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かもめ 第三幕 アントン・チェーホフ

 

「かもめ」は、最初ペテルブルグのアレクサンドリンスキー劇場で上演され、無惨な失敗に終わった戯曲であるが、のちにモスクワ芸術座の上演が大成功をおさめ、劇作家チェーホフの名前を不朽のものにした。

「かもめ」では、女優志望の娘ニーナと、作家志望の青年トレーブレフの運命が物語の中心になっている。名声を夢みて、有名な作家トリゴーリンのもとに走ったニーナはやがてトリゴーリンに捨てられ、彼の間にできた子どもにも死なれ、精抻的にも肉体的にも傷つく、しかし二年後、すでに新進作家になったトレーブレフを訪れた彼女は、もはや自己の生きてゆく道をはっきりと自覚した女性であり、プロの女優としての意識に徹している。そして、「あなたは作家、あたしは女優」と決意を表明する彼女に対して、トレーブレフは二年前とまったく同じ台詞をつぶやくだけにすぎない。自分のものを持たぬ彼にとっては、これからの長い人生が無意味なものにしか感じられず、泥まみれなっても生き抜こうとするニーナとは対照的に、自殺の道を選ぶほかなくなるのである。

 

第三幕

ソーリン家の食堂。左右にドア、食器棚、薬戸棚。部屋の中央にテーブル。トランクが一つと、ボール箱数個、出発の支度が見てとれるトリゴーリン、朝食をとっており、マーシャがテーブルのわきに立っている。

