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ツキヒコ(1)

ドアを開け、月彦と呼ぶと、フードを被った頭がむくりと動いた。
壁に背中をあずけて膝を抱えて座り込んだ姿は、言いつけを守って大人しく待っていたことを創造した。

「イイ子だ。あと少しだからな」

東条がそう言うと、月彦はこくりとうなずいた。

「え、月ちゃんいるの?」

すると背後から高い声があがった。
東条は渋い顔を作りながら振り向いた。

「いつもついてきてるだろ」
「でもオモテで待ってたなんて知らなかった」

ゆるいウェーブのロングヘアで豊かな乳房を覆い隠した若い女は、いかにも男を引きつけそうなやさしい同情の声をこぼし、東条の脇から顔を出す。

「ほら、もう終わりだから入っていいよ」

女は細く色白な両腕を広げて月彦を呼ぶ。
しかし相手はうんともすんとも言わず、微動だにしない。
聞こえていないのかとも取れる反応に女は小首をかしげる。
そのとなりで東条はうなだれて嘆息した。

「せめて前隠せよ」

まだドアの枠をくぐっていないとはいえ、そこはもうほとんど外だった。
とっさに大事なところを手で隠すその姿が、どうしてかボッティチェリの絵が思い浮かび、東条は眉をひそめながら月彦を手招きした。
するとすんなり腰をあげた月彦を見て、女は目を丸くした。

「わたしって月ちゃんにきらわれてる?」
「気にすんな。そういうわけじゃねえよ」

部屋に入るなり東条の腰にしがみついて離れたがらない月彦を見、女はああと納得の顔をする。

「東条さんが大好きなのねー」

目尻を下げて微笑む女に、東条は渋面を作る。

「えー、なにその顔」
「いいからさっさと下着くらい着てこい」

東条にしっしと追いやられ、女は「東条さんだってはだかのクセにー!」と文句を言い捨てながら寝室へと駆け込んだ。
全裸じゃないだけマシだろ、と声には出さずに呟きながら、東条はちらりと月彦を見やる。

「……そんなツラするならハナからくるんじゃねえよ」

東条がそう呼びかけると、月彦はかぶりを振る。

「……今に始まったことじゃねえけどよ」

東条はそう溜め息をもらし、頭を掻いた。

「あっ、月ちゃんおなかすいてるんじゃない? コンビニでおにぎりとか買ってきてあるから食べようよ」

女はスウェットを着ると東条にそう提案してきた。

「お気遣いどーも。だがわるいけど帰るよ。こいつもこんなだしな」
「でもご飯食べれば少しはゴキゲンになるんじゃない? いいコで待っててくれたんだし、それくらいイイでしょ?」

まるで月彦の代弁でもしているつもりなのか、女は食い下がって引き下がらない。
東条は渋面で月彦の様子を伺う。

「……メシ、食いたいか?」
「……」

東条が聞くと、月彦は考えるような気配を見せたのち、コク、とうなずいた。

「ハイ、いっぱいあるから好きなの食べてね〜」

テーブルに握り飯が陳列される。
ざっと10個近く、見慣れたコンビニのラッピングにメジャーな具ばかりだ。
女は自分用にスパゲティサラダのパックを置いた。

「あ、お茶持ってくるから待ってて」

あわただしく冷蔵庫へかけていく女を一瞥し、東条は適当に鮭の握り飯を取る。

「ホラ、好きなもん食えとよ」

となりで先程のように膝を抱える月彦は、悩んでいるのか一向に握り飯に手を伸ばさない。
気にせず開封していくと、急にこちらを向いた。

「……。コレがいいのか?」

聞くと、素直にうなずいた。
東条は浅く溜め息をつくと、取り出したばかりのそれを月彦に渡す。
直後にパリっと小気味いい音がし、東条はまた適当に昆布の握り飯を取った。
おまたせー、と戻ってきた女は、緑茶のペットボトルと陶器もののカップを人数分置いて茶を注いでいってから、自身もサラダにありついた。

「月ちゃん、おいしい?」

女が聞くと、月彦は黙々と頬張りながらわずかに頭を揺らし、女はそれに相好を崩す。

「やっぱりおなかすいてたのねー」
「それにしてもずいぶん買い込んであるな」

あきらかに一人分じゃない量に東条が指摘する。

「たまに泊まりに来るトモダチがいるんだけどね、だいたい週末が多いから買っておくの」

女は何気なくそう答える。

「だったらおれなんか呼んじゃマズかったんじゃねえのか」
「今日は合コンだって言ってたから、たぶん大丈夫だと思う。あのコいつもモテるし、今日も相手みつけてどこかいってると思う」

特に妬みも僻みもない様子で女は語る。
正直、東条は女の態度に違和感を覚えた。
なぜそんな話を他人事のように平然と話せるのか。
しかもこちらの様子を一切気にすることもなく。
それ以前に、そうと知っていたなら今日はわざわざ買い込まなくてもよかったのではないだろうか。
言いたいことがまとまらず、とりあえず東条はわかりやすく相手を指摘する。

