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病院の怪談 「5」~①

私、恋してる!

夫との味気ない暮らしを50余年、
夫がどこかへ行ってくれたらいいのに、とそれだけを願って生きてきた。
誰にわかるだろう。変わり者の男と暮らすつらさを。
明らかに変だったら、誰にでもわかるし、そもそも結婚などしない。
一緒に暮らさないと分からない性癖、些細な異常さ。これはもう人には分からない。
ほんとうにつらかった。でも、もう過去のこと。夫はぽっくりあの世に行ってくれた。
ほんとうに私、今はのんびり暮らせて幸せ。癌さえ患わなければ……

私、今恋してるんだ!

相手?若者よ。何歳か知らない。既婚者かどうかも。
彼の微笑みと言葉に癒されて、人生をやり直してるところ~。
それだけでいい。人生に遅すぎることはない……。

さて、どんなチョコレートにしようか……。
 綾子は今日もチョコレート売り場を歩き回る。あまり高価そうなもの仰々しい。もらう人を委縮させそう。普通のメーカー品ではもらう人の悦び「中ぐらい」かな。

「今度のバレンタインにチョコ贈りたい人があるんだ」
「え?お孫さん?」
「違う。若い男性」
「……」
キミ子は綾子の顔を見た。どんな表情をしていいか分からないようだ。
「どこの人?」
「病院の検査技師」
「はあ……?」
綾子はポッと頬を赤らめて、コーヒーを口に運ぶ。あれを運命の出会いというのだろうか……。

看護師にファイルに入った書類を渡され、そこで検査を受けるようにと指示された。去年完成したばかりの病棟は混乱状態だ。受付では怒鳴りあいが始まり、点滴を引いていた患者が転んでも、傍を行く看護師はイノシシのような勢いで走り去った。
患者が何か聞ける状態ではない。
ようやくたどりついた検査室、言われるままに台に乗り、白いドームのようなトンネルをくぐった。何回も「息を止めて」「息を吐いて」「楽にして」の声を浴び、ほとほと疲れ果てた。
トンネルを出ると微かにめまいがした。

「お疲れさまでした。だいじょうぶですか?」
白衣の青年が綾子をのぞき込み微笑んだ。
「これから病室に一人で帰れるか心配です、迷子になりそうで」
「エレベーターまで送ってゆきましょう。私も、この病院に来たばかりで、エレベーターの場所も分からなくて迷子になりましたよ」
「ありがとうございます」
「病棟が完成したばかりで皆てんてこ舞いなんですよ。受付で交通整理している警備会社の人達までカッカして。患者さんに申し訳ないです」
廊下を歩きながら青年はすまなそうに言った。
「いいえ、気にしていません」
「田舎から出てきて、ようやくレントゲン技師の資格撮ったと思ったら、いきなり、できたばかりの大病院でしょう。そもそも方向音痴だから、店内コンビニに行くのもまごまごでしたよ」
「私も方向音痴なんです」
「あ、そのエレベーターです。ではお気をつけて」

それが最初の出会いだった。

翌日、3時ごろ、バスタオルと手術用下着を買いに4階のコンビニに行った。パジャマ姿の患者やら見舞客やら病院の職員やらで大混雑だ。
いくら病人とはいえ、パジャマで店内をうろうろするのって……。
綾子は誰に見られているわけでもないのに気恥しかった。
「昨日検査なさった青木さんですね」
後ろから声をかけられ振り向くとあの青年だった。
青年は手際よく綾子の望む品物を見つけてくれた。下着など男性に捜してもらったことなどない。恥ずかしかったが、青年は何とも思っていないようだった。
「御家族は?」
「あの、ひとり暮らしのようなものなんです」
綾子はすこし笑った。
「あ、そうですか」
青年はさらりと応えた。

それからどういうプロセスで彼と付き合うようになったか覚えていない。


家族がいなければ福祉の世話にもなれるし、付き添いを派遣してもらえる制度もある。然し何かと手続きが面倒で滞っていた。
ちょっとした縁で知り合ったキミ子が身元引受人になってくれたから、ようやく、安心して手術を受けられる。
キミ子さん、ありがとう……。

「で、それから彼氏になったの?早すぎるじゃない?」
キミ子は遠慮がちに言った。

「内視鏡検査で麻酔使ったの。少しふらついていたけど大丈夫だと思ってひとりでエレベーターに向かう途中」
「どうした?」
「めまいを起こして倒れちゃった」
「で?」
「彼がたまたま通りかかって、部屋まで抱きかかえて」
「テレビドラマみたい。でも、あなた、73歳よ。年が行き過ぎ……。ごめん、ほんとのこと言って」
「ほんとにそうだと思う。でも、彼、あなたが退院なさる時は、車で送りましょうかって」
「ウソ―」
綾子も心のなかで(ウソ―、みたいよね)と笑う。誰もこんな話、信じないでしょう。でも事実は小説より奇なりっていうじゃないの。
「送ってもらったお礼にチョコ贈りたいの」
「……」
キミ子は目を丸くした。

誠二は綾子の顔をふと思いだす。
趣味でやっている油絵のモデルになってほしい。初めて顔を見たときに、何かピンときた。窓辺でくつろぐ女性像のモデルになってほしい。この人しかいない……。

一言、二言、話してもっとぴんと来るものがあった。話し方、声のトーン、屈託のない笑顔、自分が長年あこがれてきた何かがあった。
運命の糸は誠二にとても好意的に事を進めてくれた。
店内のコンビニで3回会って、いろいろ手伝ってあげた。周囲は何も気にしていない。それぞれ、自分のことで手一杯なのだ。

そして……。

退院後、綾子は誠二のマンションの窓辺で外を見ているポーズをとることになった。どうしてこうなったか綾子自身にも分からない。
夫との暮らしからは得られなかったくつろぎと発見とときめきがあった。

(子供さんがいないからこの人、若々しい。魅力的だ。チョコのセンスもステキだった)
誠二も今まで付き合った女性からは得られなかったくつろぎと発見とときめきを得た。
母親?違う。姉さん?違う。恋?まさか……。

誠二は戸惑いながらも、絵筆を持つひと時が楽しかった。

二人は唇を合わせた。甘く優しい男性の唇に綾子は初めて触れた。
綾子は幸せだった。
神様からのプレゼントのひとときだ、きっと……。

    続く









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