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山里こども風土記  帆足考治

森と清流の遊びと伝説と文化の記録

豊後森町の歴史

 大分県玖珠(くす)盆地は九州山地の中ほどにあり、東に九重山系を望み、南は万年山(はねやま)から阿蘇山系につづく高原と、北は耶馬渓から大岩扇、小岩扇などに連なる溶岩台地に挟まれた風光明娼なところである。
 いまでこそJR久大線が通り、大分自動車道路が全通しているため、県庁のある大分市からでも一時間もあれば楽に行けるが、かつては大分県でも最も交通の不便なところと言われた場所である。昔は、隣りに日田の天領があって、監視が利くとはいいながら、海から遠く離れ、中央の文化と隔絶された僻地なるがゆえに、瀬戸内海の海賊、伊予水軍の末裔である来島水軍一族が江戸時代になってこの山間の寒村に封ぜられたというところである。

 奈良時代に編纂された豊後風土記には、わずか二行だが玖珠郡に関する記述がある。日く、
  球珠郡 郷参所 九里 驛壹所
        昔者 此村有洪樟樹 因日球珠郡

 つまり、「球珠郡(現在の玖珠とは字が違っている)は三つの郷からなっており、里は九つ、駅が一つある。昔、この地に大きな樟(くす)の木があったので球珠郡と呼ばれている」というのである。盆地の南に聳える伐株山(きりかぶさん)がその樟の木の切り株だという伝説がある。確かに、伐株山は大きな木の切り株にそっくりの形に見えるが、ずい分スケールの大きな話である。標高600~1000メートル級の山々に囲まれたこの辺りは、もともと非常に地盤の堅いところで、盆地から東を望めば、余り遠くないところに九重山のなかの一つである硫黄山が白い噴煙を上げており、その右手には青く霞む湧蓋山(わいたさん)の美しい錐形が見える。

 さらに玖珠盆地の南に屏風のように連なる標高1140mの万年山(はねやま)に登れば、その向こうには阿蘇中岳の噴煙も見えるという火山地帯にあるのに、ここでは子供のころから地震に遭った記億がない。これら盆地を囲む山々はこの地方独特のメサと呼ばれる溶岩台地になっており、どの山を見ても頂上付近が平らな禿山で、その周囲は切り立った断崖が露出して、日本では極めて珍しい溶岩台地ならではの特異な山容が目立っている。

 この玖珠盆地のほぼ中央を、筑後川の上流にあたる玖珠川が東西に流れており、これに北方の日出生台(ひじゆうだい)を水源とする森川が流れ出てきて、盆地中央の十釣(とんつり)というところで合流する。ここで水量を増した玖珠川は三日月の滝を落ちて、万年山の裾と北側の山とが近づいて盆地が狭まる北山田から天ケ瀬へ向けて流れ出している。

 狭い谷をうねうねと流れて日田盆地に至ると、川はさらに大山川と合流し三隈川と名を改め、いよいよ水量を増やしながら、筑紫次郎とよばれる九州一の大河となって、筑後平野を潤しながら横切り、遠く有明海へと下っていくのである。

 大分から久留米までを結んで北九州を斜めに横断するJR久大線は、湯布院方面から急坂を上り、大分川と筑後川水系を分ける水分(みずわけ)峠を越えて玖珠盆地に入ってくると、後は筑後平野に出るまで端から端までずっとこの川に沿って走る。森町の南の玄関口である豊後森駅はこの玖珠盆地の中央やや北寄りにある。

 盆地の中ほどには帆足という村があり、この辺りには帆足の苗字が集まっている。小学校などで先生が授業中に「帆足!」と生徒の名前を苗字だけで呼ぼうものなら、同時に三人も四人もの生徒が手を挙げかねない、それくらい同姓が多いところである。松本清張氏によれば、帆足姓の由来は古代朝鮮が発祥だろうと推理しているが、地元の人にも本当のところは分からない。とにかく分かっているのは、むかし京から下ってきた少納言清正高という人が祖先らしいということだけである。その前に豊後に下った清少納言を姉に持つ清原口高が祖先だという説もあるが、これが正高と同一人物なのかどうかは分からない。

