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蜷川幸雄さんへの手紙 2

 蜷川
だけどそれ以上に彼らは身体感覚の
革命をやらない限り、
あの稽古はやれなかったと思う。
ここから始まったことは
強烈な焼きゴテみたいなものだったと思うんですね。
そのことがなければ、
この仕事の意味なんかないわけでね。
たんにすごろくのあがりで
ロンドンまでやってきたという話じゃないんで、
世界レベルで新しい仕事が
できたかどうかという問題でね。

真田にとっても、
RSC(ロイヤル・シェクスピア・カンパニー)にとっても、
予想以上の成果を手にいれた
日本公演が終了した。
しかしこのときロンドンで
彼らを待ち受けていた大きなつまずきを
だれ一人として予想することができなかった。
ロンドン公演を一週間後にひかえ、
美術、照明などの各セクションの
日本チームが先乗りしてきた。
今回のリア王はスタッフの面でも日英混合である。
各チームは蜷川の演出を熟知した
いわゆる蜷川組の面々だけでなく、
必ずRSCのステージスッフがつき、
綿密なコミュケーションのもとに動いていく。
しかし演技とはちがい、
ここでは日本とイギリスとの感覚の違いが
如実にかたちとなってあらわれてくる。
特に能舞台のセットについては問題があった。
今回のセットはあまりにも巨大で
運ぶことができないため、
デザイン画をもとにイギリスで製作したものだった。
松のレリーフの陰影や、
ススキの枯れた風情がなくなっている。
蜷川のリハーサルが開始される明日まで
完成させなければならない。

一方、真田は日本公演の疲れを癒す間もなく、
一人はやばやとロンドン入りしていた。
周囲からすっかり日本語がなくなり、
あらためて恐怖心がもたげる。
自分はイギリスの観客の前で
シェクスピアのセリフを英語でしゃべれるのかと。

 真田
本当の意味の答え合わせが、
プレビュー初日だったので、
やっぱりびびりましたね。
こっちに来てからずっと毎日ボイスコーチについて
トレーニングにしていたけど、
果たして舞台に立ったとき、
髪の色から全部ちがう観客の前で
平常心でいられるのかな。

八月のワークショップから
忘れていたプレッシャーがふきだしてきた。
真田は彼のよき理解者であり、
自らもイギリスの演劇を学んだ経験のある
野田秀樹に何度かその胸のうちを話していた。

野田秀樹
彼はハムレットをイギリスの舞台でやっているから、
イギリス人の前で演じるってことに
そんなに違和感はなかったんだけど、
自分が英語をしゃべっている、
しかしその英語と自分の状態、
自分の肉体がどれほど密着しているか
という稀有な体験をしていると思うな。
観客は自分の英語をどう聞いているのか、
どう見ているのか、
そんな不安感がすごくあったような気がしますね。
それはしょうがないことで、
誰もやったことがないことをやるわけだから。
シェクスピアのセリフをおぼえて、
ふだん使わないような英語をおぼえて、
それをしゃべるってことの
恐怖感というのはすごくあったんだろうね、
すごい稽古をしているって言ったけど。

ロンドンのリハーサルがはじまった。
イギリス人キャストたちの表情が
日本にいるときよりもかたい。
彼らは真田とはまったく別の
プレッシャーを感じていた。
蜷川によって
RSCの伝統という枷をはずされた彼らは、
いざ本拠地バービカン劇場の空気を吸うと、
あの手ぐすねひいて待ち構える
容赦ない批判を浴びせる批評家たちの顔が
頭にちらついてしまうのだ。

マイケル・マロニ
勝手を知った場所だから、
イギリスではよけいプレッシャーを感じる。
また頭のかたい国でやるのかってね。

ロンドンにやってきた蜷川は
心なしか寂し気だった。
役者たちはすでに自分に手からはなれ、
彼らは進化し始めている。
あとは一人の観客として見守るしかない。

蜷川
ぼくの役割は終わりなんですよ。
ロンドンで会うと、一緒に戦いをしてきた友人と
再会した気持ちです。
我々がつくりたいのは、ぼくがつくりたいのは、
魂が燃焼する演劇なんだと。
それはイギリスの人たちとぼくをつなぐ糸だから、
そのことを大事にしながら客席で見ています。

それぞれの期待と不安を感じながら
シェクスピアの殿堂バービカン劇場での初演を迎えた。
 
真田
出る前にテーブルの下で
うずくまって緊張していました。
日本にはないシーンで、
ばんばん受けているぞって仲間がささやく、
自分がでていって引いちゃったらどうしよう。
出てしばらくの記憶がないんですね、
相手の役者しか見ていなくて、
お客さんのことを忘れていて、
思いがけないところで笑いがきて、
自分では次のパンチラインがきたときに、
そういう笑いが起きると思っていたのが、
その前のセリフの部分で
どっと笑いがきちゃったんですよ、
そのときなにが起こったんだ、
おれはなんかとんでもないことを
やらかしたのかみたいな、
それで初めて、お客さんを意識して、
よく映画である音が消えてて、
ふとある瞬間から実際の音が
聞こえてくるみたいな、あんな感じでしたね。

