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閉塞の時代、われらの美術館を打ち立てよう

 荻原守衛が没したのは明治四十三年(1910)だったから、それから百年の月日が流れていることになる。しかし守衛は依然として生命をたたえて存在している。穂高駅から歩いて五分の位置に、彼の全作品(全作品といってもわずか十一点である)を展示した美術館がある。安曇野を訪れる友人知人を、私は必ずこの美術館に連れていく。すると彼らもまたリピーターになって、幾度もこの美術館に足を運ぶようになる。ある友人はこう漏らした。

━━この美術館にくると、生きる勇気や、情熱が湧き立ってくる。ここには日本の青春がある。

 穂高村の農家に生まれた守衛はその当時としては破天荒なことであったが、画家にならんとニューヨークに渡った。明治三十四年、二十二歳のときだった。働きながら画塾で学ぶが、彼のなかに次第にロダンの彫刻が育っていき、一転して彫刻家を志す。そしてフランスに渡るとアカデミア・ジュリアンの彫刻科に入学して研鑽を積むが、そこですでに彼の彫刻家としての才能が開花していて、校内コンクールでは大賞に輝き賞金まで得ている。こうして彫刻家として雄飛する力を蓄えて日本に帰ってきたのは明治四十一年のことだった。そして新宿に工房を構え、日本のロダンにならんと雄大な彫刻群を創造せんとした矢先に、多量の血を吐いて突如として没してしまった。

 帰国してからの守衛に与えられた時間はわずか二年間だったが、その短い時間に彼が残した十一点の作品は、日本の石膏彫刻の夜明を告げる力動をたっぷりと宿している。ロダンの影響を濃厚にただよわせた「女の胴」や「鉱夫」そして「労働者」の像。この「労働者」は左腕が切り落とされていて、掌だけが趺坐した左の腿にのせられている。美術館の中庭に展示されているその像はロダンの「考える人」を彷彿とさせる。そして「文覚」と「デスペア」と「女」の像。この三体こそ守衛がこよなく愛した英文のフレーズ「LOVE IS ART. STRUGGLE IS BEAUTY」そのものだった。

 愛は芸術であった。悶え苦しむことは美だった。このフレーズを、まさに血を吐きながら刻み込んだ「女」は、座るのでもなく立つのでもなく、膝をついた中腰のポーズである。両腕が背後にまわされ、両手が尻の上で組まれている。その体はもう倒れるばかりに前傾で、しかも右回りにねじれながら上昇していく螺旋形になっている。目が閉じられ、愛する人の接吻を待ち受けるうける、あるいはそれを求めている。この生々しいばかりの生命の力がみなぎるこの彫刻を越える彫刻は、いまだ日本に現れていないと評されるばかりの作品だった。

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 しかしこれらの作品は、石膏のまま守衛の生家の裏に建てられた小屋のなかに所蔵されていた。その小屋に碌山館と名づけ公開されていたが、訪れる人などわずかで、夥しい数の有名無名の芸術家たちの作品がそうであるように、こうして守衛の彫刻群もこのまま歴史の底に消え果てていくかのように思われた。しかし守衛もまた三百年生きるという思想をもった彫刻家だった。彼がまさに天空を駆け抜ける流星のように去ってから半世紀たったころ、彼の彫刻を展示する美術館をたてようと旗を振る一群の人たちが現れた。その先頭に立ったのが教師たちで、次第にその輪が広がり、生徒たちに、さらに父母たちに寄金を呼びかけるのだった。

 そのムーブメントによって、目標とする建設資金もあつまり、穂高町から無償で提供された地に、いよいよ建設がはじまった。穂高町の人々は穂高川から建物の土台となる石を運び込み、その作業にやがて中学生たちもくわわり、男子生徒たちは屋根の瓦運び、女子生徒たちは煉瓦を運びこんだと記録されている。こうして昭和三十三年(1958)、碌山美術館は立った。ヨーロッパの寒村にひっそりと立っているような教会風の建物だ。二層の屋根、その上に尖塔が立ち、鐘が吊るされている。春になると赤レンガの壁面に蔦の葉が這って緑の館になる。小さく、素朴で、しかし凛としたたたずまい。その扉には、

 この館は二十九万九千百余人の力で生まれたり

 と刻印されたプレートが打ち込まれている。開館されてから五十年、この館の入場者総数はやがて一千万人になろうとしている。


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