マーシャ  これはみんな、作家としてのあなたにお話ししているんです。タネになさっても結構ですわ。良心にかけて言えますけれど、もしあの人が重傷だったとしたら、あたし、一分たりと生きていなかったに違いありませんわ。これでもあたし、勇気のある女ですもの。だから、ひと思いに決心したんです。この恋を心からひっこぬいてしまおう、根こそぎ引きぬいてしまおうって。
トリゴーリン  どうやって?
マーシャ  結婚するつもりですわ。メドヴェージェンコと。
トリゴーリン  あの先生?
マーシャ  ええ。
トリゴーリン  わからないな。何の必要があって。
マーシャ  望みのない恋をして、何年間もずっと何かを待っているなんて……結婚すれば、もう恋どころじゃなくて、新しいいろんな気苦労が昔のことをすっかり掻き消してくれるでしょうからね。だって、とにかくやはり、一つの変化ですもの。もう一杯飲みましょうか?
トリゴーリン  飲みすぎやしないかな?
マーシャ  そんな! 〔グラスに注ぐ〕そんな目でごらんにならないで。女って、あなたが考えてらっしゃるより、よく飲むんですよ。あたしみたいに大っぴらに飲むのは少数で、たいていはこっそりですけど。そうですよ。それもみんな、ウォトカかコニャック。〔グラスを合わせる〕 乾杯! あなたって気さくな方ですわね、お別れするのが残念ですわ。〔二人、飮む〕トリゴーリン  僕だって帰りたくないんですがね。
マーシャ  でしたら、こちらの奧さまに、もっといるようにお頼みになれば。
トリゴーリン  いや、もう残る気はないでしょうよ。息子さんがあまり非常識な振舞ばかりするんでね。ピストル自殺をはかるかと思えば、今度は僕に決闘を申しこむつもりでいるという話だ。いったい何のためにです? ふくれ面をしたり、鼻を鳴らしたり、新しい形式を説いてみたり……しかし、新人にも旧人にも、みんなに行きわたるだけ席があるんですからね、何も押し合いをする必要はないだろうにな?
マーシャ  まあ、嫉妬もあるでしょうし。もっとも、あたしには関係ないことですけど。
〔間 ヤーコフがトランクをさげて左から右へ通ってゆく。ニーナが入ってきて、窓のわきに立ちどまる〕
マーシャ  あたしのあの先生はたいして頭はよくありませんけど、気立てのいい人で、貧乏ですし、それにあたしをとても愛してくれているんです。気の毒なくらい。それに年取ったお母さんも気の毒ですし。さ、それじゃどうぞお幸せに。厭なことはお忘れになってくださいね。〔固く握手する〕ご親切、ほんとに感謝していますわ。本を送ってくださいませね、必ずサイン入りで、ただ、「謹呈」なんて書かないで、あっさりと「素姓不明、何のためにこの世に生きるかも知らぬマリヤヘ」とだけ書いてください。じゃ、さようなら・・・‥〔退場〕
ニーナ  〔拳を握りしめた片手をトリゴーリンの方にさしのべなから〕偶数か奇数か?
トリゴーリン  偶数。
ニーナ  〔溜息をついて〕はずれ。手の中にはお豆が一つですもの。あたし、女優になろうか、なるまいか、占ってみたんです。せめてだれかアドバイスしてくださるといいんだけど。
トリゴーリン  こういう場合、アドバイスなんかできませんよ。〔間〕
ニーナ  お別れですわね、そして……たぶん、もうお目にかかれませんわね。記念にこの小さなロケットを受けとっていただけませんかしら。先生のイニシャルを彫らせたんです……こっち側には先生のご本の題名を。「昼と夜」って。
トリゴーリン  実に垢ぬけてる! 〔ロケットにキスする〕素敵なプレゼントだ!
ニーナ  時折はあたしのことも思いだしてください。
トリゴーリン  思いだしますとも。あの晴れた日のあなたを思いだしますよ。ほら、一週間前、あなたは明るい色の服を着てらして……いろいろ話したじゃありませんか・・・‥それと、あの時、ベンチに白いかもめがおいてありましたっけ。
ニーナ  〔考えこむように〕ええ、かもめが……〔間〕もうお話ししていられませんわ、だれか来ますもの……ご出発の前に二分間だけ、あたしに割いてください、おねがいです! 〔左手に退場。同時に右手から、アルカージナ、燕尾服に星章をつけたソーリン、さらに荷作りに忙殺されているヤーコフ登場〕
アルカージナ  兄さんは年寄りなんだから、家に残ってらっしゃいな。そんなリューマチの身体で客に出歩くなんて? 〔トリゴーリンに〕今出て行ったの、だあれ? 二―ナ?
トリゴーリン  うん。