 帆足の名が最初に出てくるのは鎌倉時代、弘安八年(一二八五)の「豊後国図田帳」である。これには帆足郷地頭、帆足六郎左衛門通貞の名が出ており、その後、時代がずっと下がって寛元三年(一三四三)には帆足十郎兵衛広道のことが分かっており、今も帆足郷総社として崇拝されている若宮八幡宮の歴史にその名前が記されている。若宮八幡神社入り口の立て札には短かく、 
後瑳蛾天皇の御宇寛元三年(西暦一三四三年)帆足郷領主帆足十郎兵衛広道鶴ケ岡八幡宮より御勧請帆足郷総鎮守として本社を創祀し、以来、鎌倉室町の両時代帆足二十代三百数十年間郷民と共に一貫して崇敬し、江戸時代より明治維新に至るまで、森歴代藩主の崇敬厚く封内の宗詞として祀れり
 と、帆足家との因縁が記されている。いずれにしても帆足一族は少なくとも十三世紀ごろからこの地に権勢をもっていたのであろう。

  為朝伝説と山間の城下町

 さて、戦国時代の豊薩戦争ではこの辺り一帯は豊後の英雄といわれた大友宗麟の支配下にあったが、一時南から侵入してきた薩摩島津軍の蹂躙するところとなった。玖珠盆地に侵入した島津の軍勢は、つぎつぎに城を落とし、伐株山(きりかぶさん)の玖珠城(高樟寺城ともいう)を攻め落とすと、その勢いをかって森奥にまで攻め込んできた。玖珠盆地が北に向かって切れ込んだ谷奥の森町に聳える標高600メートル足らずの角埋(つのむれ)山には、帆足一族の祖にあたる清原氏が寵って長期にわたった薩摩軍の包囲に耐え抜き、この辺りでついに落城しなかった唯一の城と言われる角牟礼(つのむれ)城址がある。

 それを支えたのは日出生(ひじゆう)の「山の城(じょう)」の存在で、その城主だった帆足鑑直は、伐株山の玖珠城を落とした島津軍が余勢を駆って角牟礼城、山の城を囲んだ際、籠城すると見せかけて島津軍の不意を襲い、勇将として知られた島津軍の総大将の伊集院右衛門を下したことが伝えられている。

 伝説では、この角牟礼城はもともと平安時代末期に鎮西八郎源為朝が築いたものとされている。それが巣たして城と呼ばれるほどのものであったかどうかは定かでないが、とにかくこのあたりを軍勢を率いて徘徊したであろう為朝が、豊後と豊前を結ぶ要衝にあった、この見晴らしのいい場所に、砦か物見櫓のようなものを築いただろうことは容易に想像できることである。しかし、今に残る角牟礼城址はどうやらその時代のものではなく、もっと後の豊薩戦争時代に毛利氏によって造営されたものらしい。

 弓の名人として知られる源為朝は子供の時、父の為義に連れられて崇徳上皇の白河殿で信西入道の「韓非子(かんぴし)」の講義を聞きに行ったことがある。その際、上皇が余興に、信西に対して「わが国一番の弓とり(射手)は誰か」と尋ねられた。信西は即座に「それは、安芸守清盛と兵庫頭頼政でしょう」と答えた。為朝はそれを聞いて「一番の弓取りは父源為義をおいて他にない筈、他者の弱弓など、その子である私が素手で受けて見せよう!」と大声で嘲笑した。実際、彼はその言葉の通り、並み居る高級官僚の衆前で二人の弓取りが為朝めがけて射出す二本の矢を両手で掴み取り、三本目の矢は口でしっかと受け止めてみせ、子供ながらも末恐ろしい傑物の片鱗を披露したのであった。

 実際、為朝は子供の頃から大人顔負けの強弓を引いたので、このことがあってから父源為義は、平家の世でこのような息子を京都に置いてはどんな災難が降りかかるかも知れないと、為朝を迫放した形で九州に逃したのだった。もともと九州には源家に馴染みのある豪族がいたので、為義が為朝を九州にやったのは筑紫方面の地盤固めをねらったものだったのではないだろうか、と推測する説もある。

 九州に追放された為朝の強弓ぶりは並みのものではなく、あるとき大岩扇にやってきてここから角牟礼の麓を見ていた為朝は、そこに獣(しし)がうずくまっているのを認めた。彼は早速これを射止めんものと遠距離を顧みずに矢を放ったが、その矢は五百メートルほどを飛んで見事その獣を射抜いた。ところが駆け戻って調べてみれば獣と見たのは実はイノシシの形をした岩で、矢は見事にその真ん中を射通していた。この岩のあったところに砦を築いたと言い伝えられている。この岩は今も「おやま」の末広神社の境内に奉られている。

 為朝にまつわる言い伝えが幾つもあるので、角埋山に為朝が砦らしいものを築いたというのは確かなようだが、今に残る角牟礼城址はどうやらその時代のものではなく、もっと後の時代に造営されたものらしい。

