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中高生からの人文学 その8

4.大学の外における人文学

 さてここまで人文学とは何か、そして人文学の面白さについて簡単に紹介しました。簡単に振り返ると、人文学とは「人の立場から、人の営み」を見つめる学問です。もちろん人の営みと言っても、歴史・思想・言語・文学・文化など多種多様です。

そして主に昔の人が置かれていた時代状況や彼らの価値観などといった自分と違った他者のコンテクストを見極めたり、他者のコンテクストの理解を通じて自分が変化していくところに人文学の面白さがあるわけでした。

「はじめに」でも述べたように、人文学は大学の中に閉じこもっているものではありません、学校や会社やそしてもしかしたら食卓など、ありとあらゆる場所にも広がっていくものです。

では具体的にどうすれば人文学ができるのか、人文学に近づいていくことができるのか、一緒に見ていきたいと思います。

4-1. 学校で人文学

4-1-1. 歴史の授業

 まず学校で人文学と言って一番最初に思い浮かべるのは歴史の授業かもしれません。そんな歴史の教科書や資料集から人文学をすることはできるのでしょうか。

教科書や資料集はあくまでも人文学の成果が集められた場所だからもうすることはないんじゃないだろうか......と思うかもしれませんが、そんなことはありません。見方や考え方によって誰でも教科書から人文学を始めることができます。もちろん皆さんの多くが感じているように、教科書は淡々と記述されているせいか、そのままではつまらないものなので工夫する必要はあるわけですが......。

また教科書といえば試験で得点を取るための読み物だと考えている人もいるかもしれません。ですが今すぐに使える知識は必ずすぐに古くなります。

例えば執筆現在ではiPhoneは13が最新型ですが、『iPhone13の使い方!』のような本はiPhone14がでるやいなや使い物にならなくなるでしょう。それと同じように今日生活するのに・仕事をするのに役に立つ知識は、明日とは言わないまでも時間が経つにつれてすぐに通用しなくなってしまいます。

そして教科書に書いてある多くのことは、日常生活や仕事をする上では役に立たず、明日のテストや大学受験の際に点を取るためだけには有益であるように見えます。

サイン・コサイン・タンジェントなんていつ使うんだ、といった言い回しは漫才以外にもテレビを観ていれば何度も登場すると思います。もちろんそれに対して、日常生活の色んなところで実は用いられているんだという反論も可能かもしれませんが、それが見える形で提示されているわけではありません。

恐らくですがそうした言い回しの裏には、自分の知らないところで活用されているのは分かっているけれど、実感として自分の役に立ったという感覚がないなぁといった意図があると思います。確かに歴史の年号を必死に覚えても役に立つのは試験とクイズ番組のような年号を知っていることがそのまま得点になるような状況しかありません。

4-1-2. どのように歴史の教科書と向き合うか

 では役に立たない知識の集まりであるかのような歴史の教科書とどうジンブン的に向かいあっていけばいいのでしょうか。

それは過去を見つめる視点を動かす方法を覚えることです。

教科書の分かりづらさの要因の一つに、同じ時代の出来事を異なるページに記載していることがあげられるかもしれません。例えば教科書において江戸幕府の話は、豊臣秀吉が亡くなった後関ヶ原の戦いが起こって、というように政治の話がまずは最初に来るはずです。その後に戦国時代から江戸時代にかけての文化の話が入ったり、世界の動きが説明されたりするので、ずっと同じ時代のことについて繰り返し説明されているような気分になってくるかもしれません。

そうした教科書の読みづらさとは裏腹に、現実はそうした政治・経済・文化や個人・世界など様々な動きが絡み合って構成されています。そして人文学はまさにそうした絡み合った人の動きから構成されている「過去」という現実を、慎重に紐解いてきたわけです。

したがって「過去を見つめる視点を動かす」ということはつまり、ある時代や地域における複数の要素の間を頭の中で行ったり来たりする、ということに他なりません。

まずは一番分かりやすい政治の動きから把握し、次にその当時の経済の状況について理解する。そして文化や他地域などといったように徐々に視点を動かしていきます。そしてどの要素がどの要素に影響を与えたのか、想像を巡らせてみましょう。