アルカージナ  失礼。お邪魔したわね‥‥〔腰を下ろす〕どうやら、みんな詰めたようね、疲れちゃった。
トリゴーリン  〔ロケットを読む〕「昼と夜」百二十一ページ。十一行と十二行。
ヤーコフ  〔食卓のものを片づけながら〕釣竿も荷物にお入れになりますか?
トリゴーリン  うん。まだ必要になるだろうからね。本はだれかにやっておくれ。
ヤーコフ  かしこまりました。
トリゴーリン  〔ひとりごと〕百二十一ページ、十一行と十二行、か。その行に何があるんだろう? 〔アルカージナに〕この家に僕の本はあるかい?
アルカージナ  兄さんの書斎にあるわ。隅の書棚に。
トリゴーリン  百二十一ページ、と……〔退場〕
アルカージナ  ほんとよ、兄さん、家に残ってらしたら……
ソーリン  お前たちは行ってしまうし、お前たちのいなくなった家にいるなんてやりきれんからな……
アルカージナ  じゃ、町には何があって?
ソーリン  格別のことは何もないけど、でもやはりな。〔笑う〕県会のビルの基礎工事だの、何だのとね……せめて一、二時間なりと、穴ごもりのカマスみたいなこの生活の垢をふるいおとして生き返りたいよ。でないと古いパイプみたいに、つまっちまったからね。馬車を一時にまわすように言っといたから、いっしょの時間に出ようや。
アルカージナ  〔間のあと〕ま、気を滅入らせずに、ここでお暮らしなさいな。風邪をひかないようにね、あの子を監督して、いたわってやってね。よく導いてちょうだい。〔間〕これで行ってしまえば、結局、なぜコンスタンチンが自殺をはかったりしたのか、わからずじまいね。いちばんの原因は嫉妬だったような気がするわ、だから、ここからトリゴーリンを連れだすの
が早ければ早いほどいいのよ。
ソーリン  どう言ったらいいか? ほかにも理由はいろいろあったんだよ。当然だよ、頭のいい若い者が、こんな辺鄙な田舎にくすぶっていて、金も地位も、未来もないんだから。仕事は何もないしね。自分の無為徒食を恥じて、恐れているんだよ、わたしはあの子を度はずれに愛しているし、あの子もわたしになついてくれてるけど、やはり、結局のところ、自分はこの家で余計者だ、むだ飯食いの居候なんだ、という気がするのさ。それにむろん、プライドもあるし……
アルカージナ  あの子にも、頭が痛いわ! 〔考えこんで〕勤めにでも出ればいいのにね……
ソーリン  〔口笛を吹き、やがてためらいがちに〕いちばんいいのは、お前が、その……あの子にいくらか金をやることじゃないかと思うがね。何よりまず、あの子は人並みの服装やなんかをする必要があるよ。見てごらん、一張羅のフロックを三年も着て、外套もないんだから……〔笑う〕それに若い者だから、少し遊ぶのもわるくないだろうし……外国旅行なんか、どうかね……それくらい、たいして金もかからんしさ。
アルカージナ  でも、やっぱりね……まあ、服くらいなら、わたしにだってなんとかできるけど、外国旅行なんて……だめだわ、今だったら服も作ってやれないわね。〔きっぱりと〕お金がないもの!
〔ソーリン、笑う〕
アルカージナ  ないわよ!
ソーリン  〔口笛を吹く〕なるほどね。ごめんよ、お前、気をわるくしないでおくれ。信じるよ……お前は度量の大きい、育ちのいい女性だものね。
アルカージナ  〔涙声で〕お金がないのよ!
ソーリン  わたしにお金がありゃ、もちろん、あの子にやりたいところだけど。何もないんでね、一文なしだから。〔笑う〕わたしの恩給は全部管理人が巻きあげて、農業だの牧畜だの蜜蜂だのに使ってしまうんだよ。だから、わたしの金はむなしく消えてゆくばかりさ。蜜蜂は死ぬし、牛も死ぬ、馬なんぞ一度だって提供してくれやしない。
アルカージナ  そりゃ、わたしだってお金はあるけれど、なにしろ役者稼業でしょ。衣装代だけですっかり身代をつぶしてしまったわ。
ソーリン  お前は親切な、やさしい女だ……わたしはお前を尊敬してるんだよ……そう……それにしても、また、なんだか妙だな……〔ふらつく〕めまいがする。〔テーブルにつかまる〕気分がわるいんだ、それだけさ。
アルカージナ  〔おびえたように〕兄さん!〔支えようと努めながら〕兄さん、兄さんたら……〔叫ぶ〕だれかきて! だれか!
 〔頭を包帯したトレープレフと、メドヴェージェンコ登場〕
アルカージナ  気分がわるいのよ!
ソーリン  大丈夫、大丈夫だよ……〔徴笑して水を飲むJもう治ったよ‥‥それだけさ‥‥