 時代はずっと下がって1600年、関ケ原の戦いで、伊予水軍で知られた村上水軍の一派、来島(くるしま)の一族は西軍の石田三成側に加勢したが、戦いは東軍の徳川家康側が勝った。このことで、徳川幕府ができると来島は伊予の領地を没収されたが、初代森藩主となる来島康親の室が福島正則の養女だったことから、正則のとりなしで、海から遠く離れたこの山奥に封ぜられて一万四、五百石の森藩を経営することになった。ここに豊後国森に小さな城下町が形成されたが、それ以前のこの地域は海から遠く離れた全くの山奥で、戸数もわずかな寒村だった。

 来島氏がわずかな家来を伴って入部を果たしたとき、この地には豪族帆足一族が古くから権勢を誇っていたが、彼らは海からこの見知らぬ土地にひょっこり現れた来島一族(後に久留島と改める)を迎え入れるのにかなり寛容だったようで、以降、この森藩は貧乏ながらも久留島代々の藩主による良政によって長く栄えた。したがって、この地方の古くの風俗文化は、そのころ新しく持ち込まれた瀬戸内海の文化と融合し、余所にない独特の風俗文化をはぐくんだようである。

 終戦直後までは、この城下町には昔から伝えられた文化や伝統、風俗習慣がよく伝え残されていて、天守閣を持つことを許されなかった久留島公が居城としてつかった森陣屋やその茶室だったといわれる栖鳳楼などの建物が残されていたが、移り変わる世につれ、近年になってこれらは急速に失われたり、姿を変えたりして行った。

 昭和三十年代に始まった全国的な農村部の過疎化の波は、この山間の森町をも呑み込んで、急速な人口の減少とともに、一時は生徒数千人を数えた伝統を誇る森小学校も廃校となって、かつて子供たちの喚声で、一日中賑わった角埋山麓の旧森藩邸跡あたりは、今はすっかり整備されて、三島公園の閑静なたたずまいを見せているのみで、後年、「街道をゆく」の取材でここを訪れた司馬遼太郎氏は、あたりの風景を見て、小学校の分校跡のように見えたと、その雰囲気を記している。氏にしてなお、跡地を見ただけでは、ここにそのような伝統と歴史を誇った名門小学校があって、森町の文化の中心を形成していたとは想像も及ばなかったのだろう。

 かつての喧騒が嘘のようにひっそりと静まり返っている旧城下町には、往年の繁栄ぶりを物語る蔵造りの粕屋や糀屋といった古い大きな商家や鍛冶屋などが軒を連ね、寺町や鉄砲町、金山町といった街区や通り、さらには周辺の末広神社、若宮八幡宮、善神王、安楽寺、元興院などといった、かつて人々の信仰を集めた寺社などが昔日の繁栄の名残をとどめているが、いずれも観光資源に供するほどの規模ではないので、訪れる人も少なく、それが幸いして往年の雰囲気を今に伝え残しているのである。

 玖珠入りのころ

 東京で生まれた私が、ゆえあってこの玖珠盆地の中の森町(現在の玖珠町の北部にあたる旧城下町)で多感な少年時代を過ごしたのは、昭和十九年から二十八年までの戦中戦後の混乱期であったが、ちょうどその頃が、今は失われてしまった古い風習や文化が、家庭や学校や社会で最後の輝きを見せていた時代にあたったのは幸せだった。

 大人の目からすれば九年間という年月は極めて短い期間でしかないが、育ち盛りの腕白坊主だった私にとっては毎日が充実した、楽しくも忘れ難い実に内容の濃い期間だった。この間に私がここで見聞きし、学び、体験したことどもの中には、忘れ去ってしまうには余りにも借しいことがたくさんありすぎる。ここでは、ただ思い出すままに、子供の目を通じて見聞きした当時の大人たちの社会や文化のありさま、さらには当時の子供の知恵などをそのままに「風土記」ふうに書き記してみたが、その記述はすべて子供だった私の一面的な観察と印象を記したものに過ぎないから、記述が私的に過ぎ、思い違いや誤解も少なくないはずである。

 私にとって心の故郷、森町の上ノ市部落は旧森藩の城下町の南外れにあり、久大線豊後森駅を中心に発展してきた街区との境目にある。その上ノ市の一番奥の山裾に私の祖父母が営む家があって、私はこの家で少年期を過ごした。

