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中高生からの人文学 その3

2.人文学って何だろう

2-1. そもそも学問って何だろう

2-1-1. 科目と学問の違い

 さて、人文学っていったいどんなものなんだろう、ということを説明する前に確認しておかなければならないことがあります。それは「そもそも学問って何だろう」ということです。なぜなら「人文学は学問分野の総称」と述べたように人文学は学問の一部であるため、学問が何かを分かっておくと人文学を理解するのに役に立ちます。

そのためには普段学校で勉強している「科目」と「学問」はどう違うのか、というところから説明を始めるのが良さそうです。自身の中高時代を振り返っても、大学は学問や研究をする場所、という認識はあってもそれ以上ではありませんでしたし、今手元で勉強していることと将来大学で行うことの関係性はイマイチ掴めていませんでした。

例えば今日皆さんが学校で開いていた教科書には色んなことが載っています。昔の日本語がどのような変格活用をするのか、一部の化学物質に火をつけた時どのような色になるのか、1000年以上昔のヨーロッパで何が起こったのか。そういった「当たり前」で「決まったように」書かれているあんなことやこんなことは、全て学問の成果だと考えることができます。

その成果を一定の規則やルールに応じて並べ替えたものがそれぞれの教科書だと言えます。数学で言えば関数も分からないのに微分・積分を学ぶことはできませんし、物理で言えば古典力学を学ばずに電磁気学を理解することは難しいです。そして歴史は昔から今に向かって説明するのが一番分かりやすいことは間違いないでしょう。そうした規則やルールについてはここでは詳しく触れませんが、どうしてそうなっているのかは思っているより奥深い問題かもしれませんよ。

ただここで一つ注意して欲しいのが、教科書に載っている情報は「絶対に変わらない唯一の真実」ではないかもしれない、ということです。もちろん高校生を苦しめる微分・積分の方法が明日急に変わることはありえないと思いますし、鎌倉幕府が成立したという事実もなくなりはしないでしょう(ただし、何をもって「成立」とするかは非常に興味深い問題で、後ほど説明をする「ディシプリン」というものに関わってきます)。ですが、教科書の記述は時間が経つにつれてどんどん変化していきます。両親や10歳ほど年上の人が身近にいれば彼らの使っていた教科書を見せてもらうと分かりやすいと思います。恐らくほとんどの教科書で記述が大きく変わっています。特に歴史系の教科書においては記述の変更は顕著です。

2-1-2. じゃあ学問って?
 だとすると学問は何をするものなのでしょうか。ここまでの話を聞いてみると、どうやら「正解」を追い求めるものではなさそうですよね。教科書の記述が学問の成果を受けて変わっていくことを考えると、学問の成果というものは常に変化するもののようです。そうなんです、学問は「その時々に応じてどうやら確からしいという方向に向かって近づいていくもの」なのです。例えるならば決して頂上が見えない山登り、ということになるでしょうか。「真実」という決して手の届かない山の頂上に向かって、多くの人が手を替え品を替えて進んでいくようなイメージです。つまり10年間にはこっちの方が正しそうだと思われていたけれど、今はまた別の考え方が正しいと思われているといった感じです。

つまり教科書に載っているもの ーここではそれを「科目」と呼びますー は登山者が通ってきた道のうち、多くの人が「まぁどうやらこの道は頂上に向かってるみたいだね」と納得した道がまとめられたものなわけです。でもしばらくすると、「どうやら左の道じゃなくて、右の道の方が正しいらしいよ」とか「さっきの分かれ道に実は隠し道があったらしいよ」とか、挙句の果てには「なんかスタート地点が間違えてたらしいよ」なんてことにもなるわけです。そうするとそうした最新の学問の成果を正しく伝える必要があるよね、ということで教科書の記述が変わったりするわけです。

「科目」と「学問」の関係性はよく料理でも例えられます。「科目」は誰かが作ってくれた料理を食べること、「学問」は自分で新しい料理を作り出すこと。料理を食べるのが好きな人が、必ず料理を作り出せるとは限らないように、学校の科目が得意な人が必ずしも研究に向いているとは限りません。逆に試験で点数を取るのが苦手でも、研究に向いている可能性は十分にあります。論理的に考える力など、科目と学問とで等しく必要となる能力はありますが、この後に話すように学問で求められる能力はもう少し捉えづらいものです。いずれにせよ山登りの例でも料理の例でも共通していることは、真の正解にたどり着くことはない、ということでしょう。学校の試験は点数をつけて採点するという理由から、多くの場合絶対的な正解が存在します。ですが学問において絶対的な正解というものありえないため、よりベターな答えを求め続けることになります。

