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語り継がれた一枚の写真、戦時中の台湾で軍事訓練の父

去年、長兄が84歳で亡くなった。亡くなる前に兄は父の遺品として受け取っていた台湾時代の写真をすべてデータ化して次兄やわたしたち妹へ送ってくれた。

私は、今、初めてUSB を開いた。何となく気が重くて今まで開かなかったのだ。長兄には申し訳なかったと思っている。

一枚の集合写真。教師だった父が軍事教練か何かで生徒を引率して行った時の写真だろうか。

私は台湾台北市でアメリカ軍の空襲下に生まれ、翌年、引揚船でキールン港から日本内地へ引揚げてきた。船中でマラリアと赤痢が蔓延、多くの子供や赤ちゃんが死んで海に捨てられたと聞かされた。

私は奇跡的に生き延びて今に至っている。引き揚げ時、1歳だから何も覚えてはいない。しかし、時にふれ、両親兄姉から台湾の思い出や、引揚船での伝染病の恐怖、日本に着いてからの飢餓の話は聞かされて育った。

わたしは中学校まで鹿児島市で育った。当時、戦災孤児が収容されている寮から通っていている子供たちがいたことを覚えている。子供心に彼らが「みなしご」だと知っていた。

鴨池空港に遠足に行くと「ここから特攻隊が出撃しました」と聞かされた。小学低学年のころ、滑走路脇の防空壕に家のない母子が住んでいたのを見た記憶がある。

手足のない傷痍軍人さんが路傍で物乞いをしているのもこの目で見た。戦後復興の掛け声に追いやられ、消えていったあの人たち……。

「両親が健在のころ、もっと話を聞いていればよかった.兄貴も俺も自分のことで忙しくて」と次兄は悔やんだ。次兄や姉は(年の順とは限らないが)私より先に逝く可能性が高い。私は後悔しないように語り継ぎたい。

引揚げ時、長兄14歳、次兄9歳。姉7歳。次兄は船の中で赤痢に罹り、水葬される寸前、船員として乗り込んでいた元生徒に父が出会い、船員しか使えないペニシリンを打ってもらって蘇生したという。

父は日本で教師をしていたが、開戦直前、台湾の付属中学に赴任、赴任の翌年、真珠湾攻撃があり開戦となったとか。

戦前は、日本が台湾を占領していたのだ。占領は日清戦争後からだったので、日本人は台湾はもともと日本の国だと思っていたようだ。その歴史も私はちゃんと習わなかった。

台湾で父はすぐに軍事教練に駆り出された。専門は美術だった父にとって軍事教練ほど嫌なものはなかっただろう。父はそのことはほとんど語ってくれなかったが私には分かる。

「突然、教室に軍人が入ってきた。突然、教室に銃が置かれた」話してくれたのはそれだけだ。

付属中学校には富裕層の台湾の子供もいて、家にも遊びに来たという。戦時中も台湾は長らく平穏で、台湾の人たちとも仲良く交流できたらしい。

「台湾はよかった。日本に帰ってからが地獄だったよ。食い物がなくて石に躓いて転んでも、腹が空いているから起き上がれなかった。農家の人に土下座して食い物を分けてもらった」

「内地人(その頃は日本本土内にいた人を内地人と呼んでいたらしい)からは引揚げ乞食と呼ばれ、いじめられた人が多かったが、うちはお父さんが先生だったからいじめられなかった。それだけはおやじに感謝している」

長兄がそんな話をしてくれたような記憶がある。

長兄は、引揚げ当時、中学生だ。あらゆることを脳裏に刻みつけていただろう。しかし、戦時中のことも引き揚げ後の苦労もほとんど語らなかった。

「台湾の人たちの温情で暴行を加えられることもなく、食べ物まで分けてもらって港まで行った」その話だけは、親兄姉からしょっちゅう聞かされた。

戦時中はおろか、戦後も台湾に行ったこともない人が「日本人が台湾の道路やダムを作ったり、よいことをしたから、感謝されていたのですよ」と言う人がいる。

それは違うと思う。支配していた側の人間がそれを言ってはいけないのだ。当時の台湾の人たちがどんな暮らしをしていたか、本心はどう思っていたのかは、その人たちしか分からないのに。

だからこそ私は、数万人の日本人を無事に日本に送り返してくれた台湾の人たちに心から感謝している。

当時の状況を何一つ知りもしない人に「日本人の台湾統治は素晴らしかった」など言われても……

長兄の死後、初めてデータを開いたのは、noteに投稿するという目的があったから。

写真を引揚げ船に乗せて持ち帰り、今日食べる米もないのに守り抜いた父。それを受け継ぎ、データ化して送ってくれた兄の心情を思ったからだ。

優しかった父は台湾現地人の生徒にも慕われたらしい。日本が高度成長期に入ったころ、当時の台湾人の生徒から招待され、台湾旅行に行った。

どれほど嬉しかっただろう。でも、私はろくに話も聞いてあげなかった。台湾人の生徒がお土産にと買ってくれたブルーのマフラーも、度重なる引越しの途上で行方不明になってしまった。

後悔してもしきれない。

帽子を被って、胸にゲートルを巻いている父。どんな思いで生徒たちを軍事教練させたのだろう。父自身は徴兵検査の日は必ず下痢をして兵役検査に落ちたと母から聞いた。

よほど戦争が嫌だったのだ。戦後の大混乱の中、高校教師の場を得て、好きな美術指導に専念できて、本当に嬉しかっただろう。

今は.台湾のニュースを見ることもない。戦前、かの地で暮らした大勢の日本人の運命が語られることもない。中国残留孤児のような悲劇が起こらなかったから、忘れられてしまったのだろう。

今を語るニュースも必要だが、過去をしっかりと見つめ、なぜ、あの悲劇的な戦争が起こったか、なぜ多くの戦災孤児が生まれたかを検証してほしい。

国は「見たくないものに蓋をする。知りたくないことはなかったことにする」のではなく、平和な今こそ、当時、引揚船の中で死んだ多くの赤ん坊や子供の存在を知らしめてほしい。

それが私にとって,令和となった今こそ、きちんと「語らねばならないニュース」なのだ。

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