 私の祖母、シンおばあちゃんは本当は父の兄嫁だから、祖母というよりも伯母にあたる人だが、私は幼い時に事情あって田舎の祖父母に預けられて育ったから、この祖母は私にとっては育ての親で、文中にしばしば登場するおばあちゃんはこの祖母のことである。

 祖母は若いころから特別元気だった人で、死ぬまでとうとう頭が痛いとか肩がこるとかいったことの意味を知らないままだった。身体は小さかったが、とても気が強く頑張り屋で、豆腐、味噌、コンニャク造りから漬物つくり、料理はもちろん、茸採り、山菜採り、裁縫、草取り、田植え、稲刈りなど、どんな仕事でも常に他人よりはずっと上手にやってのけた。だから仕事が遅い人、料理が下手な人が嫌いだったようで、格別遅くも下手でもなかった、あとからこの家に入ってきた嫁さんには随分苦労をかけたはずである。

 その嫁さんと言うのは、私にとっては他ならぬ第二の育ての親となったマル子おばちゃんである。大分市生まれのマル子おばちゃんは、鉱山で働いていた叔父と結婚して、佐伯で新婚生活を送っていたが、敗戦で生活設計が狂ってしまってこの叔父の故郷に来て百姓を手伝うことになった。その頃の私ときたら祖父母に可愛がられていたにもかかわらず、親元を離れていたせいか、性格はひねくれており、まだ子供のなかった彼女にとっては、こんな子の面倒まで見なければならない田舎の生活に溶け込むまでには、ずいぶん戸惑ったにちがいない。

 だから彼女にとって私は恐らく余分な存在だった筈で、さぞかし迷惑をかけたに違いない。今でもあれこれ思い出すだにぞっとするほどのことはざらである。それでもマル子おばちゃんは格別優しい人だったから、親からも兄姉たちからも遠く離れて独りぼっちだった私は、ずいぶん彼女の優しさに救われた。今日に至るまでこうして元気に生きて来られたのも、このマル子おばちゃんに負うところ大である。もっとも彼女が田舎の家に来たのは戦後もだいぶ経ってからのことで、それについては後でいっぱい書くつもりである。

 田舎暮らしの始まり

 私が戦争で危なくなった東京の両親のもとから、この九州の山奥の祖父母の家に預けられたのは昭和十九年秋のことだった。三つの時に東京の中野で母を結核で失った私は、すぐ同じ九州の杵築から新しい母が来たにもかかわらず、どういうわけか姉二人、兄二人の末っ子だった私だけが遠く大分の田舎の祖父母のところに預けられた。戦争が激しくなって、そろそろ東京も空襲を受け始めた頃だったから、一番幼く、うまく育つかどうかも危なっかしい私に食糧事情の悪さや空襲を味わせたくないという両親の配慮もあったのだろうが、今考えると私の田舎行きを決定づけたのは、どうやら長姉チエ子の強い運動があったからではなかろうかという気がする。

 私よりも十五も年上のチエ子姉はそのころ、靖国神社の裏にあった九段の三輪田女学校へ通っていたが、しっかりもので気が強かっただけに、娘らしい潔癖さから、実母が死んだばかりというのに新しい母を迎えた父にも反発していたのだろう。早くから逃げるように田舎の祖父母のところへ行ったまま帰ってこなかった。そんな姉が、祖父母から私を田舎に連れてくるように言われたことも追い風になったのだろうか、両親のもとから私を奪い取るようにして連れ出したのだった。

 よほど堅く決心して実行したのだろう、新しい母はともかく父も直ぐには賛成しなかっただろうに、よくも私の連れ出しに成功したものだと、その詳しいいきさつは知らない私だが、今にして思えば当時十九か二十歳だったであろう姉の大人っぽさ、思ったことをやってのける意志の強さには改めて感心させられる。

 そんな姉に連れられて初めて豊後森町の祖父母のところにやってきた時のことは忘れられない。
 疎開する人で混雑する東海道本線、山陽本線を経て関門トンネルをくぐり、鹿児島本線から久大線と汽車を乗り継いで、やっと田舎の家に着いたのは十月の初め、東京を出てから二日目の夕方だったが、きっと夕御飯の支度にかかっていたのであろう、お釜を抱えたおばあちゃんが表に出てきて、私を抱きかかえるようにして迎え入れてくれたシーンを昨日のことのように思い出す。東京からやって来た色白で目と頭ばかりが大きく、いかにもひ弱そうな小さな男の子がよほど珍しかったのだろう、噂を聞いて集まってきた近所の男の子や女の子たちが入れかわり立ちかわり家の中を覗きにきた。満六歳になったばかりの私は、初めての田舎での見るもの聞くものすべてが目新しく、特に近所の子供たちの話す言葉がほとんど分からないという、かつてない奇妙な経験をした。広い東京と違って、家のすぐ前まで山が迫り、家の裏には大きな川が瀬音を立てて流れているという環境に、幼かった私はまるで別世界に迷い込んだようだった。

