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猫と戦争と父

1月8日に入院、2月17日に大腸癌手術。退院するとコロナ禍。

本屋は閉まっている。外出もできない。なんと半年以上本屋に行かなかった!

7月1日、駅前のショッピングモール内の紀伊国屋に行った。

買った本は「猫を捨てる」(村上春樹)、「ペスト」(カミュ)、「すごいトシヨリBOOK」(池内紀)、「俳句歳時記」(日下野由季)の4冊。

まっさきに「猫を捨てる」を開く。

題名がわたしのトラウマを大きくする。でも読まずにはいられない。

鹿児島市に住んでいたころ、幼いわたしの友達は3匹の猫だった。中でも、タマはわたしの母であり姉であり親友だった。

賢くて、自分の生んだ子供の数を数えることが出来て、一匹隠すと、わたしの後を付いて回って「返してよ」とすがりつくように鳴いた。

父が銭湯に行くと、帰るころを見計らってお迎えに橋の袂まで行った。

鹿児島から埼玉に引っ越す時、母はわたしに黙って猫を捨てた。後で母から聞いたが、タマだけは連れて行こうとした。しかし、タマの子供の二匹を近所の大学生に頼んで、箱に入れると、タマは鳴きながら、大学生の自転車を追いかけて行って、帰っては来なかったという。

その話を聞いた時、わたしは泣き明かした。

我が子を追いかけ、自転車の後を付いて行ったタマは、きっと絶望の涙を流していただろう。わたしたちを恨んだだろう。

わたしは大人になってもタマの夢をよく見た。タマはわたしを許してはくれなかった。

猫を捨てたことで、いや、捨てることを止めることができなかった時点で、わたしは人生に失敗したと今も思っている。

この地に引っ越してから、今まで沢山の猫を世話した。飼った。看取った。

タマへのおわびとして。でもタマは許してくれなかった。

父が、ある日、ぽつんと言った。

「タマたちはどんな最後を遂げたのだろうね。可哀そうなことをした」

見ると父の頬に涙が光っていた。わたしは応えもせず、場を立った。わたしも泣きそうになったのだ。

そんなことを思い出しながら本を開いた。

本には、猫と父と戦争のことが淡々と書かれていた。

それがそのままわたしの記憶に重なった。村上春樹とわたしは同世代だ。親兄弟から直接戦争体験を聞いた最後の世代ではないだろうか。

猫を捨てた後ろめたさ、悲しみと戦争体験が重なっていて、わたしは自分の父の話を読んでいるような気がした。

わたしたち世代には親から直接聞いた戦争体験を語り継ぐ義務がある。noteにも数編書いた。

note  に書かなかったことがある。父は妻(わたしの母)に絶対ズボンをはかせなかった。

父が亡くなり、母が施設に入所した時、スタッフに言われた。「鮫島さんは絶対ズボンをはかないけれど、スカートは不便だから、ズボンはかせてください」

母にそう言うと、母は、

「女がズボンをはくと、お父さんは(夫のこと)はオンナが竹槍訓練させられていたことを思い出すって。だから、ぜったい女のズボン姿は見たくないって」

初めて聞いた。

思えば、父はわたしや姉にもズボンをはかせなかった。だからわたしは今でもめったにズボンをはかない。

父の「オンナのズボン姿嫌い」の根っこにあったのは、女性がモンペをはいて銃をかざし、竹槍を振り回し、防空演習をさせられた姿を絶対見たくない、という思いだったことを初めて知った・

父は、兵役検査の日には必ず下痢を起こし、不合格だったとか。結局戦地には行かなかった。美術教師だった父にとって戦争ほど醜悪かつ恐ろしいものはなかったのだろう。

そして、父は父なりに「オンナがズボンをはく姿は見たくない」という、そんな形で戦争の記憶を私たちに語り継いだのだ。

今、モンペがお洒落着として売られている。それを見るとわたしは「戦争を思い出すから、絶対、はくな」と妻に厳命した父を思い出すのだ。

村上春樹は言う。

「父は戦場での体験についてほとんど語ることがなかった。(略)おそらく思い出したくもなく、話したくもなかったのだろう。しかしこの事だけは、たとえ双方の心に傷となって残ったとしても、何らかの形で、血を分けた息子である僕に言い残し、伝えておかなければならないと感じていたのではないか」

猫を捨てたことを心の傷として抱えていた父、思い出して涙をこぼした父。オンナがズボンをはくと戦争を思い出す、と嫌がった父。

そんな父がわたしは好きだった。今はこの世にはいないが、誰よりも「愛おしい、可愛い」人だった。

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