自叙伝を書けと言ったあの人の自叙伝はどこにありますか (1)

登下校時になると、中高一貫校の母校とその最寄り駅の間を、スクールバスがひっきりなしに往来していた。最寄り駅のバス停には、毎朝誰かしら先生が立っていて、バスに乗り込む生徒との間で「おはようございます」の応酬が繰り広げられる。その中でも、一際気だるそうに挨拶を返してくる男の先生がいた。これから一日が始まるぞ、頑張ろう!という時の挨拶としては0点どころかマイナス点に達するような「おはようございます」を毎回喰らわされるので、その先生が立っている朝は少し憂鬱な気分になった。いつも地面に目を落とし、何とも形容しがたい威圧感を身に纏う先生のことを、わたしはいつまでも好きになれないでいた。

高校一年生の春、あろうことかそいつが担任になった。外部入学生も混じり、これから始まる高校生活に胸を膨らませ、どことなく浮足立っているクラスメイトたちをよそに、よりによってこの先生が担任かい、とわたしはほんの少しだけ落胆していた。相変わらず無愛想な先生は、特に感情を込めることもなく、「それでは一年間よろしくお願いします」と卒のない言葉で、入学後初めてのホームルームを締めた。

当時のわたしは人見知りという言葉を知らず、接点のない相手とも物怖じせずに話すタイプだった。ただし、本当に嫌いな相手とは目も合わせないし一切喋らない。新しく担任になった先生のことはあまり好きではなかったが、一年間その存在を無視して過ごそうと決め込むほどの嫌悪感までは抱いていなかった。

クラスを背に廊下を歩いている先生の背中を後ろからどんっと突き飛ばし、「せんせーばいばい」と言った。そういえばわたしは、相手が嫌がらない程度の悪戯を仕掛けるのが好きで、過剰なコミュニケーションを取りがちなお調子者でもあった。

うわっと叫び声をあげた先生の体が少し前によろめいた後、初めて目が合った。ほんの少し色素の薄い焦げ茶色の鋭い目が、イヒヒと悪戯っぽく笑うわたしの姿を捉えた。

「豆腐だよ。明日までに名前覚えといてー」
「豆腐さん知ってるよ」
「へーさすが、もう全員の顔と名前覚えとんね〜」
「そういうわけでもないけど」

じゃあなんでわたしのことを知っとんじゃ、と口に出そうとしたが、いかんせん心当たりが多すぎたため、ぐっと言葉を飲み込んだ。中学生の時にちょっとした問題を起こして職員会議にかけられ、交友関係のトラブルで親を呼び出されたことのある生徒が、今度は100万人に1人の難病なんかにかかって入退院を繰り返すようになり、医療行為のために職員室や保健室へ頻繁に出入りするようになっていた。それに、病気と薬の影響で、周りの子とは少々異なる容貌をしている。悲しいかな、これらの羅列だけでも特徴しかない生徒であることが窺える。

「ふーん。一年間”先生”するの頑張ってな。ばいばい」

先生はぶはっと吹き出してから、「さようなら」と言った。わたしは先生の笑った顔を見ながら、無表情で腕を組み、全身から威圧感を放ちながらバス停に立っている姿を脳裏に浮かべていた。

年上の人間からやたらと醸し出される余裕と包容力に魅力を感じる現象は、一体何なのだろう。高校生の女子が教師に想いを寄せるのは、敬愛によるものなのだろうか、それとも恋慕によるものなのだろうか。未だにその答えはわからないままだが、自分よりも幾分長い人生経験を送ってきた先生に、わたしはあっという間に夢中になってしまった。

わたしは、好きになったことに対してはある程度の情熱をもって取り組む性格で、例に漏れず先生のこともそうだった。

今となっては本当に信じられず、高校時代は頭のネジがぶっ飛んでいたのだと考えざるを得ないが、休み時間に廊下で先生に遭遇するたびに「せんせーやっほー!今日も大好き~!愛してるよ~!」と叫び、事あるごとに「せんせー大好きです!結婚してください!」と告白しては、「俺にも選ぶ権利があるわ」「ごめん俺、彼女たくさんおるからこれ以上は無理」「前向きに検討させていただきます。あ、これ断るときに使う大人の常套句ね」などと返され、毎回飽きもせず恋心を玉砕させていた。この一連の流れは高校三年間ほぼ毎日続き、先生もさぞ迷惑だったことだろう。

ただ、先生も先生で、予鈴が鳴ったと同時に教室の鍵を掛けてわたしを廊下に締め出したり、授業中にわたしばかりを執拗に指名したり、他がやりたがらない雑用をわたしに押し付けたりと、次第にわたしをからかって遊ぶようになった。だから、迷惑なのはお互い様だった、と言ってもきっと怒られないはずだ。朝のバス停でも、わたしを見てはニヤリと笑って足をひっかけたり、腕を引っ張ってくるようになり、三年間見続けていたはずの、ゴゴゴと威圧感を放つ先生の面影はもうなくなっていた。

勉学のほうもそれなりに励んだ。先生の担当する古典の授業だけは熱心に聞き、全国模試で全国一位という自分史上最高の成績を叩き出した。愛があればなんでもできるを体現した瞬間である。

先生は良い意味であまり教師っぽくなかった。偉そうに上から口調で何かを説くこともなく、ちょっぴり皮肉屋で、人をからかうのが好きな小学生男子のような一面を持っていた。例えるとしたら、「親戚にいそうな茶目っ気のある兄ちゃん」が一番近いかもしれない。

