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戦う歴史学  2


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 教授たちはいつでも一等資料を読み込むことが必要であるという。一等資料こそ歴史学の基本である。正確に読みこむと同時に、その資料の裏側にまで想像力を駆使して読まなければならないとも指摘する。しかしその一等資料の裏側を読み込むということも、結局はその一等資料を裏打ちする歴史学になるではないか。一等資料とはいってみれば公文書のようなものだった。時代を征服した支配者側の記録であり、あるいは階級社会の上位に位置する人間たちが残す文書である。歴史がいつも時代を制圧した側から描かれていくのは、つねに記録を残すのが支配する側だからである。

 歴史とはいうまでもなく支配者たちや貴族たちで成り立っているのではない。彼らの背後に、彼らが踏みつけている下層社会に、夥しい人の群れが存在している。その下層社会こそ歴史を支える主体であるのに、歴史学はその社会を闇の底に葬ったままである。その社会を照らしだす資料が絶無に等しいからだという。しかし本当にそうなのか。落書き、ゴミ、屑とよばれる四級資料、五級資料、さらには民間の伝わる口承などを、大海に捨てられた針を探すように漁り、あるいは考古学や民俗学や人類学や地理学等の連携を深めるとき、闇の底に光が放たれて、下層社会の人々の生活が見えてくるのではないのか。

 東大の歴史学がつねに記念碑的、骨董的、権威的歴史学──すなわちその時代を制圧した支配する側からの歴史になるのは、一等資料神話から抜け出せないからであり、この一等資料神話こそ、歴史の主体をとらえる歴史学を打ち立てる大きな壁になっている。いまや一等資料を捨て去るべきときがきた。新世代の歴史学者は一等資料を読みこむことではなく、これを捨て去り広大な未知の森のなかに踏み込んでいく勇気と情熱と想像力が必要なのだ、といった攻撃的なレポートを提出したのだった。すると笠原教授は講義の冒頭に、奇妙なレポートが混じっていたが、指示通りのレポートを提出しなければ点はつかないぞと嘲笑したらしい。果たして彼のレポートにつけられた点はF、つまりおバカさんという評価だった。そういういきさつがあって後期の期末テストになるのだが、なぜかこの教授は前期とまったく同じテーマを生徒たちに要求してきた。「中世荘園の政治的社会的形態を再度論述せよ」と。

「これはおれに対する挑戦なんだな。荘園論のレポートを出せと。出さなければ単位は与えないという脅迫状でもあるんだな」
「そうかな、教授が一学生にそんなことするかな」
「いや、絶対にそうなんだ。前期のレポートを提出した後、この教授はいやにおれを見る目に棘があるんだよ。なにか警戒しているような、なにか石でも投げつけられんじゃないかという畏怖と敵意と憎悪をこめたような目でぼくを見ている。ぼくの存在が彼には脅威なんだろうな」
「それは君の思い過ごしじゃないのか。荘園って中世という時代を研究するときの定番なんだろう。その教授は、受講した学生たちが、どれほど荘園に関しての認識を深めたかを見たいからじゃないのか」

「そうじゃない、彼はそんな人物じゃない。ぼくはまったく新しい荘園論を構築している。彼はそれを知っているんだ。ぼくの荘園論は確実に日本の中世史研究に新しい扉を開く。彼はそれを読みたくて仕方がないんだ。しかしぼくは書かない。単位をくれなくたってこのテーマでのレポートは出さない。彼は弟子たちの研究を換骨奪胎して、自分の学説として発表してきた人物だからね。そんな人物にぼくの研究を差し出すわけにはいかない」
「そういうことがあるんだ」
「学者の世界って、そういうもんなんだよ。しかし挑戦された以上、受けて立つことにしたんだ。ぼくのリングでね。前回、教授は、ぼくの挑戦から逃げてしまったが、今度こそリングに立たせて、さらなる痛撃なるパンチを浴びせたいと思ったわけだよ。彼にというか、記念碑的、骨董的、権威的歴史学にね。東大という圧倒的権威に対する挑戦のゴングがいま打たれというわけだよ」

「しかしだよ、君は、東大教授になる、それが君の描いた人生プランだろう。そんなレポートを書いたら、東大から追放されるんじゃないのか。その教授は東大歴史学のボス的存在なんだろう」
「そこだよ、ぼくがこのレポートのタイトルを「戦う歴史学」としたのは、二重の意味を縫いこめてあるんだ。なにも大学教授は東大ばかりじゃない。東大を追放されたって、大学教授になる道はいくらだってある。むしろ戦う歴史学を打ち立てるためには、東大を追放されたほうがいいとまで思うようになった。だからこのレポートは、ぼくが戦う歴史学者としてこの地上に立つ、最初の論文ということになる。その最初の論文を、まず君に読んでもらいたいんだ」

