連戦連敗──創造は逆境の中でこそ見いだせる 安藤忠雄
主題なき時代を生きる
私はこれまで、建築を通じて社会と時代を見つめてきた。1970年代から80年代、90年代へと進むにつれ、社会はより多様化、複雑化する途を辿ってきたように思う。特に近年では、社会の急速なデジタル化によってその傾向に一層拍車がかかっている。情報ネットワークの日常レベルでの浸透によって、既存の社会制度、即ちこれまでのようなヒエラルキーをもった社会と個人の関係が成立し得なくなってきているからだ。
1980年代までは東西の二極対立構造という明快な枠組みがあった。1989年にベルリンの壁が崩壊して以降、当然の流れとして世界のグローバル化が進んできたが、情報技術の革命的進歩はそれを私達の想像をはるかに超えるスピードで実現してしまった。そして今、人々は混乱している。自分がどのような世界にいるのか、時代がどこに向かおうとしているのかが見えてこない。現代日本に漂う不安感の源にあるのは、低迷する社会状況や行き詰まった経済だけではない。最大の原因は、この先行きの不透明さなのではないだろうか。
それゆえ、現代は主題なき時代と呼ばれもする。だが、同じように社会が揺れ動き、先の見えない時代がかつてあった。私が設計事務所を開設するまで、ちょうど20代の10年間に当たる1960年代の日本である。しかし、現在の状況と60年代のそれとでは、同じく不確定な要素をもつ社会だといっても、その空気はまるで異なっている。あの頃の先行きの不透明さは、一方で未知の可能性を感じさせるものだった。社会の激動は、次代の展開への予兆だった。何より、現在とは比較にならぬほどに人々が皆、生きることに対して真剣だった。生きる力に満ち溢れていた。
日本の1960年代とは、経済が急成長し、都市の再建と拡張が急速に進んだ時代である。敗戦後の瓦礫の山からの奇跡的な復興、1950年代を死に物狂いで走り続けた日本が、そのエネルギーを初めて自分の内側に向けられるようになった時代だった。無論、生活水準自体は現在ほどに裕福ではなく、決して満たされているとはいえなかった。しかし人々には、満たされないその思いを何かにぶつけようとする意欲や情熱があった。何もないところから這い上がる、その闘いの緊張の中だったからこそ、より深くより遠くまで思考を及ぼし得る精神的強さがあったといえるだろう。
日本における創造的な仕事の系譜を辿ってみても、この時代のものには確かな〈個人〉の意志が強烈に感じられる。しかもそれが決して内に閉じてはいない、さまざまなものとの関わりの中でなされているのである。
情報は力である。しかし、その力を社会と結びつけ、新しい価値創造へと組み立てあげていくのは、人間の構想力、構築力をおいてほかにはあり得ない。どれだけ時代状況が変わろうとも、このことに変わりはないだろう。しかもそれは決して体系的に数量化できるものではない。身体性と深く結びついたアナログ的な思考過程によるものだ。だからこそ、生さていくことに緊張感のあった時代の日本人は強かったのである。
私は1960年代の始まりと同時に20歳になった。高校を卒業して以来、大学には進学せず、家具の製作やインテリアの設計などをしながら、何とか生計を立てている状態だった。
終戦直後から下町の長屋で育ち、年少の頃より、木工所やガラスエ場といったモノづくりの現場が身近にあったから、その流れでごく自然に建築に関わる職業を自分の将来に考えていたように思う。高校に上がる頃から、関西近辺の民家や茶室などを見て回ったりしていたが、改めて【建築】を意識するようになったのは,高校2年の春,上京の折に訪れたフランク・ロイド・ライトの帝国ホテルとの出合いからだった。とにかく建築で生きていこうという意志だけは固まった。
しかし、建築をやっていくとはいっても、そのために何をしたらよいのかが、そのときの私にはわからなかった。大学には行かず、設計事務所に弟子入りもせずに、独学で出発しようとしていたのだから、それも当然である。学歴はない、蓄えもない、どこか頼れる当てがあるわけでもない。文字通り身一つで社会に飛び込んでいった。友人の紹介などでときどき舞い込んでくる家具、インテリアなどの仕事が唯一の食い扶持であり、同時につくる手立てを学ぶ唯一の機会であった。とにかく生きていかねばならない。そんなギリギリの緊張感の中で、建築を目指して悪戦苦闘していた。
やはり知識に一番飢えていたのだろう。どんなに経済的に苦しいときも、たとえ食事を1回抜いてでも、本だけには惜しみなく金を遣った。建築雑誌などが教えてくれる最新の現代建築の世界と、そこから受ける刺激にはそれだけの価値があったからだ。むしろそれらの与えてくれる夢と希望があったからこそ、厳しい現実を何とか生きていけたのかもしれない。実際、今振り返ってみても、日本ではあの頃の建築が一番エネルギーをもっていたと思う。
連戦連敗の中で闘う
主題をどうするか、いろいろ考えた末に思い至ったのは「連戦連敗」です。というのも、これまで建築家として歩んできた30年余りの道程を振り返ったとき、思い通りに進んだと言える仕事がほとんどないからです。自分達の思いと、現実の諸条件との折り合いがつかずに行き詰まり、苦しむのはいつものことで、結局計画中断という事態も少なくはないし、コンペ(競技設計)に挑戦しても、大抵が敗退に終わっている。都市への提案に至っては、実現に至るどころか、聞いてももらえないことがほとんどです。そのくり返しでここまでやってきたのですから、文字通り、連戦連敗といった状況なのです。
特に現在は、社会が建築を必要としていない、建築には逆風の時代です。これがあと10年は続く。仕事の絶対量が減るのですから、コンペでの競合を含めて、建築家が非常に厳しい競争状態にさらされていくのは間違いありません。同時に、社会制度そのものが変化する中で建築家の職能、その存在意義が改めて問い直されていくようになると思います。これからの時代を担っていかなくてはならない皆さんにとって、事態は非常に深刻です。
しかし、状況の厳しさができあがってくる建築の質にそのまま反映されるかというとそうではない。むしろその逆で、厳しさゆえの緊張が、あるいは極限状態での可能性の追求が、本当の意味での創造につながると私は考えています。なぜなら、逆境は最良のチャンスだからです。華やかで大規模な計画ではなく、小さなケース・スタディのような点からの試みでも、都市の問題に一石を投じることはできるのです。
1970年代の初め、私達の世代が建築家として出発したときも状況は似ていました。いわゆるオイルショックに端を発した不況で、小規模の設計事務所には小さな住宅の仕事が時折入るのみ、建築ばかりでなくほかの分野においても、若くして独立を目指した人は、多かれ少なかれこのような苦しい時期を過ごしていたと思います。しかし皆、自ら選択した道に希望を忘れなかった。私もまた、自閉的に閉じこもるのではなく、厳しくとも社会の中でゲリラ的に生き抜く道を選びました。
ギリギリの状況に追い込まれれば、人間は考えざるを得ない。何をしたいのか、そのためには何をするべきか、建築は闘いです。そこでは緊張感が持続できるか否かに全てがかかっている。緊張感の持続と物事を突き詰めてその原理にまで立ち返って組み立てなおす構想力こそが、問題を明らかにし、既成の枠組みを突き破る強さをもった建築を生みだすのです。主題なき時代といわれる中で、それでも私はまだ建築を諦めていない。その闘う姿勢は、30年前に『都市ゲリラ住居』を発表した頃と変わっていないつもりです。