そんな癖強めな先生のコアなファンはそこそこいて、月曜日の放課後デート権争奪戦は熾烈を極めた。先生が宿題チェックを行う毎週月曜日、国語科研修室に一番に乗り込めた生徒は、先生の作業が終わるその瞬間まで会話を楽しむことができる。そんな貴重な時間をわたしが逃すはずはなかった。ホームルーム終了と同時に研究室へダッシュで向かい、高確率で一位を獲得したものだ。もし「国語科研究室に入り浸った生徒ランキング」なるものがあれば、わたしのナンバーワンは間違いなかった。

ある日、いつものように研究室でコーヒーを啜りながら宿題チェックをする先生とこんな会話をした。

「せんせーってさ不安なこととか怖いこととかある?」
「あるよ。豆腐さんに毎日追いかけられて告白されることとかな」
「怖くないでしょそれは。愛だよ愛。ちゃんと拒否もできとるから問題ないじゃん」
「大人になると不安や恐怖にある程度上手く対処できるようになるからな」

もしも今この時に戻れたとしたら、そんなの嘘だ、と言ってしまうかもしれない。だって、現に十数年が経過して大人になったわたしは今もまだ、自分の感情や状況にうまく対処できずにいる。

「で、豆腐さんは何か怖いことあるん」
「”怖かった”ことならあるよ。担任になる前の先生とかね。いつも無表情でバス停に立ってて怖かった、挨拶してもぶっきらぼうに返事するから怖いし」

先生は作業の手を止めることなく、けたけたと笑った。

「嫌いなんよね。そのために朝早く起きんといけんから眠いし、夏は暑いし冬は寒いしさあ。渋々やっとんの見え見えだったかな」
「本音ぶちまけすぎでしょ。校長先生に言いつけたろか」

ひとしきり笑い合った後、先生は続けて言った。

「不安なことは?」

その日が何月だったかはもう忘れてしまったが、確か冬だった。少し空いた窓から冷気が入り込んできて、窓際に座っていたわたしの息は白ばんでいたが、暖房が効いて暑すぎる室内との調和がとれていて心地がよかった。ふと外に目をやると空は紫がかっていて、後少しで日が落ちるところだった。すぐ近くの大学やビルには明かりが灯り始めていた。

「なんかちょっと悲劇のヒロインみたいなこと言うから、笑ってもらっていいけど」
「うん」
「自分が死んだらみんなに忘れられるんかなあ、って不安になったりはする」

学校にいる間で病気のことを意識する瞬間といえば、せいぜい体育を見学している時くらいだったが、この頃はいつもと違っていた。数週間前の通院での検査結果が思わしくなく、「三年後に豆腐ちゃんが元気で過ごせているかわからない」と、主治医から言われたばかりだった。人はいつ死ぬか分からない生き物だが、隣にある死を意識するかしないかでは大きな差があるように思う。

先ほどの発言が脳内をループし始めて恥ずかしくなったわたしは、おそらく真っ赤になっていたであろう顔を片手でパタパタと仰ぎながら、先生に視線を戻した。いつの間にか手を止めていた先生は、珍しく真剣な顔でわたしをじっと見つめていた。

「笑っていいってば」
「笑わんよ」

少しの沈黙の後、先生はコーヒーを一口ずずっと啜って言った。

「自叙伝でも書けば」

全く予想していなかった自叙伝案にぽかんとしていると、先生の顔にいつもの悪戯っ子ぽい笑みが戻ってきた。

「忘れられたくないなら書き残せばいいじゃん。古典だって書物として残っとるから、何百年何千年経った今でもこうして俺たちが勉強したり研究できてるわけだし。それに、自分のことを知らん人にも伝えることができるよ」

古典の授業以外で、先生に教師っぽさを感じたのはこの時が最初で最後だった。「いっそのことめっちゃ癖のある文体で書き残せばいいんじゃない。ギャル語とか」「いやでもきちんと真面目に書くのも捨てがたいな」とあれこれ考えている先生が楽しそうで、先ほどまでの何とも言えぬ不安感はいつの間にか消え去っていた。

「自叙伝かあ~~。本嫌いで全く読まないし、文章書くの苦手だからハードル高いなあ」
「俺は読みたいけどね、豆腐さんの自叙伝。楽しみにしてるわ」

「まあそんなことしなくても豆腐さんめちゃめちゃパンチあるから、忘れられることはないだろうけどな」

自叙伝とまではいかないが、こうして自分の過去や思いの丈を書き殴っていると、先生と交わしたあのやり取りを鮮明に思い出してしまう。

久々に母校へ足を運び、「せんせー聞いて。わたしには無かったはずの物書き欲が爆発して、最近こんなふうに色々書いとんよ」と、このnoteの存在を教えたら一体どんな顔をするのだろう。意地悪っぽい笑顔を浮かべて「時間ないから見れんわ」と言った後、「うそうそ、今ちょっと読むから待って。へえ~~こんなん書いとるん」と驚いてくれるだろうか。この記事を読んだらきっと、「は?俺のこと書いとるじゃねーか、出演料ちょうだい」と言って、手のひらを広げてしつこく報酬を要求してくることだろう。でも、先生がここに目を通すことは絶対にない。

「卒業おめでとう。もう来るなよ」
「は?好きすぎて明日にでも会いにくるわ」

高校を卒業した数年後、先生は突然死んでしまった。

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