トレープレフ  〔母に〕びっくりしないでいいんだよ、母さん、危険はないんだ。伯父さん、この頃、よくこうなんだから。〔伯父に〕伯父さん、少し寝ていなけりや。
ソーリン  ちょっとな、……でも、町へはやはり出かけるよ……少し横になってから出かけよう……もちろんさ……〔杖にすがって歩く〕
メドヴェージェンコ  〔彼の腕を支えて連れてゆく〕こんな謎々がありますね。朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足のものは何かって……
ソーリン  〔笑う〕まったくだ。そして夜中は仰向けさ。どうもありがとう、あとは自分で歩けるよ……
メドヴェージェンコ  また、そんな遠慮を! 〔彼とソーリン、退場〕
アルカージナ  びっくりさせられたわ!
トレープレフ  伯父さんは田舎暮らしが身体にわるいんだよ。淋しいのさ。だから、もし母さんが突然、気前のいいところを見せて、千五百か二千ルーブルぽんと貸してあげたら、伯父さんまる一年都会生活ができるんだけどね。
アルカージナ  お金なんてあるもんですか、わたしは女優で、銀行家じゃないのよ。
 〔間〕
トレープレフ  母さん、包帯を替えてよ。母さん、とても上手だから。
アルカージナ  〔薬戸棚からヨードホルムと包帯箱をとりだす〕ドクトルは遅刻ね。
トレープレフ  十時までに来るって約束したのに、もうお昼だものね。
アルカージナ  坐って。〔彼の頭から包帯をほどく〕まるで夕-バンみたい。昨日、よそから来た人が台所で、お前が何人なのか、きいていたわよ。ほとんど、すっかりよくなったわね。あとはたいしたことないわ。〔彼の頭にキスする〕わたしがいなくなってから、またバンなんてやらないでしょうね?
トレープレフ  しないよ、母さん。あれは絶望で気違いみたいになってた瞬間だったから、自分を抑えることができなかったんだ。もう二度としないよ。〔母の手にキスする〕器用な手だな。今でもおぼえてるよ、ずっと昔、母さんがまだ国立劇場に出ていた頃だから、僕は小さかったけど、アパートの中庭で喧嘩があって、アパートに住んでた洗濯女がひどく殴られたことがあったね。おぼえてる? 意識不明でかつぎこまれてさ……母さんはその女のところへせっせと通って、薬を届けてやったり、子供たちに行水を使わせてやったりしてたっけ。ほんとにおばえてないの?
アルカージナ  ええ。〔新しい包帯をさいてやる〕
トレープレフ  あの頃、僕らと同じアパートにバレリーナが二人いて……よく母さんのところへコーヒーを飲みに来てたっけ………
アルカージナ  それはおぼえてるわ。
トレープレフ  あの人たち、信心深かったね。〔間〕最近、特にここ何日か、僕はまるで子供の頃みたいに、やさしい気持でめちゃくちゃに母さんが好きなんだ。今の僕には、母さん以外に、だれもいなくなっちゃったんだ。ただ、どうして、なぜあんな男の言いなりになっているの?
アルカージナ  お前はあの人を理解していないのよ、コンスタンチン。彼はこの上なく立派な人よ。
トレープレフ  だけど、僕が決闘を申しこむつもりだってことが耳に入ると、立派な人柄とやらも、腰抜け役を演ずる妨げにはならなかったようだよ。立とうとしているもの。恥知らずな敵前逃亡さ!
アルカージナ  なんてばかなことを! ここを立つように、このわたしが頼んだのよ。
トレープレフ この上なく立派な人か! 僕と母さんとがあの男のことから喧嘩しそうになってるのに、今頃ご当人は客間か庭のどこかで、僕らをあざ笑ってるに違いないんだ……ニーナを大いに育成して、あの男が天才だってことを、とことん信じこませようと躍起になっているさ。
アルカージナ  わたしに不愉快なことを言うのが、お前には楽しみなのね。わたしはあの人を尊敬しているんだから、わたしの前であの人をわるく言わないでちょうだい。
トレープレフ  でも、僕は尊敬してないもの。母さんは、僕にまであの男を天才とみなさせたいんだろうけど、ごめんよ、僕は嘘をつけないたちでね、あの男の作品なんぞ、へどがでそうになるよ。
アルカージナ  それは妬みよ。才能もないくせに野心ばかりある人間てのは、本当の天才を否定してかかるほか、手がないもの。何も言うことはないわ。気休めよ。そんなの!