真田以上にイギリス人キャストたちは緊張していた。
あのナイジェル・ホーソンさえ、
自分の衣装を間違えてしまうほど。
しかしイギリスの観客たちの
反応の早さがうまく作用して、
次第に俳優たちは立ち直っていく。
観客の反応は最高だった。
目の肥えた世界で、もっともうるさい
イギリスの観客たちの声援をかりて
真田はまた一段と階段を上った。

蜷川
演技がどんどんよくなっている。
それからお客さんの雰囲気が、
大人の、高級な観客が集まっている。
いい雰囲気でしたね。

しかしこの喜びは一夜にして
屈辱に変わることになる。
翌朝、かの有名なロンドンの演劇批評が
一斉に紙面を飾った。
蜷川とRSCのリア王は
もっとも注目されていた作品だけに、
そのリアクションは大きかった。
結果は最悪だった。
各紙はこぞってこの作品の失敗を宣告した、
矢面に立たされたのが、
蜷川と主役のホーソン、
そして唯一の日本人キャスト真田である。

ザ・タイムス
蜷川はリア王を演出するにふさわしくない男だ。
同時にホーソンの迫力のなさも
リア王に似つかわしくない。
側転ではね回る真田の道化は、
言葉の違う異国からの乱入者にすぎない。

インディぺンデント
英国キャストとの仕事で、蜷川は弱点を露呈した。
彼は英語によるセリフの掘り下げより、
安易なスペクタルを選んだ。
この作品は蜷川の手にあまるものだ。

オブザーバー
名優ホーソンと蜷川の演出に期待した客には、
無感動な夜になった。
言葉の力より、誇張された視覚に訴えた
シェクスピア劇の悪い見本である。
真田の道化とリアの細かいやりとりも
不明瞭な英語で、
意味をなしてない味気のないリア王であった。

次から次へ登場するこの手ひどい評論に
翌日の楽屋は激しく動揺する。
慣れているイギリス人でさえ、
これほどの酷評ははじめてだった。
 
野田
最初の日に、そういう批評をもらうのは
たしかに動揺するでしょうね、
逆にイギリスの役者が日本にきて、
日本の舞台に立って、
日本語しゃべって、それは違和感があるけど、
でも日本人は性格的に
その人を叩かないですよ、
歌舞伎の世界に外人が入ってきて、
舌足らずの日本語なんかでやったら、
それは叩かれるかもしれないけれど。

ホーソン
残念なのは、批評家がこぞって
日本とシェクスピアの合体を毛嫌いしことです。

野田
蜷川さんがたくらんだことは、すごいことで、
その一番切り込みにくいところに、
しかも切りつけたことで、
たしかに一部の保守的な
イギリス人たちからすると、
なんだかよくわからんということになる。

ホーソン
イギリスではよそ者の成功を好まない
非常に残念な傾向があります。
出る杭は打つ。
しかも杭が伸びきるまで待って、
最後の最後で致命傷を与える。
私と蜷川さんにされたようにね。

野田
ただ批評っていうのは、
どこの国もそうだけど、
そんなにあてになるものじゃない。
 
ホーソン
芝居を見て、
私の役作りの意図を理解した人々から
山ほどの称賛の手紙をもらいました。
まったく理解に苦しみます。
同じ芝居を見て、なぜこうも正反対になるのか。

評論家同様、イギリスの観客もシビアだ。
見るに値しない芝居は、
たとえそれがどんな話題作であろうと、
どんなスターが出演していようと、
チケットを容赦なく払い戻しをする。
そうして致命傷を与えられて、
イギリスの舞台から消えていった
名優や演出家は数知れない。
生まれてはじめて名指しで
非難される痛い経験。
蓄積された肉体と精神の疲労が
じわりとにじみでてくる。

真田
そういう波風があるのだろうということを
承知でロンドンに乗り込んでいるわけだから、
そういう酷評が活字になって
出てくると傷つくけれども、
むしろ自分がやってることへの
自信が強まると言うか、
この演技を続けて、本当のお客さんを
魅了し続けることで答えを出す。
どっちが間違えていたのかという
エネルギーに転化していく。
スタッフみんな不思議がってたんですよね、
ていうか、信じてないというか、
むしろ批評家たちの芝居を見る目を
疑っているというか、
ぼくたちはお客さんたちの
いいリアクションしか見てないわけですから。

