自叙伝を書けと言ったあの人の自叙伝はどこにありますか (2)

卒業後もわたしは足繁く母校に通った。部活動でお世話になった顧問と、もちろん大好きな先生に会うためだ。

「せんせー会いに来たよー!」
「また来たんか〜飽きんな〜早く帰れ!」

悪態をつくところは相変わらずだったが、先生の印象は以前のものから大きく変化していた。自分の話をあまりしないクール寄りな先生はどこへやら、休むことを知らないお喋り製造機のように身の上話を捲し立てる先生に、わたしはただただ圧倒されていた。

あの頃のわたしに、今の先生の姿を見せたらどんな反応をするだろうか。あっさりと信じるだろうか、それとも驚いて爆笑するだろうか。一緒に母校へ遊びに行っていた親友も、「先生ってこんな喋っとったっけ?もう少し静かなイメージだったんやけど」と笑いながら少し引いていた。

職員室付近をざっと見渡して先生の姿を見つけられなかった時、わたしはあの頃と同じように国語科研究室へ向かった。ドアを開けると、沢山の本のインクと埃っぽさが混じったにおいがして、先生と過ごしていた懐かしい時間が記憶の底から瞬時に引っ張り出されるような感覚に陥った。

「おー。あのさ、今日20時まで残業すんだけど、ご飯連れてってくれん?」

先生と急遽ドライブデートをすることになった。なぜこんなことに、と頭の中で静かにパニクっていたわたしとは対照的に、後部座席では先生がぎゃーぎゃーと騒いでいた。

「騒ぐなら降ろすけど」
「だってっ!豆腐さんの運転する車にっ!乗る日が来るなんてっ!思って!なかったっ!」

道路の凹凸に合わせて、車がほんの少し上下に揺れる。そのたびに先生は面白がって、わざとらしく言葉にスタッカートを付けながら喋るのだった。

「おれっ、今日が命日っ?うわーーーーーっ!」

バカ言え。わたしは大学のゼミ仲間たちに、「今まで出会った人の中で一番運転が上手い」「豆腐ちゃんが運転してるとつい寝てしまう」と言わしめた女だぞ。いつも安全運転を心掛けていて、運転スキルにも自信があった。運転免許取得の一週間後、ブレーキとアクセルを間違えて駐車場の排水管に激突し、警察のお世話になったことは秘密だ。

何はともあれ近所のチェーン店に無事辿り着き、先生とわたしはカレーを注文した。先生と対面で食事をするのは、在学中を含めても初めてだった。

落ち着かずにそわそわしながらカレーを頬張っていると、先生がおもむろにマヨネーズの入ったチューブを手に取った。そして、あろうことかわたしのカレーにそれをぶっ放したのだった。わたし、この人のどこが好きだったんだっけ…、と大きな溜息をつきながら、お馴染みの笑顔を浮かべている先生を睨みつけた。

「ほら食べなよ。残したらアフリカの子供たちが泣くで」
「バカげてる。このカレーをわたしが食べきろうが残そうが、アフリカの子供たちの現状は何一つ変わらん」

変わらないなあ、先生。けど全然大人じゃないね。あの頃、世の中の全てのことを知っているように見えた先生は、とても立派で成熟した落ち着きのある大人だと思っていた。だがこうして何度も会っているうちに、その中身はわたしたちと大して変わらないことを知った。どうやら、教師というものは詐欺師に似た存在のようだ。

「せんせーそういえばわたし彼氏できた!」

4回生になり、卒業論文の執筆に忙殺されていたわたしは、癒しを求めていつも通り先生の元を訪れていた。

「はあ?豆腐さん俺のこと好きって言っとったじゃん!」
「あ〜ごめん2年くらい前から付き合ってたわ」

嘘つき!浮気者!と、先生は相変わらず小学生男子のような笑顔を浮かべていた。いつの間にか、先生に想いを寄せていたのは過去の話になっていた。毎日馬鹿の一つ覚えみたいに告白していたあの日々も、「頑張ったなあ」と頭に手を置かれ心臓が粉々になりそうになったあの時も、「ありがと!」と両手をぎゅっと掴まれてこの世の終わりを感じたあの瞬間も、全て昔の話だ。

学校以外に世界を知らない生徒が教師を好きになることは大して珍しくもなく、その殆どが一過性のものだ。先生に寄せていたわたしの想いもそうだったのかもしれないが、卒業した後もこうして頻繁に会いに来るのは、先生のことを敬愛しているからに違いなかった。

「結婚したら東京行くかもねえ」

夏休み前、期末テストの採点をしていた先生は手を止め、うーんと大きく背中を伸ばした。

「生徒のそういう話ってたくさん聞いてきたけど、豆腐さんのが今までで一番衝撃的かもしれん」

窓を締め切っていても、ミンミンと鳴く蝉の声がやたらと耳について煩かった。暑そうに下敷きで顔を仰ぎながら、楽しそうに友達と喋っている中学生や高校生たちが外を歩いていた。わたしたちもあんな風だったんだろうな、と懐かしさを覚えながら、もう一度あの制服を着てみたいなと思った。

「相手、病気のこととか色々分かってるの」

パッと目を戻すと、先生は前のめりで背中を丸めながら作業を続けていた。背筋のぴんと伸びた先生の立ち姿にもわたしは常々憧れていたが、どうやらこうして椅子に座り作業に集中すると、その美しい姿勢は崩れるようだった。