トレープレフ  〔皮肉たっぷりに〕本当の天才か! 〔憤然と〕話がここまで来た以上はっきり言っとくけど、僕はあんたたちのだれよりも才能豊かなんだ! 〔頭から包帯をむしりとる〕母さんたちみたいな頭の固い連中が、芸術界のボスの座を占めて、自分たちのやっていることだけを正当な本当のものとみなして、それ以外のものは迫害して窒息させようとしているんだ! 僕はそんな連中は認めないね。僕は母さんもあの男も認めるもんか!
アルカージナ  わたしは一度だってそんな芝居に出たことはありませんよ。わたしのことは放つといてちょうだい! 自分こそお粗末なヴォードビルーつ書けないくせに。なにさ、キエフの町人! むだ飯食いのくせして!
トレープレフ  しみったれめ!
アルカージナ  おんぼろ乞食!
 〔トレープレフ、坐って、ひっそりと泣く〕
アルカージナ  役立たず! 〔興奮して歩きまわりながら〕泣かないのよ! 泣くことはないでしょ……〔泣く〕泣かなくてもいいの……〔彼の額や頬や頭にキスする}可愛い坊や、堪忍してね……罪深い母さんを赦しておくれね。不幸な母さんを赦してちょうだい。
トレープレフ  〔母を抱く〕母さんにわかってもらえたらな! 僕は何もかも失っちまったんだ。彼女は僕を愛していないし、もう書くこともできない……希望は全部消えうせちまったんだ……
アルカージナ  やけを起こすんじゃないの……何もかもうまく行くわよ。彼はもうすぐ立つし、あの子だってまたお前を好きになるわ。〔彼の涙を拭いてやる〕さ、もういいわね。もう仲直りしたのよ。
トレープレフ  〔母の両手にキスする〕うん、母さん。
アルカージナ  〔やさしく〕あの人とも仲直りして。決闘なんて、いけないわ……必要ないじゃないの?
トレープレフ  わかった……ただ、母さん、あの男と会わずにいさせて。僕、苦しいんだ……むりだよ……〔トリゴーリン登増〕ほら来た……僕、席をはずすよ……〔急いで薬を戸棚にしまう〕包帯はドクトルにやってもらうよ‥‥
トリゴーリン  〔本のページを探している〕百二十ニページ……十一行と十二行……これだ……〔読む〕「もしいつか、わたしの命が必要になったら、いらして、取ってください」
 〔トレープレフ、床から包帯を拾いあげて退場〕
アルカージナ  〔時計をのぞいて〕もうじき馬車がくるわ。
トリゴーリン  〔ひとりごと〕もしいつか、わたしの命が必要になったら、いらして、取ってください。
アルカージナ  あなたの方の荷作りは全部すんだんでしょうね?
トリゴーリン  〔苛立たしげに〕うん、うん………〔考えこんで〕なぜ僕には、この清純な魂のよびかけの中に悲しみがきこえて、心がこんなに病的にしめつけられるんだろう? もしいつか、わたしの命が必要になったら、いらして、取ってください。〔アルカージに〕もう一日だけいようよ!
〔アルカージナ、首を横にふる〕
トリゴーリン  いようじゃないか!
アルカージナ  ねえ、あたしには、何があなたを引きとめるのか、わかっているのよ。でも、自分を抑えてちょうだい。少しばかり酔っただけよ、正気にお帰りなさない。
トリゴーリン  君も正気に返って、聡明な分別豊かな人間になっておくれ、おねがいだ、本当の親友として、この一件を見て欲しい……〔彼女の手を握る〕君は犠牲になれる人だ……僕の親友になって、僕を放してくれないか‥‥
アルカージナ  〔ひどく動揺して〕そんなに夢中なの?
トリゴーリン  あの子に惹きつけられるんだ! もしかしたら、これこそ僕の必要とするものかもしれない。
アルカージナ  田舎娘の愛が? ああ、あなたって自分をろくに知らないのね!
トリゴーリン  時によると人間は歩きながら眠るだろう、あれと同じように今こうして君と話していても、まるで自分が眠っていて、あの子を夢に見ているみたいなんだ……僕は甘いすばらしい空想のとりこになってしまったんだよ……僕を行かせておくれ。
アルカージナ  〔ふるえながら〕いやよ、いや……わたしはごく普通の女だから、その話のお相手はできないわ……私を苦しめないで、ボリス……わたし、こわいわ‥‥
トリゴーリン  君はその気になりさえすれば、非凡な女性になれる人じゃないか、幻想の世界へ運んでくれる。若々しい、うっとりするような、詩的な愛……そういう愛だけがこの地上で幸せをさずけてくれるんだ! そんな愛を僕はまだ経験したことがなかった……若い頃は雑誌社にお百度をふんだり、貧乏とたたかったりで、そんな余裕はなかったしね……今ここに、それが、その愛がやっと訪れて、招いているんだよ……それから逃げだすなんて、何の意昧がある?
アルカージナ  〔憤りをこめて〕あなた、気が狂ったのね!