 翌朝はいい天気だったが、朝早くから次々と遊びにきた近所の子どもたちとはすぐに親しくなった。中でも私より一つ年上のオカッパ頭の女の子、カズちゃんは特に私が気に入ったらしく、家の中に引っ込んで姉にぴったりくっついてばかりいた私を表に引っ張りだし、池の鯉を見せてくれたり、石蹴り遊びを教えてくれたりした。私が東京から持ってきた何冊かの「講談社の絵本」は当時の田舎の子供たちには珍しかったはずだったから、カズちゃんは半ばその本が目当てだったのだろう、良く遊びにきた。黒い目が愛いらしい利発なカズちゃんは近所の幼い子供たちの面倒を良く見たので、子供たちもよくなついていて、大人たちも子供がカズちゃんと一緒なら安心するようなところがあった。それからは私もしばしばカズちゃんに連れられて田圃の畔道を抜け、土手を降りて近くの農学校にブタを見に行ったりした。それまで私は、お米という食べものは台所で作るものと思っていたから、田舎の田圃で初めてお米が成る稲という草を見て驚いた。

 その頃この辺りでは、よその家をいうとき、その苗字で呼ぶのではなく屋号でよぶことが普通におこなわれていた。魚屋とか、一軒家とか、饅頭屋とか、畳屋とか、水車(くるま)とか、本家とか、隠居とか呼びあっていたが、上ノ市の帆足の家は御荘園(ごその、もともと「ごしょうぞの」がなまったもの)と呼ばれていた。

 御荘園というのが、ここでどんな意味を持っているのか私には良く判らないが、どうも平安末期、律令制度が崩壊して地方の荘園が権力を強めたころの名残りではないだろうかという気がしている。後からこの森郷に入って来た久留島も、土着郷氏のひとり帆足家には一目置いていたようで、うちの屋敷内には昭和三十年代まで、昔、久留島公がご下行の際によく茶の湯を楽しんだという茶室があったし、家の裏庭には今も「首切り地蔵」と呼ばれる、犯罪者が処刑の際にお参りしたというお地蔵様が奉られている。昔の家は上ノ市の道路端から、いま家が建っているあたりまであって、祖父が若かった頃までは働き盛りの男達だけでも、七、八人、総員では三十人以上もの大家族が住んでいたそうで、田圃は一町以上あり、山や畑もたいそう広かったらしい。

 近所の人達はこの家を「ごその」と呼んで敬っていたようで、私も幼いころから御荘園の子供ということで、近所の子供たちはもちろん大人たちからもつねに特別扱いをうけて育った。近所の人達は、御荘園であると同時に帆足家の本家でもあるこの家を中心に生活していたようで、生活用水はうちの井川から湧き出る水で賄っていたし、とくに共同作業が多かった農業では、田植えでも、稲刈りでも、脱穀でも、餅つきでも、味噌つくりでも、茶摘みでも、みんなうちが中心になってやっていた。だから私はわけは判らないまま、番傘や漆器類やその他生活用品によく「御荘園」という字が誇らしげに書かれているのを見て育った。

 さて、私が田舎のこの家に預けられたのは十月はじめだったが、日が経つにつれて秋は急速に深まり、柿が熟れ、家の回りに赤とんぼが飛び回り始めると、やがて八幡様の秋祭りが始まった。東京では、子供たちが長い綱をもってのろのろと太鼓を引っ張るお祭りしか見たことがなかったので、このように大人が中心になって祝う本格的な大祭というものを全く知らなかった。色とりどりの大きな旗や織りや毛槍、櫃などに先導された大人たちが担ぐお下りの重そうなお御輿の行列が遠く西部落を通って行くのを、不思議なものでも見るように裏庭のお地蔵さまの脇から眺めていた。

 八幡様は帆足一族の守り神で、大岩扇の麓に立派な社がある。全国に四万あると言われる八幡神社は源氏の信仰神で、はたして帆足家が源氏だったかどうか私は知らないが、ここにあるのも源為朝伝説と無関係ではなさそうだ。毎年十一月二日、三日に催される秋の祭礼は、当時この辺りでは最も賑やかなお祭りとして親しまれていた。森駅の近くの下社までお下りするため、一般には「駅のお祭り」と呼ばれ、昭和二十年代末までは駅前の商店街沿いに、方々から集まった夜店やサーカス、犬芝居、幽霊屋敷などの見せ物小屋などが競って店やテントを設営したものだった。