「戦う歴史学」は二つのテキストを論じていくのだが、その最初のテキストが清水三男の「日本中世の村落」だった。須藤は清水がその本の冒頭に記した「まえがき」から稿を起していく。その「まえがき」の主要な部分をここでもちょっと書き出してみるが、

「じっとして居られない気持ちが私をこのささやかな仕事に駆り立てた。その気持ちとはいうまでもなく第一線から伝わって来る誰しも感じているあの気持である。何か仕事をしなければ世間様にすまぬというようなより義理詰から来る責任感ではなく、もっと一線と一体化した直接的な気持である。生意気な考え方かもしれぬが、日本文化建設の一兵士としての心組みである。‥‥‥思えばこうした自己反省の一つの大きな転機となった三年間の和歌山生活において、共に訓育に携わった若い同僚の中の二人までが、既にはや今次戦線の花と散ってしまった。空しく故国に生きながらえている私は、果たしてこれら英霊に対して恥じない一日一時を送り得ているか。せめての御奉公にと仕事の余暇を求めて、あらゆる利欲から離れて心楽しく、しかし遅々として書き綴った。誇張していえば、いつ死んでもよいという覚悟を固めるための私の遺書の一つでもあった。年にやっと二十頁そこそこのものしか書き得なかったくらい思想の貧弱な私が、曲りなりにも一冊の書を書き得たということは、まことに夢のようである。到底私の力だけでない。何物かの加護のたまものである」

 この部分からだけでも、「日本中世の村落」がただならぬ時期に書かれた、ただならぬ歴史書だということがわかる。清水は、その本を世に投じる四年前に、治安維持法で逮捕されているのだ。しかしこの若い歴史学者は起訴されることなく釈放された。なぜ釈放されたのか。そのあたりのことを清水は沈黙で包みこんでいるが、須藤は清水の歴史学の核心はその部分にあると、その沈黙の包みのなかに大胆に踏み込んでいく。当時、共産主義や社会主義の思想にとりつかれ、それらの思想をペストのようにまき散らす思想犯をとらえ、思想転向を迫っていくのが国家の政策であった。事実、多くの共産主義者や社会主義者が獄中で転向していったが、清水もまた国家の弾圧に屈したのかもしれないと須藤は書く。しかしそのとき清水は、自分に一つの契約を課したのではないのか。このまま獄中に消えるわけにはいかない、自分には書き上げなければならぬ論文がある、その論文を世に投じなければならぬ使命がある。その仕事をさせてくれるなら悪魔とだって取引しよう。かくて彼は、憲兵隊検事の差し出した思想転向の供述書に捺印したのではないかと。

 憲兵隊に四六時中監視される清水は、同僚たちどころか、家族との雑談でさえ注意しなければならなかった。我が身を貝のように隠して、一人黙々と、刻々と、彼の意志と思想を原稿用紙のなかに刻み込んでいく。第一章、荘園と中世村落の関係。第二章、保と村落。第三章、荘園に現れた村。第四章、郷。第五章、中世村落社会、と。それらの論考は四百ページになんなんとする。それまで一年にやっと二十ページ程度の論文しか書きあげることができなかった清水にとって、それは奇跡のような仕事だった。三年の月日をかけた渾身の一冊が上梓された。当然、その本は憲兵隊の検閲官たちによって検閲されたはずである。しかし彼らの目には、この本の中に刻み込まれた、悪魔と取引した清水の意志と思想を見抜くことができなかったということになる。

 それまでの歴史学は、中世の日本の村落を、荘園という制度から描くことが定石といったものだった。そこから見える村落とは、田畑で泥まみれの作業に明け暮れ、ただ支配者階級に酷使される牛馬同然の存在として描かれる。文字もなければ文化もない。唯一の娯楽は房事ぐらいで、おかげで子供ばかりが生れてくる。毎年不作で、不作なのに大半の収穫物は収奪される。どの農家も餓死寸前だから、生まれてくる子供は次々に間引きする。農民たちの知恵といったらその程度のものだ。荘園とは支配者階級が村落を統治するために敷かれた制度であり、彼らの世界を維持していくために、村落から絞り取る制度だった。荘園という一等資料から見えてくる村落とはこのような社会だった。その時代の村落を照射する一等資料が他にない以上、歴史学はそれが歴史的事実としてて描くばかりであった。

 しかし清水は、荘園という制度からではなく、村落の視点に立った歴史学を打ち立てるために、一等資料を捨てた歴史学者だった。彼がつねに手に載せていたのは、一等資料から比べたら塵芥のような四等資料、五等資料だった。それらの資料がわずかに照射するものを、知力と想像力をふりしぼって追及していくとき、そこにまったく新しい村落が現れてくるのだ。村落には、それぞれの村落が作り出した政治があり経済があった。村落という社会を統治する機構と機能を村人たちは自らの力で作り出していたのだ。村落には自治の精神が脈々と流れていた。文字がないどころではない。彼らは彼らの文字を書く人々であった。文化がなかったどころではない。彼らは彼らの文化を生み出していった人々であった。

