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王朝時代の庶民の家

平安時代といってもほぼ400年もある。前期、中期、後期では別の時代のように違っているが、私たちは雅な王朝文化の時代を平安時代とイメージしている。

その辺の学問的な定義はさておき、その頃、庶民はどんな家に住み、どんなものを食べていたのだろうか。

テーマを一つに絞り、住居について考えてみた。
貴族の寝殿造りの居宅はおよそ5000坪。大きな池があり、優美な舟を浮かべ、築山があり、そこに神さまをお迎えして管弦楽の生演奏で接待する。

それだけでも現実離れしたファンタジーの世界だが、働く庶民がいてこそ、貴族のこの雅な暮らしは可能なわけだ。
では、庶民はどんな家に住んでいたのか。調べれば調べるほど、訳がわからなくなってきた。

現代と同じで、庶民でもいろいろいる。
いちばん下っ端の庶民は縄文時代の竪穴式住居とほぼ同じ程度の「家」というより「巣」に住んでいたらしい。
現代でも私たちの目にあからさまに触れないだけで、「起きて3畳。寝て3畳」の空間に住んでいる家族はいるだろう。

少しましな庶民は、都のなかに、「一戸」と呼ばれる単位の土地を手に入れ、日々の生業を執り行い、生計をたてていた。その土地はまさか朝廷から給付されたわけではあるまい。(貴族は平均5000坪の土地を朝廷から給付されている)買う?ローンも無い時代、買えるわけがない。

その「一戸」だが、どう計算しても現代の120坪ぐらいになるのだ。手当たり次第、様々な本に当たってみたが、広さの感覚が現代とは違うようで、資料に出ている「民の家」は平均100坪のようだ。

今と違い平安時代の都は空き地が多く、盗賊の巣窟もあちこちにあったらしい。
幅84メートルもあるメインストリート朱雀大路はあちこちで牛馬の放牧が行なわれ、側溝には死体が投げ込まれていることもあった。また、今でいうホームレスが束になって棲みついたり……。

「平安京復元図」(『蘇る平安京』淡交社)を見ると、貴族の大邸宅の近くに「民家」がけっこう立っている。この「民家」が庶民の家なのか。それにしても広い区画だ。

「民家」といっても,「一戸主」の半分の大きさの宅地も珍しくはなかったらしい。

そもそも京の都は造営途中で放り出され、未完のまま放置されていたのだ。右京は人家もほとんどなくほとんど廃墟状態。左京には貴族の大邸宅や、八条、九条辺りには別荘もあったが、田畑もあり、貴族も庶民も比較的近くに住んでいたようだ。

『源氏物語』「夕顔」で元セレブ貴族で今は落ちぶれた夕顔の仮の家が五条界隈にあり、それより南の「田舎地区」に、元東宮妃の六条御息所が住んでいるというのは、どうにも解せなかったが、復元図や他の本を返す返す眺め読むほどに何となく分かってきた。

今ほど土地は高価な「物」ではなかった。
空き家には適当に棲みつけばいいし、朱雀大路に棲みつくこともできた。貴族の邸宅には土地の権利証のようなものがあったが、庶民の家はそれがあったか、なかったかも分からない。

枕草子には中宮定子のおわします居宅の中に乞食が住み着いたり、女芸人が入ってきて踊ったり歌ったりする場面がある。

1085年の記録では、京都左京四条二坊の「140坪」(今の単位)の土地をある未亡人が売った記録が残っている。
その価格は150石、今のお金に換算するとほぼ540万円ぐらい。
 

古、土地は非常に安かった。運がよければタダで棲みつくこともできた。

だから庶民でも、現代では考えられないほど広い土地に小屋を立てて住むことができたのだろう。その土地で牛馬を飼い、物置のようなものを造り、家のない親戚などを住まわせることも普通だった。

などなど考えると、庶民の家「一戸」が100~120坪だったと考えてもおかしくない。

つまり、空き地がたくさんあり、人口が今よりずっと少なかった時代、土地は容易に入手できた、と想像するしかなかった。

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