 私にいわゆる「もの心」がつき始めたのは、こうした田舎での生活テンポが判り始めたころで、そのころの私にとって最初の試練はすぐにやってきた。祖父母は、すでに数え年七つになっていた私を、まず近くの幼稚園に入園させたのである。

 当時、森町には、旧森藩の陣屋跡を使って運営されていた若竹幼稚園と、平(たいら)部落の光林寺が運営する鷹巣(たかす)幼稚園の二つがあって、上ノ市(かみのいち)部落の子供たちはどちらでも好きな方に行けばよかったが、私は祖母に連れられて光林寺の鷹巣幼稚園に入園した。

 その頃、チエ子姉が宇佐に嫁いで行ってしまったので、それまで、ただひたすら姉にぴったり寄り添ったまま育ってきた私は、まず幼稚園という初めての団体生活にすっかりおびえてしまった。「むすんで、ひらいて」の歌をみんなで歌うなどということが当時の私にとってどんなに破天荒な出来事だったかは、どうやらそれ以来、高校を卒業するまでずっと学校が嫌いだったこと、ひいてはこの歳になるまで、会社に行くのが嫌いなことと深い因果関係があるような気がしている。

 とにかく私は初めのうちの二、三日だけは辛うじて通ったが、幼稚園の先生がどんなに優しくしてくれても家にいる方が幼稚園より遥かに楽しいことを知っていたので、それは無駄な努力だったろうとしか言いようがない。今でも優しかった女の梶原先生の名前や顔を思い出すが、その親切に応えられなかったことが借しまれる。

 その幼稚園を経営していた光林寺の住織、帆足琢磨さんは、あのマレー沖海戦で日本海軍航空隊が撃沈した英国極東艦隊旗艦の新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェ一ルズ」と、巡洋戦艦「レパルス」を苦心の偵察飛行で発見したことで有名な、誉れも高き帆足正音(まさね)中尉のお父さんで、戦後は多くの戦災孤児を引き取って鷹巣学園を経営した偉い和尚さんである。その帆足正音中尉は借しくも南方で戦死されたが、そのころお寺には山本五十六連合艦隊司令長官から贈られた感謝状が飾ってあった。

 ぼた餅の思い出

 後になって私はおばあちゃんから、東京からやって来たばかりの頃の私の弱々しかったことなどよく話して聞かされたが、おばあちゃんがよく言っていたのは、小さな青白い今にも死にそうな顔色をした私が、ぼた餅(おはぎ)などをつくるとびっくりするほど良く食べたということである。

 私にはあまりはっきりした記億がないが、そのころ上ノ市と栄町の中間にあった土木事務所の裏にもうちの田圃があって、あるときおばあちゃんが小昼(こぶり)におはぎを拵えて持って行ったそうだ。「こぶり」というのは午前十時ごろと午後三時ごろに田畑で働く人達に持って行くおやつのようなもので、今のように甘いお菓子などはそうそうは手に入らなかったから、大低は腹にしっかり応える御飯が多かった。野良で働く男達のためにお櫃に入った御飯、笊に入れたお茶碗、丼に盛った漬物などを豆腐籠に入れて、女たちが田畑へ運ぶのである。たまには味付け御飯のお握りやおはぎなどをつくって持って行くこともあった。

 そのときおばあちゃんはおはぎをたくさん作って、幼い私も一緒に田圃に連れて行ったのだったが、私が自分の頭ほどもある大きなおはぎを三つも四つも食べるものだから、さすがにおばあちゃんは心配になって「一度にこんなにたくさん食べて大丈夫じゃろうか?」とおじいちゃんに相談したそうだ。さすがにおじいちゃんの方は「なあに、食えるもんなら食わせておいても大丈夫さ」といって放っておいたという

 当時、鉄道につとめておられた親戚の稗田のおじさんは、家に遊びにくるとよく冗談やボケた話をして皆を愉快にさせたが、彼によれば田舎では「おはぎ」のことを「ぼた餅」または「半殺し」というのだそうだ。いなかのおはぎは餅米を炊いて、それをアンコにまぶす際にすり鉢で練るためそういうらしい。それにしても「半殺し」とは、ウドンを「手打ち」というようなものでずいぶん物騒な呼び名である。