トリゴーリン  それでもいいさ。
アルカージナ  あなたたちは、今日、みんなで申し合わせてわたしを苦しめるのね! 〔泣く〕
トリゴーリン  〔頭をかかえる〕わかってくれないのか! わかろうとしないんだ!
アルカージナ  ほんとにわたし、もうそんなに年をとって醜くなったの? ほかの女の話をぬけぬけとわたしにするなんて? 〔彼を抱いて、キスする〕ああ、あなたは気が狂ったのよ! わたしの素敵な、いとしいあなた……あなたはわたしの人生の最後のページなのよ! 〔ひざまずく〕わたしの喜び、わたしの誇り、わたしの幸福なんだわ……〔彼の膝を枹く〕たとえ一時間でもあなたに棄てられたら、わたし、堪えてゆけない。発狂しちゃうわ、わたしのすばらしい、立派なあなた。あなたはわたしの支配者なのよ……
トリゴーリン  人が来るかもしれないよ。〔彼女を助け起こす〕
アルカージナ  かまわないわ、あなたへの愛を、わたし恥じていないもの。〔彼の両手にキスする〕わたしの宝物、手に負えない人ね、無分別なことをしようとして。でも、わたしはいや、放しゃしないわ……〔笑う〕あなたはわたしのもの……わたしのものよ……この額もわたしのもの、この目もわたしのもの、この絹のように美しい髪もわたしのもの……あなたは全部わたしのものなのよ。あなたは才能豊かで、賢くて、現代の作家の中でいちばんすぐれていて、ロシアの唯一の希望なのよ……あなたの書くものには真実みや、簡潔さや、新鮮さや、健康なユーモアがみちあふれているわ……あなたは人物や風景にとって特徴的な、いちばん肝腎の点を、一筆で伝えることができるんですもの。あなたの書く人物は生きているわ。そう、あなたの作品を読んで感激せずにはいられないわ! これがお世辞だと思う? わたしがおだてているとでも? さ、わたしの目を見てちょうだい……よく見て……嘘つきみたいに見えて? ほら、ごらんなさい、あなたをちゃんと評価できるのは、わたしだけよ。わたしだけが本当のことを言うんだわ、わたしの可愛い素敵なあなた? 帰るわね? ね? わたしを棄てたりしないわね?
トリゴーリン  僕には自分の意志ってものがないんだ……ついぞ、自分の意志ってものを持ったことがないんだからな……優柔不断で、だらしがなくて、いつも従順な男、これで女に気に入られるんだろうか? さ、僕をつかまえて、連れてっておくれ、ただ、一歩たりと君のそばから離すんじゃないよ……
アルカージナ  〔ひとりごと〕これで彼はわたしのものだわ、〔まるで何事もなかったみたいに、くだけた調子で〕もっとも、残りたかったら、残ってもいいのよ。わたし一人で行くから、一週間くらいして、あとからいらっしゃいよ、本当に、どこへ急ぐわけでもないんだし?
トリゴーリン  いや、いっしょに行こう。
アルカージナ  どちらでも。いっしょというんなら、いっしょに行きましょう……〔間〕
  〔トリゴーリン、手帖に書きこむ〕
アルカージナ  なあに、それ?
トリゴーリン  今朝、いい表現を耳にしたんでね。『処女林』だってさ。使えるよ。〔伸びをする〕と、つまり、出発ってわけだね? またぞろ、汽車に、駅、食堂、メンチカツ、おしゃべり……
シャムラーエフ  〔登場〕まことに悲しいお知らせですが、馬車の用意ができました。もう駅へお出かけになる時間でございます、奧さま。列車の到着は二時五分ですから。それじゃ、奥さま、どうぞおねがいでございます。役者のスズダリツェフが今どこにいるか、達者にしているかどうか、お調べくださるのをお忘れになりませんように。昔いっしょによく飲んだ仲でして……「強奪された郵便馬車」では、ちょいと真似のできない名演技を見せてくれたもんでしたよ……忘れもしませんが、あの当時エリサヴェトグラードで、イズマイロフという悲劇役者が、彼といっしょに舞台を勤めておりましてね。これもやはりすばらしい名優でしたが……奧さま、お急ぎになることはございませんよ、あと五分は大丈夫です。一度この二人があるメロドラマで革命運動に扮したことがありましてね。ところが、突然ガサ入れされる場面で、「ワナにかかったか」と言うべきところを、イズマイロフの大将、「ナワにかかったか」とやってのけましてな……〔哄笑する〕ナワにかかった、ですと!
〔彼が話している間、ヤーコフはトランク類のところで忙しく立ち働き、小間使はアルカージナに帽子や、マント、傘、手袋などを持ってくる。みんなでアーカージナの支度を手伝。左手のドアから料理人が顔をのぞかせ、しばらくして、ためらいがちに入ってくる、ポリーナ登場、そのあとソーリンとメドヴェージェンコ〕
