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大海の磯もとどろに寄する波

  拝賀の式典なるものが近年続けて行われているが、しかし今度の式典はいままでとはまるで違ったものだということが、政子の侍女たちにもわかりはじめていた。その式典には鶴岡宮に桟敷が造作される。そこに幕僚や高官や後家人たちの婦女子が座して、武者たちの華麗な行列を見物することになっている。だからそこはまた婦女子の衣装を競う場ともなるのだ。そんなわけで政子は侍女たちの衣装にもこまかな注文をつけていた。さらには庵に隣接して、はるばる都から下ってくる大納言卿をむかえる室の普請が、昨年の末からばたばたとせわしくはじまっていて、それもまたこの式典がいかに破格なものかを侍女たちにも伝えていた。

 一月二十四日、大納言の一行が長大な列をひいて鎌倉に入ってきた。鎌倉にこれほど高い地位をもった人物が入ってくるのは幕府はじまって以来だった。その大納言が政子の庵を訪ねてきたのはその翌日だった。
 この坊門忠信は実朝の台所兼子の実兄だった。坊門家は美女を生む家系なのか、兼子の姉妹もまた後鳥羽院や順徳院の女房になって、坊門家はいまや都きっての権勢を誇っていた。朝廷はこの坊門を式典参列の統領にして鎌倉に送り込んできたのである。

 質素な庵とは対称的に華美な色彩を配した新室に忠信を迎えた政子は、うやうやしく挨拶を交わすと、
「ところでもう台所とはお会いになられましたか」
 と忠信に尋ねた。
「いいえ、まずは尼台所さまにご挨拶をしてからでございます、将軍ご台所とは今夕にも会うことになっております」
「さぞや話がはずむことでしょう、台所とお会いになるのは何年ぶりになるのでしょうかね」
「かれこれ十五年になりましょうか」
「まあ、そんなになりますか」
「はい、妹が鎌倉に参ったのは元久元年でございました、それから建永、承元、建暦、建保と時は移り変わっていきました」

 政子はそこでかねてから朝廷に投げかけていた懸案の話が、忠信の手を通して伝えられるのかと身構えたが、忠信は意外な話に転じた。
「いま都では、将軍のお歌が大変な人気を呼んでおります、とくに婦女子などが競って筆写しておりますが、むろん鎌倉でもこのお歌は大変な評判なのでしょうね」
「あ、はい、それはもう‥‥‥」
「私もまたこの道中、実朝どのの歌集を毎日めくりながらの旅でしたから、歌集がぼろぼろになりました、ぼろぼろになるばかりに人の心を捕らえて放さない魅力が、あのお歌にはあるのですね」
「さようでございますか」

 政子はなにかいやな気配になってきたと思った。その話題をはやく転じたいと思ったが、忠信はさらにその話を続ける。
「箱根の峠を抜けまして、いまかいまかと待ち望んでいた海が、とうとう望見したときの感動といったものは、久しくなかったことでした、あの海三部作と呼ぶべきお歌がつくられたその現場に足を踏み入れたのですからね、あの海を歌った歌がありますね」
「はあ‥‥‥」
「朗々たる響きをもつ海三作です。
 
 箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
 空や海うみもそらともえぞ分かぬ霞も波も立ち満ちにつつ
 大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも
 
 この三作があるだけですでに実朝どのは、歴史にその名を残すにちがいありません、いずれも朗々たる言葉の響きをもつ雄大な歌ですが、とくに三首目の、大海の磯もとどろに寄する波の歌は、まさに言葉が波となり、言葉が砕け散る飛沫となって私たちにふりかかってきます、海のたくましい営みを歌った歌でありますが、またそれは人間の悲しみとか絶望といったものを歌っていて私たちの心に迫ってくるのです」
 京に入り、公家の屋敷に招かれ、殿上人たちと対座するとき、なにかいつも彼らとの間に深い溝を感じる。それはこの種の教養といったものがつくりだす溝なのだろうかとこのときも政子はあらためて感じるのだった。
「実朝どのの歌は随所に万葉にもない、古今和歌集や新古今和歌集にもない、はっとするばかりの斬新さと歌に変革を迫るような独創があります、例えば黒と白の交声の歌などです」
「はあ、黒と白でございますか」
「はい、黒はこうです。
 
 うばたまや闇のくらきに天雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる
 
 黒に黒を重層的にかさね、八重雲が圧倒的に天空を覆い、その黒い雲のなかから雁の鳴く声が聞こえてくる、雁の鳴き声さえも黒く見えるばかりです、なにかやがて私たちにふりかかる悲劇を暗示するかのような、不気味な歌ではありませんか、すぐれた歌というものはかならずその時代を深く刻みこむものなのです、そして白はこうです。
 
 かもめゐる沖の白洲に降る雪の晴れゆく空の月のさやけさ
 
 白に白を彩色し、さらに月の白い光を奏でる、なんという魅力的な旋律でしょうか、こよなく美しい歌です、美しい歌はかならず音楽が聞こえてくるものですが、この歌からも高く低く鳴る笛の音が、聞こえてくるではありませんか」

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