 彼が掘り起こしたその世界を描くために新しい文体が必要だった。清水はその文体を創造した。まったく新しい文体が。その文体を創造したからこそ、規模雄大な中世論を描くことができたのである。「‥‥と思われる」「‥‥と推察できる」「‥‥に違いない」「‥‥と考えられる」「‥‥であろうか」「‥‥と理解されると思う」といった文章で組み立てていく文体である。およそ科学であるべき学術論文に「‥‥思う」だとか、「‥‥あったに違いない」とか「‥‥推察できる」などという文章など論外である。しかしその時代を照らす資料がない以上、フィクションとノンフィクションをつなぐような文体で編みあげていく以外にない。歴史学者が歴史の底に眠る歴史を照射するには、この文体を確立することが不可欠だった。この文体を創造することによって、清水はそれまでだれもがなし得なかった歴史の底に踏み込み、中世の村落がどのような社会であったのか、人々はどのような生活をしていたのかを描くことに成功したのだ。「日本中世の村落」は、日本の歴史学を転換させた本だった。

 さらに清水は、そのページのなかに、彼の意志と思想を刻み込んでいった。支配者階級はその勢力を拡大せんと、次々に村落に軍隊を送りこんでは、税という名のもとに収奪する制度を敷いていく。自治の精神をもった村落は抵抗したにちがいない。そこに戦いが起こったかもしれない。しかし抵抗者はたちまち殺戮されていく。武装した軍隊は圧倒的だ。村落の自治の精神は打ち砕かれ、支配者階級に収奪されるだけの社会になっていく。収穫物はことごとく奪われる。それどころか農民は都市の建設に駆り出される。彼らの勢力圏を拡大させるための軍隊の兵士として召集される。戦乱が起これば突撃隊として真っ先に討死させられる。村落にはさまざまな祭事や儀式や行事があったが、それも衰退していく。豊かに花開いていたさまざまな文化が萎れていくる。

 清水はその論文の行間に、その文章の背後に、支配者階級──大日本帝国という国家を糾弾する言葉を刻み込んでいるのだ。国家とはなにか。国家には人々を戦争に駆り立てる権利があるのか。人々の人生を収奪し、戦場に駆り立て、その最前線に立たせ、天皇陛下万歳と叫んで散華させる国家とはいったいなにものなのだ。この戦争は、もともと軍人たちが、軍人たちのためにはじめた戦争ではないか。こんな馬鹿げた戦争になぜすべての日本人が犠牲にならなければならないのだ。「日本中世の村落」は大日本帝国を糾弾する本でもあったのである。

 憲兵隊の検閲官たちには歴史学者たちだっていたのである。彼らによって細部まで注意深く読み込まれた違いない。彼らがその本の発行を許諾したのは、日本はすでに中世の時代にかくも豊かな地域社会を作り出していたのだ。この本は大日本帝国を讃歌する歴史書であるといった読まれ方をしたのかもしれない。あるいはまたその本の冒頭に記された「共に訓育に携わった若い同僚の中の二人までが、既に早今次戦線の花と散ってしまった。空しく故国に生きながらえている私は、果たしてこれら英霊に対して恥じない一日一時を送り得ているか」というくだり、あるいは「父なき後、私たち七人の兄弟姉妹の教育にすべてを犠牲にして生き抜いて来られた母上は、特に人一倍ご心労をかけた私の大罪をこの機会に改めて謝したい」といったくだりに、まんまと欺かれたというのだろうか。

 遺書として書きあげた渾身の大作「日本中世の村落」を世に投じると、清水は自ら望んで出征する。須藤が、獄中で清水は自らに一つの契約を課した、あるいは悪魔との取引をしたと推測するのはこの部分だった。召集されたのではない。自ら志願して日本帝国陸軍の兵士になったのである。彼が配置されたのはカムチャッカ半島が望見できる大日本帝国領の最前線、千島列島のホロムシロ(幌筵島)だった。ソ連は終戦直前に日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、日本領に怒涛のように攻め込んでくる。この島にもソ連軍の大部隊が上陸してくるが、しかしそのときすでに大日本帝国は全面降伏をしていたので、守備隊は交戦することなく投降する。清水もまたシベリアへ送られ、スーチャン捕虜収容所に拘留されるが、一九四七年、その収容所で死亡した。

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「戦う歴史学」は《草の葉ライブラリー》刊行の「最後の授業」に所収

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