中高生からの人文学 その10
5. これからの人文学
5-1. 象牙の塔
5-1-1. 人文学の現状
みなさんは「象牙の塔」という言葉をご存じでしょうか。この社会を離れて現実逃避し、大学や研究機関に閉じこもって研究を行う態度のことを指します。もちろん昨今の情勢下で、本当の意味で外界との接触を持たずに研究に勤しんでいるような研究者はほぼいないといってもいいでしょう。
中高生を対象として大学の授業を体験してもらう公開講座や、研究機関が主催するセミナーなど、そうしたものを積極的に手に入れたい人に対しては「開かれた」態度を取っていると言えます。
しかしながらプログラミングが必修化された他、中高生はおろか小学生に向けて科学のエッセンスを説くような本が多く出版されている一方で、人文学についてはその大枠を提示したものは多くありません。
もちろん日本の歴史シリーズなど漫画を通じて歴史そのものを扱った書籍は数多くあります。他にも日本特有の文化として「新書」という本のジャンルがあり、手頃な分量・値段でしっかりとした研究内容に触れることができます。
またリモートで開催されるセミナーやトークイベントも増えており、本の著者や研究者が顔を出す機会も以前より増え、世界のどこにいても参加が可能となっています。そうした取り組みがありつつも、「人文学」はまだまだ象牙の塔にこもってただ窓から顔を出してこちらに手を振っているというのが、今の人文学をめぐる正しい状況説明かもしれません。
5-1-2. 象牙の塔からの脱出
ですが「人文学」が本当の意味で象牙の塔から脱出するためには、大学や研究機関の研究者の力だけでは足りません。これは彼らにそうした能力がないと決めつけているわけではなく、あくまでも彼らの役割は研究を行うことが第一であって、象牙の塔に籠ってしまった人文学を広く伝えていくのは、また別の人の役割ではないかと思っているということです。
それはつまり人文学を大学の外へと広げていく活動に他なりません。ただし大学や研究機関で人文学を研究している人が発信を行うことと、外の人が人文学を発信することの間には大きな違いがあります。
なぜなら外の人が人文学を広く伝えていくことは、人文学が大学や研究機関の「垣根」という、空想上のものでありながら我々を強く縛っている境界線を越えたことを意味するからです。
繰り返しになりますが、人文学は誰かの手に独占されるようなものではありません。ですが研究者がそういった態度をとり、他の人がその態度を黙認してしまうことによって、本来存在するはずのなかった境目が生まれてしまうのです。
その境目を取り壊すために必要なのが、人文学をジブンごとにする態度です。それは皆さんや私のような非研究者が主体的に人文学を行っていく試みです。この本が人文学をジブンごとにする助けになることを願っています。
もちろん「学問の真髄」などというものがあれば、それは私を含めた非研究者には到底たどりつけないようなものなのかもしれません。ですが何度も言っているように、人文学をジブンごとにするためには、人文学的な態度を身につけさえすれば十分なのです。
全員が研究者になって人文学を志せば、世界は立ち行かなくなります。ある人は研究者に、ある人は公務員に、ある人は企業に、ある人は自由に生きていくからこそ、お互いがお互いの役割を認め合いつつうまく世界はまわっていくのでしょう。この世界で研究者以外にも求められることは「人文学的な態度である」ということが、このテキストを通じてお伝えしてきたことに他なりません。
5-2. ジブンを通じてジンブンを見る
5-2-1. ジブンとジンブン
3章でお話したとおり、人文学のディシプリンは「自分を通じて、人を見る」とまとめることができるでしょう。もし地球外生命体が人について研究したとしても、それはきっと人文学にはなりません。なぜなら他でもない「人」である「ジブン」を通じて「ジンブン」を見るからこそ、その行為が人文学と呼ばれるからです。
そして何より重要なこととして、自分と人文学との関係性はジブンを通してジンブンを見るというような、前者から後者への一方通行ではありません。つまり価値観や考え方が常に変わらない自分という人間がいて、人文学というものを客観的に見続けられるというのとは違います。
むしろ私が重要視したい、そして皆さんに実感・体験してほしいのは、人文学を見つめることで自分が少しずつ変わっていく、人文学側からの反作用にあるわけです。
人によっては信じていた自分が変わっていくことは怖いことだと思うかもしれません。昨日偉そうに言ったけど、今人と話している中で意見が変わってしまった。どんな顔して明日から話せばいいんだろうと怖気付いてしまうあまり、自分の立ち位置を変えられないということはよくあることです。ですが変化前後のどちらが良い悪いということではなく、変化することそのものに意味があると考え、楽しむことが素敵なことではないでしょうか。
5-2-2. 人文学が目指すもの
人文学が研究対象とするのは多くが「過去の遺物」です。巻物に描かれた平安時代の出来事、今は使われなくなった言語、100年以上前に書かれた海外の文学作品、そして千年以上の時を経た大型建造物など、全ては過去も人の手で作り上げられたものです。
ですが取り扱うものが後ろ向きだからといって、人文学が未来において役に立たないわけではありません。むしろ研究を活かそうとする自分が生きていく「今これから」にこそ人文学の眼差しは注がれています。過去の遺物を掘り返して自己満足に浸っているわけではなく、そこから考えられる新しい人の在り方にこそ人文学、そして学問として目指すものがあるということはもう説明不要でしょう。
人文学を含む学問が目指すのは、唯一無二の正解ではありません。歴史について触れた本ではAが起こったのはBが理由だといった、綺麗な因果関係がしばしば登場します。確かに「日本が戦争に負けたのは資源不足が理由だ!」と言われると何となく納得してしまいますが、そのように簡単に答えを与えてくれる、つまり出来合いの知識を教えてくれるようなものこそを人文学では本来は疑うべきなのです。
5-2-3. 我々だからできること
我々は研究者ではないので、問いを立てたり疑問を持ったところで下手するとベターな答えにたどり着くことすらできないかもしれません。ですが研究者ではないからこそ素朴な疑問を思いつくことができます。そして素朴な疑問、当たり前過ぎて見過ごされてきたようなポイントが、世界を大きく動かすような考え方に結びつく可能性が十二分にあります。
そして当然ですが、人文学が扱う「ジンブン」の中には他者も含まれます。つまり自分を通して他者を見る、他者を通して自分を見ることも人文学の仕事の範疇です。たった数十年前までは大きな括りで他者を捉えることがある程度有効だった時代がありました。大学に行くことは優秀さの証でしたし、長男と言えば一家の大黒柱として働いていく必要があったわけです。
ですが、今は人をそのようなラベルで括り出すことが非常に難しい時代に私たちは立たされています。同年代の40%が大学に通うようになり、大学のテーマパーク化が叫ばれています。兄弟姉妹を育てていく経済的なゆとりがなくなっていることで、特に都市部を中心に「長男だから〇〇しなさい」という「おまじない」も通用しなくなっています。
そうした中で求められるのは、安易に他者にレッテルを貼ることではなく、自分と他者との関係性の中で丁寧に言葉を紡いでいくことです。
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