蜷川
どうなんだろうなあ、
演出家としての駆け出しの頃だったら、
ぼくもそんな酷評なんかに
気になったんだろうと思いますが、
今は正直いって、もう自分のなかでは、
自分の作品にジャッジっていうのは
できちゃってるんですね、
たとえ演技がどれだけ狂って
ゆがんでいたとしても、
少々のことははじき飛ばせるぐらい
骨太にできているわけでね。

しかし公演三日目。
リア王をめぐるマスコミの論調に
突如として異変が起こる。
一方的に叩かれていた
ホーソンや真田を評価する記事が
一斉に出始めたのだ。

ザ・ガーディアン
他の批評家とたもとを分かち、
蜷川の悲劇的な東洋美を私は評価する。
イギリスの批評家たちは
自分の愛するシェクスピアを日本人が
いじくり回すことをよく思わなかったのだ。

サンデーエクスプレス
観客たちは理不尽に汚された
名優の復活を見た。
幕が下りてからブラボー!の声が
五分あまり続いた。
サー・ナイジェリは再び舞台の王となった。

サンデータイムス
日本の真田は強烈な古典的アクセントはあるが、
クリアでうまくポイントを押さえた英語を使い、
クールな道化役を作り上げた。

ニユーステーツマン
軽やかで美しい真田の道化、
少し憂いをおびた声は、
リアの末娘と重なる。
RSCの部外者を起用したかけは成功した。

野田
たとえばすごく崩して上演すれば、
それはおひざもとのRSCでやるわけだから、
ものすごい酷評もあるかわりに、
それを支持する人間もでてくるのがイギリスですね、
だからそのへんのスタンスを
ちゃんととらえれば少しも怖くない。
どんな舞台だって酷評する人間はいるわけで、
しかし指示する層もちゃんと存在している。

ホーソン
芝居の最終審判は観客のみなさんの反応です。
日本公演と同じく、ロンドンでもチケットは完売で、
連日たくさんのキャンセル待ちが出るほどでした。

観客1
演出の音楽も楽しめました。

観客2
装置も演出もとってもいい出来。
日本的な道化役もよかったです。
作品の内容を改めて考えさせられました。

真田
お客さんも賛否両論の批評を見て、
四階席から身を乗り出して
食らいつくように舞台を見ているわけですよ。
おれたちがジャッジだという勢いで。
だからこっちは日々戦いですよ。
スタイルを変えずにお客さんたちを満足させるぞって。

観客3
日本の要素がシェクスピアと合体して、
新しい面が出ているわ。

観客4
東京でも蜷川氏の作品を見る機会がありましたが、
今回はイギリスの俳優の力を十分に引き出していますね。

ホーソン
真田さんはイギリスの観客に愛されていますよ。
私と真田さんがカーテンコールに登場するときの
あの割れるような拍手。
今回の組み合わせは正解なんです。

真田
立ち見の人たちが、そこを去らないという状況で、
熱いカーテンコールでむかえてくれる、
非常に充実した25回の公演でしたね。
賛否両論われた批評に対して、
私たちはやってきたことを信じていこうという
結束が新たにかたまったといいますか、
より迷わず突き進むという勢いが
できたような気がします。
とにかくお客さんがジャッジしてくれるはずだ
というとろにいたんで、そういう意味では、
みんなで乗り切ったという感じですかね、

ホーソン
私はもう七十歳、これを最後に舞台を下ります。
評論家の無神経でいやしいあざけりに、
これ以上身をさらすような年ではない。
だが真田さんはこれからだ、
自分が納得できる演技ができればいい。
評論とは関係ない、
だが批判には自分だけ抱え込まないこと、
観客の称賛があれば、それに優るものはない。

ロンドン公演が終わった。
真田はクールダウンをかねて
次の公演場所シェクスピア生誕の地である
ストラッドフォードに足を運んだ。
ここに立つイギリス演劇の聖地、シェクスピア劇場で、
最後の45公演を行われる。
その舞台に立った日本人はいまだかっていない。
悩みに悩んで道化役を引き受けて以来一年、
次々に迫って来る不安とプレッシャーを
もがいてはうめき、
ひたすら前に進んできた一年だった。
大きな喝采を浴びたが、
それと同じくらいこきおろされもした。
役者のプライドをかけて戦い、
傷ついてはまた立ち直る繰り返しのなかで、
今、真田はどう変わったのだろうか。
 
真田は現在、ストラッドフォードで
長い公演の真っ最中である。
便りよると、さらに新しい境地に
足を踏み入れたと評されたらしい。
真田演じる道化の発するエネルギーは
誰にも真似できない。
もう真田だけの道化なのだ。
彼はいまもなお前に進んでいる。
挑戦するなにかがある限り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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