「知ってはいるけど、ほんとに分かっとるかどうかはしらない。まだ長いこと一緒に過ごしたことないし」
「ふーん。相手、頭大丈夫なんかな。豆腐さんのどこが良かったんやろ」
「いつも明るくて優しくて可愛いところかな」
「そういうの自分で言うもんじゃなくない?」

げえ、と吐く仕草をした後、先生はニカッと笑ってわたしを見た。

「まあ、喋らずに黙って笑ってたらそれなりに見えるか」

何度目かの季節が巡り、わたしも先生もあの頃より歳を重ねていた。わたしは周りと異なる真っ赤な顔を隠すために化粧を施すようになり、先生は皺が増えてほんの少しふくよかになっていた。ただ、お互い天邪鬼で憎まれ口を叩き合う関係性は、いつまで経ってもそのままだった。

事故だったらしい。

泣き崩れている奥さんの姿が、今もまだ脳にこびりついている。大好きだった先生の顔を目に焼き付ける最後のチャンスだというのに、もう二度と目を覚ますことのない先生を、結局わたしは見ることができなかった。

周りの人たちはみんな泣いていて、泣いていない人を探す方が難しかった。あまりにも若すぎて、あまりにも突然すぎたから無理もない。葬儀の最後には、当時担任を受け持っていたクラスの生徒たちが花道を作り、先生はそこを通り抜けて出棺されて行った。遠ざかっていく霊柩車を見ながら、ああ、もう会うことはないんだなと思うと、急に涙がどっと溢れてきた。

「豆腐ちゃん大丈夫か、驚いたろう」

葬儀が終わり斎場の外でぼけっと立ち尽くしていたわたしに、部活動の顧問が声を掛けてきた。ハッと我に返って辺りを見渡すと、随分と人がまばらになっていた。12月にもなると日が暮れるのがかなり早く、腕時計はまだ夕刻を指しているにも関わらず、外は真っ暗になっていた。

顧問は、先生の事故の経緯や自分の心中を一生懸命語っていた。わたしも思い出の一つや二つを語れればよかったが、そんなことができる余裕もないくらい、ひどく疲れ切っていた。何も聞きたくなかったし、何も知りたくなかった。「そうだったんだ、また学校にも遊びに行くね」と顧問の話を適当にかわし、その場を後にした。

わたしが母校を訪れることは二度となかった。

結婚してしばらく経った。高校に通っていたのはもう随分と前の話だ。夫は優しくてわたしのことをとても大事にしてくれるし、わたしも夫の安心できる居場所であり続けたいといつも思っている。

たまに早起きした朝には、夫を起こさないようにそっとベットを抜け出し、ベランダに出る。それが冬だったら最高だ。冬の、冷たく澄んだ空気感がたまらなく好きだからだ。寒くて肩がぶるぶると震えるのも、はあっと両手に吹き込んだ息が白むのも風情がある。それに、明け方の紫がかった綺麗な空を見ると先生を思い出すことができる。

せんせー元気ですか。もう居ない人に向かって元気って聞くのも皮肉か。わたしは今こうして、訳わかんなくて特にオチのない話を書き連ねているよ。しかも恥ずかしげもなく小説風にさ。ダサいよね。こんなの自叙伝には程遠いし、そんなものを書けるほどの豊かな人生は送れていないかもしれないけど、今日もそれなりに元気に過ごしています。

わたし、あの頃からは考えられないくらいに他人軸で、自信がなくて拒絶されることを恐れるような、本当に弱くてつまらない大人になってしまいました。なんでだろう。でも色んなことを見て、触って、聴いて、感じて、考えて辿り着いたのが今の自分なので、まあ仕方ないかと思ってるし、なぜかほんの少し満足もしています。

せんせーさ、卒業して一緒にカレーを食べに行ったときのことを覚えてますか?今日が俺の命日か、と先生は車内でふざけて騒いでいたよね。先生が死んだと聞いた時、悲しみよりもまず先にあの日のことを思い出して、「勝手にフラグ回収してんじゃねーよ」というツッコミの言葉が心の中に浮かびました。人の美しい思い出をトラウマに塗り替えてくれて、本当に何してくれとんねんアホ、と今でも思います。

先生が言った、「まあそんなことしなくても豆腐さんめちゃめちゃパンチあるから、忘れられることはないだろうけどな」という言葉はその通りっぽいです。先生が居なくなってから何年も経つけど、忘れたことは一度もないからね。全く望んでなかったけど、先生が体張って証明してくれましたね。……ありがとう、と言う流れが出来ているけど、最後があまりにもありがたくなさすぎたので言いません。でも、先生に出会えて楽しかったよ。夢だったんじゃないかな、と思うくらい。

こうして先生が居た頃の記憶を手繰り寄せていると、わたしの中の先生はいつも悪戯っぽく笑い続けているから、最期に顔を見なかったのはやっぱり正解でした。あ、お墓参りとか行けてなくてごめんね。何回か誘われてるんだけど、そういうの本当に苦手でさー!

ちなみに先生のせいで、わたしはあの後すぐ体調を崩して入院して随分と痛い思いをしたので、その恨みはいつか直接ぶつけさせてくださいね。あれは紛れもなく先生のせい。その時には、最近こうしてマイペースに書き連ねているnoteも持ってってやるから読んでよねえ。

あ、そうそう。そういえばわたし、本当に長い間ずっと探し物をしてるんだけどさ、せんせーの自叙伝って一体どこにありますか?どこで読めるの?せんせーがわたしの自叙伝を読みたいって言ったように、わたしだってせんせーの自叙伝を読みたいんですけど。100万回読み込んでやるから早急に送付してください。

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