 その彼の話。ある家に遠来の客が泊まった。最高のもてなしをしようと考えた主人は、客が奥で休んでいる間に奥さんに、「今夜は手打ちにしようか、それとも半殺しにしようか」と相談したので、それを漏れ聞いた客はびっくりして逃げ出した。どこかで聞いたような話だが、この玖珠地方で「おはぎ」のことを本当に「半殺し」というのかどうか、私は知らない。確かに田舎の「おはぎ」は、そんな上品な呼び名よりもむしろ「ぼた餅」のほうが似合う。東京のひと口に入ってしまう小さなおはぎに比べると大きくて重量感がある。ソフトボールの球くらいもある奴に厚さ五ミリくらいアンコがたっぷり巻きつけてあって、あの甘いアンコとねっとりした餅米の絶妙なコンビネーションは堪らなく美味しい。黄な粉をまぶした奴もあるが、これもまたなかなか捨て難い美味しさである。

 玖珠のなかでも森町は山間部のせまいところで田圃も概して狭かったから、新潟の魚沼米のような美味しいお米はとれなかったが、それでも秋の採れたてのお米はとても美味しかった。もちろん、今日の「ひとめぼれ」や「秋田こまち」とは比ぶべくもないが、私は新米で炊いたごはんに自家製の味噌でつくった味噌汁をたっぷりかけて食べるのが大好きで、こうして食べると四杯も五杯も食べられた。そのお陰で、ひ弱かった私はぐんぐん丈夫に育ち、小学校に上がる頃にはみんなから良く「太っちょるのォ」と言われるほどになった。

 ちなみに私の小学校時代のあだ名は「ブーちゃん」であった。同級生の悪餓鬼どもは私のことを気軽に「ブーちゃん、ブーちゃん」と呼んでいたが、私は実はこのあだ名で呼ばれるのが堪らなく嫌だった。けれどもそれはずっと後になってからの話である。

 そのころの私は、世界が日に日に広がって行く思いで毎日が嬉しくて堪らず、とにかく元気に野山を駆けまわって遊んだが、そんな時、どこか山を走り回っていて枝にでも引っ掛けたのだろう、左顔半分に大きな引っ掻き傷を負った。その時に痛めたのだろうか、左目も傷をつけて、一種のトラホームを患っていた。ハナは垂れるし、目ヤニは出すしで、さすがにおばあちゃんは心配して私を森町の時松医院に連れて行き、治療を受けさせた。遊びに忙しい私は遠い上町にあった時松医院まで一人で行くのがどうしても嫌やで、なんとか理由をつけては病院通いを切り抜けてきた。

 それ以前には、私は幼稚園に行くことをとても嫌がっていたので、おばあちゃんは無理に幼稚園に行かせることはせず、
「そんなら幼稚園にゃ行かんでんいいき、眼医者だけにゃ行きなはい!」   といって、登校拒否ならぬ登園拒否を認めるかわりに眼医者通いを命じた。眼医者といっても時松先生の治療は、私の瞼をひっくり返してホウ酸を薄めた椅麗な冷たい蒸留水で目を洗うだけの簡単なものだったが、それでもしばらく通っているうちに私の目の傷は治って、あの優しい笑顔の時松先生に会う機会もだんだん少なくなっていった。

 姉の結婚

 私は生まれてすぐ母が結核を患ったため母親から引き離され、小さい時からずっと一番上の姉のチエ子が私の母がわりをつとめてくれた。だからチエ子ねえちゃんが縁づいて、宇佐に嫁いで行った時の悲しい思い出は忘れられない。親もとから離れて田舎に来た私にとって、たった一人の頼れる味方の姉がいなくなるのだから、これは一大事である。

 姉は私より十五も年上だったので、子供の頃は一緒に旅行などしているとよく親子と間違えられた。実際、私たちは実の親子も顔負けするくらいの仲で、姉は年端のいかない私の面倒を実によくみてくれた。亥年生まれで気性は激しかったが、めっぽう気立てが優しく涙もろい姉だった。
 姉は私を東京から連れ出したのは良かったが、その弟を置き去りにして自分が嫁に行かなければならない羽目になったのがよほど心残りだったようで、親元から引き離され、今度はただ一人の身内だった姉に見捨てられて、私がだんだん大人を信用しない、ひねくれた子に変貌していくのを見るのはずいぶん辛かったようだ。

