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桐島太郎君を葬送する辞

 この偲ぶ会を企画し実現してくれた金井君や下山君にまずお礼を申し上げます。金井君、下山君、ありがとう。それから次郎にも、太郎夫人とお子さんにも、さまざまな意味をこめてまずお礼を申し上げます。

 私が桐島太郎と巡り合ったのは、もう三十年も前のことであり、それも彼と交流していた時間といったら、たったの三、四年に過ぎなかったのですが、しかし太郎という人物がどのような人間だったのか、彼は何を目指して生きていたのか、何をしたかったのか、どのような人生を生きたかったのか、あるいは皆さんの心のなかに太郎という人間が生きておられるのなら、その皆さんに彼はここで何を告げたいのかといったことなどを話すことのできる人間の一人だと思いますので、ちょっと時間をいただいて話をさせて下さい。少し長くなりますが、聞いてください。

 その当時、少年団活動がなかなか活発な時代で、その少年団活動の中から、パレットクラブという活動が生まれ、その活動を指導していったのが、今日ここに参列している玉城さんであり、田村さんであり、久門さんであり、そして太郎だったのです。指導するといっても大人たちもまた素人でしたから、むしろ指導する大人たちが子どもたちから学ぶ、子供たちに教えてもらう、子供たちの圧倒的な生命力に導かれていくといったことだったのですが、そのことをもっとも必要としたのが太郎だったのです。

 その頃の太郎は法学部に在籍している大学生でした。将来は弁護士になって貧しい人々を救い出し、社会の悪と戦う、戦う弁護士になるんだなんて大口を叩いていましたが、とんとそのための勉強をしている様子はない。おそらく法律のテキストなど三ページと読んだことはないはずです。彼は大学生でしたが、学費も生活費もすべて自分で稼ぎなさいというのが、マサエさんの、彼のお母さんの教育方針、子育てのコンセプトでしたから、バイトをしなければならない。彼はよく道路工事のバイトをしていました。手取りが高額だからです。しかしそのバイトで疲れ果ててしまって、もう大学どころではない。バイトに行かない日は、朝から大酒をくらっている。要するにめちゃくちゃな生活をしていたのです。そんな彼がこのパレットクラブに立ち向かってきたのです。

 このパレットクラブの活動は、子供たちの生命力に導かれて、絵を描くことだけでなく、工作をしたり、長期の合宿をしたり、読書会をしたり、絵本を作ったり、演劇をしたり、展覧会をしたり、コンサートを組み立てたりと、うねる波のように大きく展開していくのですが、それは朝から酒を飲んで自分をごまかして生きていた太郎を変革していく活動でした。太郎はこの活動によってさまざまなことを覚醒したはずです。何よりも自分自身を。こういう熱い時間を作り出すことができる彼自身を。これが生きるということなのか。おれはこういう熱い時間をつくり出していくために生きるのだと。

 その頃、太郎はしばしばゴッホのスケッチを模写していました。ゴッホが好んで描いたのは貧しい人々です。社会の底辺で生きている人たち、落ちぶれた娼婦や、落穂を拾って生きている農民たち、土を耕し種を撒く農夫たち、機織り機で織物を織る人たち、穴を掘る墓堀りの人夫たち、これら社会の底辺で生きている貧しい人たちをゴッホは何十枚と描いている。太郎はそのころよく土方仕事をして、土方なんて言葉はいまはないか、いまでは道路工事ですが、彼もスコップを握って土を掘っていたためか、しばしばゴッホがスケッチした土を掘っている農夫たちを描いていました。太郎が描くその模写はゴッホのタッチそのままでした。太郎は明らかに絵を描く才能があったのです。そしてそのとき私は、太郎の魂の形というものがゴッホそっくりだと思ったのです。

 ゴッホもまた若い時代、まったく自分がどうして生きていいかわからない人間でした。いったいどのように生きればいいのか、どこに向かって歩いていけばいいのかまったくわからない人間だったのです。しかし彼の中に生きることの強烈な主題があった。生きていくための使命があった。それは世界を救い出そうという使命です。世界はあまりにも貧しい。貧しい人々が世に溢れている。自分はこの貧しい人々を救い出すための仕事をするのだ。苦しんでいる人々に光をもたらす仕事をするのだという強烈な使命、ミッションを抱いていたのです。