もちろんそれが正解かどうかが重要なのではありません。自分の中でごちゃごちゃしていた「過去」が大きな視点(政治・経済・文化)と小さな視点(地域・個人・モノ)を行き来することによって、複雑なまま少しずつ整理されることに意味があるのです。

淡々と歴史の知識が記述されているように見える教科書をこのように視点をずらしながら捉えてみることは、様々な情報を独立したものではなく複雑に絡み合ったものの一部分として把握することによって、過去をゆっくりと解きほぐしていく人文学の作業です。

もちろんいきなり「視点を動かす」ことを、手元の教科書だけで実践するには難しいので、ある時代に何が起きていたのかを、ノートに自分なりのまとめを書いてみたり、資料集をコピーして切り貼りしたりすると良いかもしれません。

その際には複数の要素の間で、どの要素がどの要素に影響を与えたか試しに線を引いてみるとクイズのようで楽しそうです。「学校で人文学」の話ではありますが、テストの対策におすすめです。みなさんも是非「教科書の人文学」を始めてみませんか。

4-1-3. 知識の扱い方

 少しだけ脇道に逸れますが、「教科書の人文学」を始めるにあたっては、教科書に記載されている知識の扱い方を知っていると、とても便利です。知識の扱い方とは知識の身につけ方、引き出し方、そして組み立て方のことです。

例えば世界には色んな地域がありますが、世界史の教科書では主に中国とヨーロッパの歴史を語るのに多くのページが割かれています。中国で唐が滅んだ時代にヨーロッパで何が起こったかと聞かれると多くの人が一瞬考えてしまうのではないでしょうか。

歴史を出来事の暗記として「知識」づけてしまうと、柔軟な引き出し方が難しくなってしまいます。ですが一世紀ごとに大体の世界の流れを地図として覚えておくと、ヨーロッパでウェストファリア条約が結ばれたときは、まだ中国とヨーロッパとの関係性は薄かったなとか、モンゴルの時代には版図が拡大して東ヨーロッパは対応に迫られたんだなとか、知識と知識を繋がりとして、関係性として頭に留めておくことができます。

また時間軸以外に政治・経済・文化などの異なる軸を自分の中に組み込むことによって、政治ばかりに目が行きがちな歴史の授業も文化や経済との関係性の中で捉えることができるようになるかもしれません。

複数の軸をもって歴史というものを多面的に捉えることができるようになると、この発明のあとにヨーロッパでは文化で大きな革命があったのに、どうして中国では起こらなかったんだろうということや、中世温暖期という時期があったらしいけど本当に世界のどこでも暖かかったんだろうかといった、これまでは思いもよらなかった疑問が次々に沸き起こってくるはずです。

これは学校で人文学をする前段階の話ではありますが、できるようになると教科書の見え方がグッと変化して教科書や資料集を眺めるのが楽しくなるので是非試してみてください。

4-1-4. 別の視点からの人文学

 また、別の観点からも人文学を行うことができます。歴史の教科書では、「Aの影響を受けて、Bが成立した」「CがDになった」といったように歴史上の出来事が単発的に発生したかのような書かれ方をしています。そしてしばしばフワッとした曖昧な記述も見られます。

どうしてはっきりと「Bが発生したのはAのせいで、Bが理由でCは滅んだ」というように出来事の連続として教科書は書かれないのでしょうか。

もちろんその理由をひとまとめにくくることはできないのですが、そうしたとぎれとぎれの記述の裏には、歴史を一本の直線で構成された単純な因果関係の連続として見ることを避けようという気持ちがあるのです。

分かりやすいように具体例で考えてみましょう。ある日外に出ると停めておいたはずの自転車がなくなっていることに気がつきました(=出来事A)。

私たちはそれに対して、最も妥当だと思われる理由として、最近このあたりでは泥棒が頻発しているらしいというニュースを思い出して、自分の自転車はきっと盗まれたのだ(=出来事B)と考えます。盗まれたからいつもの場所に自転車はない、というわけですね。

