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亡き長兄へ・技量不足の私なりに書きました。

書いたものにあれこれ解説をつけてはいけないと分かっていますが、今回の台湾引揚記を書くために、語りたくないお兄さんにあれこれ聞いたこと、今さらながら感謝、そして微かな後悔もあるのです。
あなたは言いましたね、「書くのも語るのもやめておけ。誰もわかってはくれない。それどころか、戦争体験すらない人たちにあそこが違うここが違うと非難され、俺の同級生は二度と語ることも書くこともしなくなった」と。

ただ私なりに力を尽くしました。
第一次資料としては『日本人に知ってほしい「台湾の歴史」』を使いました。図書館で調べたのですが、在台湾日本人の数が資料によって違うのです。在台湾沖縄人とか朝鮮人とか軍属までを入れている資料あり、理由はわかりませんが除外している資料あり。(沖縄出身の人と朝鮮の人は多分どうでもよかったのでしょう)
私は日本政府の発表する数字には疑惑をもっていますので、民間の出版社が書いたものを使いました。この選択は正しかったと思っています。


大竹援護局にたらされていた幕

あなたが思い出し思い出し書いてくれた図。あなた以外の誰が書けたでしょうか。『引揚者の皆さんご苦労様。大竹援護局』そのメモは今も大切にとってあります。


当時の大竹港

記憶も定かではないが、と書いてくれた図。これ以上の資料があるでしょうか。私は台湾引揚を何かの形で書きたいと思って『台北中日経済文化代表處』に足を運びました。

所長からのお手紙

今も大切にとってあります。なんと10年前のもの!

手書きの図

同じ引き揚げ者のM様には多くの資料をいただきました。あの方も他界されています。許可を得ることもできないのでここには載せませんが。あの方の一家は同じ教員仲間で最後の引揚船で帰ってきたとか。あの頃、日本人をどんな順番で乗せたのかそんな計画などあるはずもありません。どなたかが教員は第二次引揚だとご指摘してくれましたが、「二次も一次もない。とにかく取り残されないように必死でキールン港に向かった。あの状況は経験者にしか分からない」と次兄は語ってくれました。

機雷に関しては、今日、あの頃集めた資料を見ていたら、「1945年3月27日,日本海に投下された機雷は推定110000個。そのうち5000個が関門海峡に投下され、現在も1700個が未回収」と。その資料の出所は今となってはわかりませんが、終戦祈念日特集の新聞記事だったと思います。

そういうことすべてを書くと膨大な資料集になるし、台湾でもいまだにわかっていないことがたくさんあるのですべて割愛しました。当時の台湾総督安藤利吉が服毒自殺か他殺かもいまだに解明されていないのですから、ほぼすべては闇に葬られたといっていいのでしょう。

機雷に触れて引揚船が沈没したというニュースを祖母は日本で聞き、家族全員死んだと思ったと、よく語ってくれました。私たち全員がよれよれになって田舎の祖母の家に着いたとき、祖母は幽霊だと思ったと……。
戦争体験者、引揚体験者が亡くなってゆく中、語り継ぐ人自身がいなくなります。私は政府がそれを待っているのではないかと思うのです。なかったことにしたい。引揚なんか船に乗るだけのことだった。機雷なんかどこにも落ちていなかった、と。

でもお兄さん、私は自分の持てる力で、どう語ったら戦争も引揚も知らない人に伝えたらいいか、考え続けました。というのは戦争体験のない方は、船に乗るというのは観光船のことしか頭にないのです。
『引揚』は「運動会」でも、「文化祭」でも、「修学旅行」でもない、まして「観光旅行」じゃない。貨物船の船底に押し込められて、赤痢菌まみれになっての旅だった、と分かってほしいと思うのが間違いかな、とふと思います。
今のウクライナ戦争をニュースで見ていてもロシアのプーチンがいかに嘘の数字を発表し、自国民をも欺いていることに啞然とします。まして80年も前のこと、特に満州引揚に関しては「なんで子どもを満州においてきたのか」「連れて帰るのが常識だ」「嘘だろう」という発言は、中国残留孤児が話題になったころ、多く見受けられました。これでは語れません。怖くて何も言えない……。
実際、どれほどの残留孤児が生まれたのかは政府は発表もしませんでした。できないでしょう。残された本人でさえ、自分が残留孤児だと知らない人もいるのですから。


敗戦から日本人引揚までの主な出来事(「日本人に知ってほしい台湾の歴史」)より

でもお兄さん、
空しくても、分かってもらえなくても、その場にいた人だけが見ている光景があると私は思うのです。貴重な図やメモを見るたびにそう思います。
このまま埋もれているのはもったいなくて、今日、記事に載せました。
                   お兄さんへ


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