ほんとうは怖~い源氏物語(8)
☆月日経て若宮参りたまひぬ。いとどこの世のものならずきよらにおよすけたまへれば、いとゆゆしう思したり。
原文の訳は小学館の新日本古典文学全集を引用しますと、
「更衣の母のもとにいた若宮は帝のたっての願いで宮中に帰ってきましたが、その美しさといったらこの世のものならず、不吉な感じさえするのでした」
4,歳の子どもですよ。美し過ぎて鬼神に魅入られるのではないかと思うほど……なんか怖いですね。
娘だけでなく孫まで宮中に奪われた祖母の悲しみを作者は実に細やかに描いています。まさに源氏物語は祖母、母、娘と連なる悲しみのモノガタリなのです。悲しみと絶望のうちに祖母は亡くなり、いよいよ若宮が主人公です。
若宮は成長するにつれ、魔性の美しさを輝かせます。おまけに学問は出来る、琴や笛も巧い、大人の女性に取り入る術も心得ている。敵である弘徽殿の女御さえ、若宮を見ると微笑まずにはいられない。
こんな子ども、身近にいたら不気味~~わたしなら逃げ出しますね。ま、現実にいるとは思えませんが。
帝はこの子の将来をどうしようかと思い、家臣の子と偽って、高麗人(こまうど)の人相見に占ってもらいに行かせる。
今でいうなら、天皇が自分の子を宮内庁の役人の子に仕立てて、帝国ホテル辺りの「外国人の人相見」に診てもらいに行かせる、という設定。
「高麗」は「コウライ」ではありません。「コマ」です。長い間、このモノガタリの中の「コマ」とはどこか。研究されてきましたが定説が打ち立てらました。
渤海(ぼっかい)という国です。現在の中国北東部から朝鮮半島北部、ロシア沿岸にかけて存在した王国。海洋交易で200年ほど栄えましたが、唐が滅びた後、926年に契丹という国に滅ぼされました。
日本が渤海と盛んに交易をおこなったのは醍醐天皇のころ。記録にちゃんと残っています。
これが一つの根拠として「紫式部は醍醐天皇の時代を舞台として源氏物語を書いた」と確定したのです。(他にも根拠あり)
紫式部は自分の100年ほど前の時代を舞台に源氏物語を書いた。つまり林真理子さんが明治時代を舞台に書いたようなもの。
遣唐使を廃止したのは894年。その後も朝廷は盛んに大陸との交易を実施していたのです。「遣唐使を廃止して国風文化が盛んになった」という説は間違っている、と歴史学者や国文学者は長年言っていました。
最近、ここにに関しては教科書の記述が少し変わったそうです。
唐が滅び、渤海が滅び、契丹が滅びても、日本人は大陸から渡って来た品々を「唐物」(カラモノ)と呼んでいたのですね。頭の中は唐土(もろこし)でいっぱい~
ところで、当時の「唐~渤海~日本」の関係は研究者によると、唐が「親」、渤海が「叔父」、日本が「甥」だとか。すると別の研究者が、いや、日本が「叔父」、渤海が「甥」だと反論。騒動が持ち上がり、決着はついていないそうです~
紫式部のころは唐は、とうに滅びていて、宋の時代だったのです!平安貴族たちはそれを知らなかった……
でも、紫式部は渤海人、つまり高麗人(コマウド)のことをしっかりとリアルに書いた。彼女の知識量はものすごい。まさに、若宮(光源氏)並みの頭の良さ!
源氏を読むには、古代中国大陸の歴史とか長恨歌を少しでも知っていると、断然、輝きが違ってくる!
この地図の右上、渤海という微かな文字、読めますでしょうか。
源氏物語は、まさにグローバルな小説だった。
今では中国や韓国に多くの源氏研究者が生れ、日本の研究者との交流の中から、「妾」「更衣」「女御」の本来の意味もどんどん明らかになってゆきつつあります。
源氏物語は今や文化大使。それぐらいスケールの大きい小説。「怖ーい」を通り越して、わたしたち現代人は、ただただ、紫式部を尊敬するばかり!
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