、恩着せがましいような気恥ずかしいような気がしてしまう。
だから、ただ座席を立ち、その場から逃げ去る。
今、一つ空いた座席。
立ち上がった男性を除き、この車両に立っているのは、どれだけ見渡してもわたし一人だけだ。
わたしは30代の健康体で、妊娠しているわけでもない。
座席を譲ることはあっても、譲られることはないはずだ。
もし思い当たるとしたら?
わたしのパンツスーツの裾とパンプスの間からは、チラリと絆創膏が顔を出す。
わたし、座席譲られたんだ。
絆創膏のおかげで。
絆創膏が飛躍した瞬間だった。
さあ、自由に飛び回ってくれ。