「……まえまえから思っちゃいたが、あんた変わってるよな」
「え? そう?」

女は目をまるくして首をかしげる。
まったく邪気がないその顔に、東条は溜め息以外出てくるものがなかった。

「今どきの二十代ってのはみんなこうなのか?」
「エー、東条さんってば、おじさんくさい」

けたけたと笑う女に、おじさんだからだよ、と返す。

「まあ、おれなんかに金を出す時点で、もう十分変わってるわな」
「そんなことないよー。東条さんカッコイイもん」
「お世辞どーも」
「お世辞じゃないってばー」

その不満げな顔を見れば、おそらく本心だと容易に察したが、それでも東条は知らぬふりをして茶を飲む。

「そういえば月ちゃんがいるのっていつくらいからだっけ」

そこで女はふと月彦に目線を移す。
こっちは一個目の鮭の握り飯を完食した直後で、まだ食べたりないらしく、同じ握り飯を探そうとしていた。
東条は一緒に探して見つけてやりながら口を開く。

「あんたが客になる前からいる」
「え、そうなの?」

女はおどろくと、すぐ右斜め下に視線を落とす。

「それじゃあ、半年以上前からいっしょにいるってことだよね。でも最初に見たのって、先月くらいだったし。今まではどうしてたの?」
「留守番させてた」

当然のように東条は答える。

「月ちゃん、お留守番できなくなっちゃったの?」

本人に聞いているのか、こちらに聞いているのか判然としない口調で女は聞いてくる。

「そんなところ」
「ふーん……。それじゃあしょうがないかー」

それで納得できることが逆に理解できない東条だったが、もうキリがないと思い、気にしないことにした。

「じゃあこれからもつれてくるの」
「だろうな。つっても外においとくが」
「なんで入れてあげないの?」

そんなことまで言わせるのか。
東条は額を抑える。

「あんたは自分の喘ぎ声をガキに聞かせる趣味でもあんのか」

やけくそ気味に切り返すと、女は意表を突かれたように「あ、そっか」と口に手をあてる。

「いくらなんでもそれはマズイね」

苦笑いを浮かべる女に、東条は疲労感の濃く出た長い溜め息をつく。

「あ、でもわたしの名前を教えるくらいならイイ?」

と思えば今度は無邪気な顔でそんなことを思いつき、東条はうなだれながら「どうぞ」となげやりに答えた。

「月ちゃん、わたし、『ようこ』っていうの。寛容の『容』に、子供の『子』。よろしくね」

はたしてその名前を覚えているのかどうか。
家路の途中、東条は月彦の表情を見つめながら思った。
その視線に気づいてこちらを向く顔は、相変わらず少しも変わらない。
そしてその口は微動だにしない。
東条はこの子供のわずかな独り言の声ひとつ、まだ聞いたことがなかった。

「機能的なものか、それとも心因的なものか、いずれにしても、わたしに対してもアンタに対してもなにも話さないんじゃあ、もうこれ以上は調べようがないわね」

そう医者が匙を投げたのも、ちょうど一年ぐらい前だっただろうか。
こちらは根気強くつきあってもらった立場だったので、相手がなんと言おうと返す言葉はたったひとつだけしか思い浮かばなかった。

「十分だ」
「アンタはそれでいいかもだけど、正直わたしはまだあきらめたつもりはないわよ」

思いがけない言葉に東条は目を丸くした。

「いやに熱心だな」
「そりゃそうよ。人間生きてる限り、可能性はゼロじゃないんだから」

それに、と言葉をつなげながら、医者は慣れた動きで月彦の両頬に手を伸ばす。

「こんなにキレイな子の声を聞けずに死ぬことなんてできないもの」

これも時の重みというやつだろうか。
まだ出会ったばかりのころは、猫に嫌われる獣医そのものだった。
それがここまで漕ぎ着けたのだから、あきらめたくないという当人の思いも多少計り知ることはできた。
ただ、キレイという表現についてはこれまで一度も共感したことはなかったが。

「だから今後もわたしの『ピーター』をちゃんとつれてきなさい。さもなきゃアンタを容赦なく矯正施設へブチ込んでこの子をわたしの養子にしてやるから」

挙げ句の果てにその『ピーター』に抱きついて頬ずりまでし始めた医者を、東条は異常者でも見るように眉間を顰めて肩を落とすように溜め息をはいた。

「つきあいの長い患者にそんな暴言吐けるヤブ医者はあんたくらいだ」

頬にペチンと当たる感触で東条は目を開けた。
ちら、と左を見ると、力の抜けた手が首元に滑り落ちる。
もぞもぞと身じろぎ、手や足が何かを求めるようにまさぐる。
やがて居心地のいいポジションに落ち着けば、しずかな寝息だけが聞こえてくる。
東条は頬にあたる白い髪を見下ろしながら、かすれた声でつぶやいた。

「……寝言も聞いたことねえなぁ」

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