 姉の嫁入りが近づいたある雨の日、私は姉について駅前の商店街まで買い物に行った帰りに、大いに駄々をこねてパッチン(メンコ)のセットを買ってくれるようねだったことがあった。パッチンなどそれほど欲しくもなかったのに、どういうわけか姉を困らせてみたくなったのである。それまでの私は、駄々をこねるなどということはかねてなかった良い子だったから、そんな私を見て姉は少なからず驚いた様子だった。私にしてみれば、自分を置いて嫁に行ってしまうのなら、行く前にそれくらいのことはしてくれても当然だろうと勝手に考えての仕草であった。

 姉は悲しそうな顔をしながらも、そのころ玩具屋を兼ねていた十文字の梅野屋に私を連れて行き、私の気に入ったパッチンを一組だけ買ってくれることになった。大きなボール紙に色とりどりのパッチンが何枚も印刷され、まるく切り込みがいれてあり、軽く押すだけで外れるようになっているセットだった。私はパッチンの絵柄を選んでいるうちに、なぜだか急に二組が欲しくなり、姉に二つ買ってくれるよう頼んだ。さすがに姉はそれを許さなかったので、私は納得したふりをしながら姉にも店の人にも悟られないよう、二組のパッチンを上手に重ねて一組に見えるようにして、姉が代金を払っている間に先にさっさと店から持ち出した。

 代金を払った姉は、産婆さんの河野医院あたりまで来てからやっと私に追いつき、「どんな絵柄だったの、見せてごらん」と言った。私は悪びれずにそれを姉に手渡したが、一組分の代金しか払ってこなかった姉は、パッチンを手にして、それが二組もあるのに驚き一瞬立ち止まってしまった。そしてしばらく黙っていたが、やがて気を取り直すように「ふたつ持って来ちゃったの?」と言った。私は「うん」といいながらも、今度こそ叱られるものと覚悟して、そっと上目づかいに姉の顔を伺った。姉は私から目をそらすようにしていたが、驚いたことに瞼を真っ赤にして、その目からは今にも涙がこぼれそうになっていた。私はびっくりして、小さな声で「返してこようか」と言った。姉はしばらく黙っていたが、やがて「もういいから誰にも黙っていなさい」といって歩き始めた。私は気まずい思いをしながら姉から離れてずっと黙ったまま後ろをついて帰ったが、この時ばかりは本当に姉に悪いことをしたという気持ちでいっぱいだった。

 女が嫁に行くという仕組みがよく理解できない私にとって、その頃の周囲の大人たちは、みんなして私から姉をごまかして取り上げようとしているように思えたから、私は余りの悲しさと寂しさに、訳もわからずしくしく泣いてばかりいた。泣くより他にどうしようもなかったからである。おじいちゃんもおばあちゃんも、私が余りいつまでも悲しんで泣くので、「お姉ちゃんは徴用に行くんだから、そんなに悲しんではいけない」と言って騙そうとしたが、私は徴用でも何でも姉が遠くへ行ってしまうことには変わりがないので容易には納得しなかった。

 なにしろその頃はみんなで寄ってたかって私を騙そうとしていたのだから、私は、姉がちょっと倉成の歯医者さんに行くのでも置き去りにされるのではないかと疑って、姉に悟られないように泣きながら見え隠れに後を追って行ったくらいで、遠く歯医者さんに着いてから初めて私があとをつけてきたことを知った姉は、そんな私がいじらしくてならなかったのだろう、いっしょになって涙を溜めていた。

 霧島昇の代表的なヒット曲に「誰か故郷思わざる」というのがあるが、私にはあのころ上ノ市の素人演芸会の練習でよくレコードが掛かっていたあの歌の、特に二番の歌詞が耳に残って忘れられない。

  ひとりの姉が嫁ぐ夜は
  小川の岸辺で寂しさに
  泣いた涙のなつかしさ
  幼な馴染みのあの山この川
  ああ、誰か故郷思わざる

 というあの歌はまるで私を慰めるためにあるようにさえ感じられた。流行歌の歌詞になるくらいだから、私だけでなく同じような切ない悲しさ、寂しさに泣いた男の子はこれまで日本中に何千、いや何万といたことだろう。そう思えばいくらか慰められるのだった。

 姉は実家から嫁いだわけではなかったので、嫁入り道具といえばほとんど行李ひとつで貰われて行ったが、新しくお婿さんになる人が大層やさしかったので、「どうしても孝ちゃんが離れたがらないなら、一緒に連れてきたらいい」と言ってくれたそうである。
 お姉ちゃんとの甘く切ないあの別れの日のこと、そしてあの時の姉の心情を想像すると、今でも思い出して涙が止まらなくなるので、これくらいにしておく。

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