ですが、実は大家さんが別の場所に動かしておいた(=出来事C)のかもしれませんし、昨日違う場所に停めた(=出来事D)のを忘れている(=出来事E)だけかもしれません。

このように目の前にある簡単な出来事一つとっても、自分の預かり知らぬところで他の出来事が起こっていた影響を受けているかもしれなかったり、自分の勘違いがあったりなどで、発生した理由について正確な推論を行うことは難しいのです。

ですから人口減少や環境汚染といった社会問題、そして政治体制の変化や景気の上がり下がりなどに代表される、より規模の大きな出来事については言わずもがなでしょう。

またそもそも人はハッキリとした動機に基づいて行動するのでしょうか。先程の例でいえば、何の気なしにいつもと違う場所に自転車を停めてしまって、翌日になって慌てているという可能性も十分に考えられます。

4-1-5. 歴史の出来事とその記述

 話を歴史に戻して考えてみましょう。後世から振り返ってみた時にBという出来事がAという出来事の後に起こったということは間違いないのですが、その裏にはもしかしたらBと同時にCという出来事が起こっていたかもしれませんし、AとBの間にDがあったかもしれません。なんならEという出来事がA,Bそれぞれの裏にあって、どちらもEの結果だったかもしれません。

このように後から振り返ってみた時に出来事を点のように捉えて、そのつながりとして歴史を考えていこうという態度には少し無理があるわけです。むしろ政治・経済・社会・文化など色々な要素が複雑に絡み合い、要素同士がときに集まりときに離れた結果として目に見える出来事が起こると考える方が自然です。

ですが歴史の教科書にごちゃごちゃした様子をそのまま記載するわけには行きませんよね。まとまった知識を伝えるものとして教科書がある以上は整理された内容である必要があります。そのためある程度割り切った記載方法が採られており、整理されているがゆえに素っ気なく見えてしまうわけです。

だからこそ教科書を使う私たちには裏側を想像する余地が残されているのです。この乱が発生した理由は教科書に書かれていることだけだろうか、大飢饉が甚大な被害を及ぼした裏側には気候不順以外の別の理由があるんじゃないか、と考えを巡らせることができます。

そうしたある意味「意地悪な」教科書の読み方は、人文学のスタート地点です。ふとした疑問が教科書の記述に隠された裏の意図を解き明かしていくきっかけになると思いますし、優れた学校の先生であればそうした読み方を推奨しているのではないでしょうか。

自分自身中高でお世話になった日本史の先生がそのような「脱線」を良くする人で、あれよあれよというまに歴史の面白さにハマっていった記憶があります。名前が後世に伝わっている偉人によって動かされてきたものとして歴史を捉えるのではなく、出来事や行為の背後に隠れている「何か」を探り出していく作業として歴史を捉えることが重要です。

淡々と歴史が記述されている教科書の「行間を読む」ことは、そのまま人文学をすることに繋がります。書かれていないことに対して疑問を抱くこと、それを言葉にしてみることから、「教科書の人文学」を始めてみましょう。

4-1-6. その他の教科書を用いた人文学

 もちろん「教科書の人文学」は何も歴史の教科書に限った話ではありません。倫理・政経の教科書はもちろん、国語の教科書、さらには理系科目の教科書でももちろん可能です。

例えば倫理の教科書ではしばしば思想の系譜というものが登場しますね。それは師匠・弟子の関係から生まれるものであったり、先人の思想を批判的に受け継いだものであったり、哲学者によって十人十色です。