ポリーナ  〔籠を手にして〕これは道中用のスモモです……とても甘いんですの。おいしいものでもめしあがりたくなるかもしれませんから……
アルカージナ  あなたってとても親切なのね、ポリーナ・アンドレーエヴナ。
ポリーナ  ご機嫌よろしゅう、奥さま! 何かいたらない点がございましたら、お赦しください.。〔泣く〕
アルカージナ  〔彼女を抱く〕何もかも素敵だったわ、申し分なくってよ。ただ、泣くのはいけないわ。
ポリーナ  わたしたちの時は過ぎて行くんですのね!
アルカージナ  仕方がないのよ!
ソーリン  〔頭巾のっいた外套に、帽子をかぶり、杖をついて左手戸口から登場。部屋を通りぬけながら〕時間だよ、お前。遅れなけりゃいいが、結局のところ、わたしは先に行って乗ってるよ。〔退場〕
メドヴェージェンコ  わたしは駅まで歩いて行きます……お見送りに。大急ぎで……〔退場〕
アルカージナ  さようなら、みなさん……もし命があって丈夫でいたら、夏にまた会いましょうね……〔小間使ヤーコフ、料理人、彼女の手にキスする〕わたしを忘れないでね。〔料理人に一ルーブル与える〕この一ルーブル、三人でね。
料理人  恐れ入ります、奥さま。道中どうぞお気をつけくださいまし! 奥さまにはいろいろご恩になりまして!
ヤーコフ  どうぞお幸せに!
シャムラーエフ  お手紙でもいただけると嬉しゅうございますが! ご機嫌よう、ボリス・アレクセーエウィチ!
アルカージナ  コンスタンチンはどこ? わたしが立つからと言ってちょうだい。お別れしなけりゃ。じゃ、わたしを恨んだりしないでね。〔ヤーコフに〕コックさんに一ルーブルあげといたわ。あれを三人でね。
〔一同、右手に退場。舞台は空っぽになる、舞台奧で、見送りにつきものの賑やかな物音、小間使がテーブルの上にあるスモモの籠をとりに戻ってき
て、また出て行く〕
トリゴーリン  〔引き返してきて〕ステッキを忘れちまった。たしか、テラスだったな。〔歩いて行き、左手戸口で、入ってくるニーナと出会う〕あなたでしたか? いよいよ出発です。
ニーナ  またお目にかかれるような気がしていましたわ。〔感情をたかぶらせて〕ボリス・アレクセーエウィチ、あたし固く決心しました。賽は投げられましたわ、あたし、舞台に立ちます。明日はもうここにいませんわ。父の家を出ます。何もかも棄てて、新しい生活をはじめますわ……先生と同じように、わたしもここを立ちます……モスクワヘ……あちらでお会いしましょう。
トリゴーリン  〔あたりを見わして〕「スラヴャンスキ・バザール」ホテルに泊まりなさい……すぐ僕に連絡してください……モルチヤノフカ通り、ブロホーリスキイ・アパートです……今は急いでいるので……〔間〕
ニーナ  あと一分だけ……
トリゴーリン  〔小声で〕あなたは実に素敵な人だ……ああ、もうすぐ会えると思うと、なんて幸せなんだろう! 〔ニーナ、彼の胸にもたれかかる〕またこのすばらしい瞳を見ることかできるんだ、口では言いあらわせないくらい魅力的なやさしいこの笑顔を……このしとやかな顏立ちを、天使のような清らかな表情を……可愛い人だ……〔長いキス〕

  〔第三幕と第四幕の間に年が経過〕

 

原卓也さんはチェーホフの四大戯曲の翻訳にも取り組んでいるが、この名訳も読書社会から消え去ってしまった。ウオールデンは原卓也訳の四大戯曲を復活させることにした。

原卓也。ロシア文学者。1930年、東京生まれ。父はロシア文学者の原久一郎。東京外語大学卒業後、54年父とショーロホフ「静かなドン」を共訳、60年中央公論社版「チェーホフ全集」の翻訳に参加。助教授だった60年代末の学園紛争時には、東京外語大に辞表を提出して造反教官と呼ばれたが、その後、同大学の教授を経て89年から95年まで学長を務め、ロシア文学の翻訳、紹介で多くの業績を挙げた。ロシア文学者江川卓と「ロシア手帖」を創刊したほか、著書に「スターリン批判とソビエト文学」「ドストエフスキー」「オーレニカは可愛い女か」、訳書にトルストイ「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」などがある。2004年、心不全のために死去。

 

 

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