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印刷所の男たちが版下を雑誌「谷根千」に変身させる夜  山崎範子

山崎範子さんとの戦いは以前から続いていて、彼女に「谷根千物語」を書くべきだと挑戦しているのだ。女性三人が、そして彼女の子どもたちが「谷根千」という雑誌の舞台で繰り広げられるドラマがもう無数にあって、それらのドラマを描いた本を書き上げて読書社会に投じたら、必ずやNHKの朝の連続ドラマになるだろうと煽っているのだ。それはいまでも続いて、彼女が立ち上がる日を待っているのだが。

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「谷根千」四十三号の配達は猛暑の中を走ることになった。「東京の気温は三十四度まで上昇しました」というラジオの声が聞こえてきたとき、私は神田神保町の交差点で信号待ちをしていた。
 幹線道路沿いにはアスファルトがジリジリと太陽を照り返し、脇道に入るとビルの裏側から排出されるエアコンの熱風。加えて光化学スモッグの発生で目が痛む。
「谷根千です。新しいの届けに来ました」

 一度に五十冊、百冊を自転車から降ろせる店は少ない。たいがいは十冊か二十冊。一冊だけ届けるところも数軒ある。納品伝票に記入し、返品を受けとり、売れ数を計算して領収書を切る。書店によっては改めて請求書を送る。バックナンバーを置いてもらっている店では、在庫を調べて計算するので時間がかかる。
 飲食店は昼飯時を避け、病院はなるべく午後、料理屋は仕込み時間と、店によって都合の良い時間が違う。

 帽子を被り、タオルを首に巻き、商業用自転車を乗り回す日々が、二週間ほど続く。夕暮れ、汗と埃の汚い顔で仕事場に戻り、配達をチェックしていると、仲間のOも同じような汗まみれの顔で帰ってきた。二人で顔を見合わせ、無言でニヤッと笑う。疲労困憊した体から声はでないのだ。でも、心の中は同じことを考えている。
「帰ったらフロに入り、ビール、ビール、ビール、ビール‥‥‥」

 版下作業のとき、毎日雨ばかりだった。写植の打たれた印画紙の巻き物を抱えていると、「今どき、そんな時代遅れな」と声がかかる。知り合いは原稿をフロッピーで渡す。マッキントッシュでレイアウトする。私もその気がないわけではない。が、よくわからないだけだ。まあ、そのうちに、今回はこれまで通りで、と言い訳しながら今日まできた。
 印画紙と版下用の台紙とカッターナイフと三角定規とペーパーセメントとシンナーを机の上に置く。そしてウームと考える。レイアウトのイメージはまだ頭の中にホワッとあるだけ。

 とにかく手を動かす。台紙に線を引き、印画紙にペーパーセメントを塗る。貼りはじめると頭の中のホワッが少しづつ形になる。
 手作業の緊張と、創造の昂揚がまざりあった気分。私の大好きな時間。
 版下作業の数日は孤独の時間と、仲間三人の密着した時間がサンドイッチのように重ねられてゆく。この期に及んで、
「ここの文章、やっぱり気になるから削ろう」
「空いたところはどうする」
「何か、写真ない? 図版は? じゃあ、ヒロちゃん、このイメージで絵を描いてよ」

 この春、四人の母になったOは、谷根千唯一のイラストレイターでもある。頭を抱えながらもMや私の注文を軽妙にこなしていく。毎号の「確連房通信」やおたよりのロゴ絵も凝る。そして、例えば三十二号の谷中生姜特集号では田植、レンコン、ウズラの足跡、三十三号ではススキに瓦屋根を描く。
 毎度のことながら、貼ってみると文章が余り、泣いて写植を切ることもしてしまう。本文より手間のかかる広告作り。表紙のおぼろげなイメージを形にし、色を決めるのもこの時間だ。
 そして夜が明ける頃、四十八頁分二十六枚の版下が出来あがり、印刷所の三盛社に入稿する。

 地域雑誌を創刊しようと思いついた時、私たちは近所の二つの印刷所に相談した。ひとつは、「君たちはまだ素人だから、ぼくが細かいことも面倒みてあげよう。安心しなさい」と言い、もうひとつは、「こういう雑誌は初めてだから、一緒に考えていいものを作ろう」といった。心はすぐ決まった。
 後者が創刊以来十一年、ずっとお世話になる三盛社の渡辺正晴さんの言葉だった。私たちのチョイお兄さんの年齢である。現在はお父さんの跡を継いで三盛社の社長さんとなりなかなか忙しい。

 雑誌を作り始めた頃、しょっちゅう印刷所に出入りをした。ズラリと並んだ紙見本を見たり、フイルムを印刷機につけるところを眺めたり、インクの濃淡の調節の説明を聞き、バタバタバタと大きな紙に刷られ重なってゆく谷根千にドキドキした。最初は中トジのホチキスもひとつひとつガシャッと手作業でとじていたのだった。町の印刷所の夜はいつも遅い。

 三盛社の殿内さんにできたてホヤホヤの版下を届ける。目の下に隈のある顔で、
「お願い、一日でも早く作ってね」
 と拝むようにたのむと、
「いつもと同じだけの時間はかかるよ」
 とつれない返事。殿内さんのこのクールさとやさしい目がたまらない。そういえば二十六号にOが描いた殿内さんの似顔絵は大評判で、「アナタが殿内さんでしょ。谷根千にのってた顏にソックリ」と、何人かから声をかけられたと苦い顔していた。

 殿内さんに版下のチェックをしてもらうようになって六年。その前は大石さんが面倒をみてくれた。大石さんは着流し姿の似合う、渡世人ぽいステキな人だった。私は夢のなかで大石さんと手をとりあい、駈け落ちしたことがある。雑誌で紹介したお店に、「谷根千を見てきました」と、ご夫妻で足を運んでくれた。
「大石さんはね、君が帰ったあとに版下についているゴミをきれいに取って、どんなに遅くなってもその日のうちに面付け(印刷のために版下を並べること)していたよ」と殿内さんが教えてくれた。大石さんは若くして病気で亡くなったのだ。

 こうして版下を印刷所に届け、青焼き校正が無事済むと、原稿書きから校正、版下と続いた机上作業からの解放の日となる。
 谷根千が三盛社の中で雑誌の形に変身し、茶色の紙に包まれて仕事場に納品され、私たちがコワゴワ包みを開けて、新しい「谷根千」に一喜一憂するまでに、およそ一週間の平和な日が続く。

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