ですが思想というものがそんな列車の各駅停車のように一つずつ前に進むかのように発展してきているのかについては疑う余地があると思いませんか。

むしろ、ときに古代ギリシャの思想に戻ったり、突然変異のように新しい思想が生まれたり、全く関係の無い分野からの影響を受けていたりする方が自然です。

では教科書に載せられている思想の系譜が何を目的として作られているのか、そしてもし自分が思想の系譜を作るならばどのようにするのか考えてみると面白いでしょう。

他にも国語の教科書では、少し変わった形で普段読んでいる文章に取り組んでみるのはどうでしょうか。

例えば芥川龍之介の羅生門。知らない人はいないほどの作品ですが、どうしても下人や老婆の心境ばかりが授業でも取り上げられているように思います。

もちろん登場人物が何を考えていたのか、どうしてその行動をとったのかを理解することは非常に重要ですが、文学作品にはそれ以外の向き合い方もあります。

例えばそれぞれのシーンを映像として考えてみるとどこにカメラがあるのか、という点に着目してみるとどうでしょうか。

下人が羅生門の下にたどり着き梯子があることに気がついて登っていく場面があります。そこではカメラは下人を下から、もしくは下人の目線で羅生門の上にある楼と梯子を捉えています。下人が登るにしたがってカメラの高さも次第に上がっていきます。

ですが、楼の中の老婆を眺めているシーンも中盤に入るとカメラはいつのまにか楼の中に入り込んでしまっています。こういったカメラワークはどこかで観たことがありませんか?

そうです、映画のカメラワークです。芥川龍之介が映画に影響を受けていたかどうかまでは分かりませんが、他の文学作品が劇や舞台的なカメラワークであるのに比べて、羅生門のカメラワークは非常に印象的です。

そういったカメラワークにすることによって何を芥川龍之介が狙っていたのか、そのカメラワークはどこで身につけたものなのか。そうした登場人物の心情だけでなく、作品を構成する他の部分に目を配って分析を行う手法はまさに人文学的です。

もちろん文学作品を分析する視点はこれだけではありません。是非皆さんなりの視点で作品に新たな切り口を与えてもらえればと思います。

ここまでの教科書を用いた学校での人文学のやり方をお伝えしてきましたが、あくまでもこれらは具体的なヒントにしか過ぎません。参考にして自分なりの教科書の人文学を試してみてください。

4-1-7. 学校における人文学

 さて続いて、学校の別の場所から人文学をしてみましょう。

突然ですが、みなさんは学校の図書室を普段利用していますか? 私は現役時代は稀に本を借りに行くくらいで、ほとんど足を運んだ覚えがありません。同じように図書室を本を借りる場所として使っている人が多いと思います。

ですが、図書室にはもう一つ大きな役割があります。それが図書室の司書さんによるレファレンスサービスです。

レファレンスサービスとは学生の質問に司書さんが答えてくれるというものです。例えば何か教科書を読んでいて、資料集を眺めていて疑問に思うことがあったときに、もちろん先生に聞くというのも一つ大きな解決手段であることは間違いないのですが、図書室の司書さんに聞いてみるというのも良い方法です。

「ドラマや映画で良くみる峰打ちは実際にあったのだろうか」「日本語と似た文法の言語はあるのだろうか」といったように具体的な質問でも、「フランス革命の流れを詳しく知りたい」のようにざっくりとした要望でも構いません。

質問や要望に対して、回答してくれる他、関連書籍などがある場合は勧めてくれたりもします。

受験勉強で図書室に頻繁に通う暇はないかもしれませんが、気になったなら息抜き程度に寄り道してみるのがオススメです。普段の授業や試験勉強には役に立たなさそうことでも、思わぬところから別の知識と関連して覚える手助けになってくれる他、調査を続けることによって関係する事物の理解に役だったりします。まさに好きこそものの上手なれですね。

ただしレファレンスサービスは学校によって提供していなかったりサービス内容もまちまちだったりするので、事前に自分の学校ではレファレンスサービスがあるのかどうか確認をとっておきましょう。また図書館に足を運んで自ら関連がありそうな本をパラパラとめくってみることも大事な経験となるので、自分で調べることも同時に怠らないようにすると良いかもしれません。

このように大学や研究機関でなくて学校からでも人文学を始めることはできます。基本的には特別な機器を必要とせず、かつ入り口においては高度な知識を必要としない人文学だからこそ可能なことでもあります。

どのような手段を取るにしろ大切なことは、まずは教科書に書いてあることや授業で教えてもらうことを鵜呑みにせず疑問や興味をもつことです。そこからみなさん自身の研究が始められます。


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