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明科町のかぐや姫

 かつて物語は、人々の口から耳ヘ、耳から口へと広がっていった。平家物語は法師たちが辻々に立ち、そこに群がってくる民衆のなかで、琵琶をかき鳴らしながら語られていったのである。平家物語をかくも雄大な規模の物語に成長させたのは、民衆の耳と口であった。とするとこの史劇に生命を吹き込む舞台もまた野外こそふさわしいのだろう。かぐや姫が愛する地球の人々に別れを告げ、悲しみのなか、月に旅立っていくその最後の場面を彩るのは、星空の下でなければならないともいえるのだ。

 明科町には、犀川の堤にあやめ公園があり、その中心に水浴のビーナス像が設置され、その像を取り囲むように広い空間がある。そこにステージと観客の席をつくりだせば、この壮大な史劇を展開する舞台が整う。そしてその公演はやがて、毎年、四日間にわたって、次のような編成で行われるのである。

一日目 子供たちの公演
二日目 子供たちの公演
三日目 明科町の人々の公演
四日目 明科町の人々の公演

 子供たちは劇づくりが大好きだ。子供たちを興奮させ、子供たちの精神を屹立させていく。たしかに劇づくりは子供たちの創造力を限りなく高めていく。明科町にも子供会組織があり、それぞれが活発な活動をしているが、この子供会がこの劇づくりに取り組むのだ。「新編竹取物語」は十一の章に分割できる。したがって台本を十一幕構成にして、十一のチームを編成して、それぞれのチームが割り当てられた一幕を分担する。一幕ごとに完結する物語になっているから、それぞれのチームが独自のスタイルで、独目の劇をつくりあげていけばいいのだ。それぞれのチームが、それぞれの工夫を創意をこらした劇が、その公演当日にはじめて合体され、一本の大河となってとうとうと流れいていく。
 
 その日の公演に、安曇野中の子供たちを招待するといいだろう。池田町の、穂高町の、四賀村の、堀金村の、松本市の子供たちが大勢やってきて、この日の会場を埋める。そして明科町に子供たちが、一年をかけてつくりだした劇をみた安曇野の子供たちは、口々にこう言うのだ。
「ぼくは生まれてはじめて、劇というものに感動した」
「ああ、私たちの町でも、こんな劇をつくりたいなあ」

 二日目は大人たちが取り組む公演である。この公演に参加する人々を子供たちの活動と同じように十一のグループに編成する。そしてそれぞれのグループが、割り当てられた場面の台本に、独自の解釈をほどこし、独自の演出によって、その舞台をつくりあげていくのだ。あるグループは輪読で、あるグループは群読で、あるグループは一人芝居で、あるグループは演劇的構成でと。一見ばらばらにみえるそれぞれの演劇づくりが、公演当日には見事に一つの大河となって流れ、見る者を圧倒していくにちがいない。
 
 そのとき、最初の段階では、一流のプロの演劇人を招聘するのもいいだろう。とにかくこの五時間を越える壮大な史劇は、力のない俳優では演じることができない。たとえば、かぐや姫に求婚する五人の皇子たちは、それぞれが強烈な個性をもっている。この強烈な個性が、まさに天地をかけめぐる劇的な人生のなかで自爆していくのだ。この五人の皇子のそれぞれの個性をとらえ、彼らに生命を吹き込み、たった一人の語りの力で、ステージにありありと彼らを登場させていくには、大変な力技をもっていなければならない。一流の舞台人を招聘するのは、その演技の力を明科町の人々が学ぶためでもあるのだ。名優たちの声の出し方、その語り方、その間のとり方、その表現の仕方。彼らがつくりだす演技の力を、まざまざと目撃した明科町の人々は、やがて本物の劇を作り出すようになっていく。

 大人たちは劇づくりと同時に、さらにもう一つの役割を担わなければならない。それはこの公演をいかに自立させ、いかに成長させていくかという大きな役割を。この活動はすべてボランティアの精神で成り立っている。しかしこの公演に要する出費はけっして少なくない。この資金をいかに調達して、いかに自立できる活動に高めていくか、その困難な問題に常に立ち向かっていかねばならないのだ。そのことは、過疎に苦しみ、住民の高齢化にあえぎ、沈滞に沈むこの町を、いかに溌刺とした活気のある町にするかということでもある。時代の重圧に苦しまず、時代に流れに迷わず、むしろ新しい時代をつくりだしていく町づくりはできるのだ。サン・モルタンジやアッシュランドの人々は、演劇によって、町や村を蘇生させた。演劇活動はたしかに町をよみがえらせる一つの大きな方法なのだ。

 百年も封印されていたこの史劇の封を解いた明科町の人々は、サン・モルタンジ村の人々のように毎年この劇に取り組んでいくのだ。この作品は限りなく奥が深い。演じれば演じるほど作品の深さにたじろぐ。取り組めば取り組むほど、その雄大な規模に圧倒される。それもそのはずだ。この史劇は八百年も、蔵のなかで、やがて世界に登場するために、火の格闘を続けていたのである。明科町の人々は、果敢にこの巨大な劇に立ち向かっていくのだ。こうしてこの劇が、毎年明科町の人々に取り組まれていくとき、「三浦家所蔵新編 竹取物語」はこう書き換える必要にせまられる。すなわち、
 
 あかしな町のかぐや姫
 
 と。あの陳腐な平安時代の竹取物語に、時代の苦悩や人間の苦悩を色濃くぬりこめ、宇宙的規模の史劇にまで高めた円空という謎の作家の手になる鎌倉時代の「新編竹取物語」。この驚くべき全十一幕、五時間をこえる壮大な史劇と対面するには、明科町にいかねばならないのだ。明科町の子供たちが汗と涙でつくりだした溌刺たるステージを見るのもよいだろう。あるいはまた明科町の大人たち──PTAのお母さんやお父さんたちが、パン屋さんが、美容師さんが、床屋さんが、保母さんが、おそば屋さんが、役場の公務員が、先生たちが、スーパーの係長が、農業組合の課長が、町長が、信州銀行明科町支店のバンカーたちが、婦人会の人々が、消防団の人々が、青年団の青年たちが、揮身の力をふりしぼって取り組んできたステージを見るのもよい。

 さあ、日本の人々よ。この魂が震えるばかりの衝撃の史劇を見るために明科町にいこう。明科町の人々がつくりだす、力と勇気と希望のシャワーを浴びるために明科町にいこう。こうしてはじまる明科町に、湧き起こる文芸の波。百年後の歴史家は、町から湧き立つ文化という章のなかで次のように記すにちがいない。

「二○二三年の八月十一日、明科町で小さな会合がもたれ、小さな実行委員会が生まれた。しかしその日こそ、七百七十年も眠り続けていた史劇をよみがえらせ、人々が歴史のなかにもう一つの壮大なドラマをつくりだすために立ち上がった日だった」
  


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