 しかし彼はそれをどのように実現させていくかがまったくわからなかった。それで画商の見習いの仕事をしたり、伝道師を育成するための学校に通ったり、実際に炭鉱の町で伝道師として働いたり。しかしいずれの仕事も挫折して、あちこちをさまよい歩く。彼は自分の内部にある大きな使命を、どのようにして実現していけばいいのか、まったくわからなかったのです。しかし彼が二十七歳のとき、ついに自分が歩いていく道を発見する。画家になることです。絵を描くことによって世界に光を与え、苦しむ人々を救い出さんとする画家になることを決意するのです。

 そしてそのときから彼は画家として世に立つために、厳しいトレーニングを自分に課していくのです。高い課題を自分に課して、その課題をひとつひとつクリアしていく。それはじつに激しく厳しい自分との戦いで、それこそ倒すか倒されるかの生命をかけた戦いの様子は、ゴッホの弟テオにあてた膨大な手紙のなかに克明に描かれています。こうして彼は一歩一歩と本物の画家になっていき、だれにも作り出せなかった彼の世界を創造していく。しかし彼の絵は売れません。描いても描いても売れない。今日残っているゴッホの油彩画は六百点近くあるといわれていますが、たったの一点も売れなかった。それでも彼は描き続けた。世界に光を与え、苦しむ人々を救い出さんとする画家になるために描き続けた。そんな彼に病がおそいかかってくる。精神分裂病が、いまでは統合失調症と病名を変えられましたが、この病が襲ってきて、幻聴が鳴りやまぬ耳を剃刀でそぎ落とし、ついには拳銃を手にして、弾丸を自分の胸に撃ち込んで世を去るのです。四十七歳のときでした。

 ゴッホはこうして若くして世を去っていったが、しかし彼は自分の仕事、天から与えられた使命を完璧にやり遂げたのです。彼の絵は、生前一枚も売れませんでした。貧乏のどん底のなかで倒れていきました。しかし今日彼の絵は何億という値がつきます。彼が生涯に描いた絵を全部たすと何千億、小さな国の国家予算ほどになるはずです。しかし彼の絵をそんなお金に換算するのではなく、例えば、日本でしばしばゴッホ展が開かれるのですが、何十万という人々が、ゴッホの絵を見にやってくる。いまなお脈々と生命の力を放っているゴッホの絵が、見るものに力と勇気と希望を与えるからです。まさにゴッホは世界に光りと勇気を与える画家になったのです。

 太郎はどうしたのか。ゴッホと同じタッチのスケッチができる太郎はどうしたのか。ゴッホと同じように世界を変えたい、貧しい人々を救い出したいという大きな使命を、われとわが身に課していた太郎はどうしたのか。彼はゴッホと同じことができなかった。自己を鍛えることができなかったのです。自己を確立するためには、厳しいトレーニングを自らに課し、それをやり遂げなければならなかった。新しい自分を作り出していくためには、自分自身との火の格闘が必要なのです。太郎にはそれができなかった。圧倒的な現実のなかで、自分がしなければならぬ仕事ができない、自分が生きなければならぬ人生を生きていない、その大きなギャップを抱いたまま無念のうちに立ち去っていったのではないかと思います。

 いま私は太郎を、ゴッホと対比して、太郎を挫折した人間、人生に敗北した人間として描こうとしているのではありません。葬儀という儀式もそうですが、またこのような偲ぶ会もまた、当然故人に思いをはせるということですが、同時にそこに参列した私たち一人一人に、強烈に生きていることの意味を問いかけてくる場でもあるのです。死者は私たちにこう問いかけてきます。あなたたちはしっかりと生きているのか。あなたたちは大地を一歩一歩ふみしめて、自分の人生を歩いているのかと。おそらくいま太郎は、私たちにこういう言葉を伝えようとしているのではないでしょうか。

 あの少年団時代の輝きを、おれの人生の中で、再び作り出そうとして生きてきた。古い世界を打ち壊し、新しい世界を打ち立てようとしたあのときの情熱を、あのときの戦いを、あのときの涙を、あのときの怒りと叫びを。おれはもう一度あの輝かしい時間を作り出そうと生きてきたが、無念なことに自分にはできなかった。しかしおれには君たちがいる。君たちは生きている。君たちは生きていく。圧倒的な現実のなかで、あのときおれたちが作り出した輝かしい時間が、どんどん磨滅し消え去っていく。しかし磨滅させないでくれ。あのとき抱いた世界を変えたいという情熱を捨てないでくれ。それぞれの人生のなかで、あの時代の輝き作り出さんとする戦いを放棄しないでくれ。太郎はいま、そんなメッセージを私たちに伝えようとしているのではないかと思います。
 ありがとう、長くなりました、すみません。

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