2-1-3. 学問において重要なこと:新しいか
 さて、人文学においてというよりもむしろそうした学問全般において最も重要なこと・求められる能力は「適切な問いを立てること」「適切な問いを立てる力」に他なりません。といってもこれだけでは何を言ってるか分かりませんね。そもそも適切な問いを立てるとはどういうことでしょうか。何が適切で、何が不適切な問いなのでしょうか。そして問いとはなんでしょうか。先に「問い」についてだけ説明をしておくと、「なぜだろうと疑問に思うこと」と考えてもらって問題ありません。そして疑問(=問い)およびそこから導き出される結果が学問として成立するためには、次に説明する「適切」さが求められるというわけです。

「適切さ」は大きく分けて三つの方向性で捉えられます。「新しいか・正しいか・面白いか」どうかです。

まず「新しいか」についてですが、これは既に提唱されている理論や仮説に対して挑戦する姿勢はもちろんのこと、自分の研究をその上に積み重ねていくような態度が必要だということです。いくら重要な発見だろうと、既に過去の研究者が提唱済で、理論化されているものであれば二度同じことを言っているだけなので学問としては意味がありません。

私が突然「ma=F」の運動方程式を発見した!と言っても研究者はおろかマスコミなど誰もとりあってくれないわけです。これまで誰も解くことができなかった問題を解決したり(数学ではミレニアム問題といって、100万ドルの懸賞金が懸けられている7つの問題があります。他にも最近京都大学の望月教授がABC予想を解決したとして話題になりました。ABC予想はミレニアム問題には含まれていないものの、数学上の難問として名高いです)、不治の病に効く化学成分を発見したりすることは「新しさ」としては分かりやすいと思います。

ですが学問の世界においてそうそうそんな真新しい発見ばかりがあるわけではありません。むしろ99%以上はとてもじみーな作業を繰り返すことになります。ですが、そうした日の目を浴びないような中にも「新しさ」というものは見つけ出されます。誰もが面倒で取り組んでこなかったような大量のデータを集めて分析するようなことや、当たり前だと思われていたことに改めて取り組むことでも「新しさ」は満たされますし、しばしばそうした所から思ってもみなかった結果が出てくることがあるのです。

 学問も昨今では複数の学問分野を跨ぐような研究が多くなってきています。土木の分野では災害の被害に対してどのように保険金の料金を設定するのが適切かを考えるような経済学との協働作業が見られます。他にもミイラの内部についてCTスキャンによって3Dモデルを構築・分析するといったように、考古学はただ掘るだけの学問ではなく、いかに遺物を破壊せずに発掘・保存・修復を行うかの科学技術と切り離せません。ですがいかに他の学問分野と協力しようが、最先端の技術を使おうが、それだけで「新しい」わけではないことには注意が必要です。

2-1-4. 学問において重要なこと:正しいか
 そして「正しいか」については、一見簡単なように見えて難しい問題を孕んでいます。数学では厳密な証明が求められることから一定程度の正しさは確認されそうですが、研究者によって一度正しいとされた研究が、後から間違っていたことが判明することがあるようです。数式で一点の曇りもなく証明されそうな数学ですら正しいかの判断は難しいのですから、物理学や化学や生物学、工学などでは言わずもがなでしょう。計測の限界に基づいた誤差や勘違いなどによって正しさが揺れ動いていくわけです。

では先回りするようですが、人文学における正しさはどのように確認するのでしょうか。例えば歴史学において、どうして戦乱が起こったのかということはしばしば問題にされますし、非常に興味深い問いです。問いの答えを探るために、その戦乱の中心にいた人に「どうして争いを起こしたんですか?」と聞くことはできるのでしょうか。もちろんそんなことができないことは誰でも分かっていただけると思いますし、当たり前じゃないかと鼻で笑う人もいるでしょう。

ですが次の質問はどうでしょうか?「では何かしらの方法でその人物に聞けたとして、その人が理由や原因などを本当に把握しているのか?」。ここが非常に重要なポイントです。例えば私たちは日頃から何か悪いことをしたり失敗したりしたときに、どうしてそんなことが起こったのかを考えますが、理由や原因は自分だけで完結するものなのでしょうか。自分では気がつかなかったことに知らず知らずの内に行動を制限されてしまって、結果として悪いことが起こってしまうという可能性はありえるはずです。遅刻してしまった、花瓶を割ってしまった、テストの成績が悪かった、こういったことの裏には本人には決して気づくことのできなかった理由や原因というものが複雑に絡み合っているわけです。

 他にも正しさの難しさを示す例はたくさんあります。言語学においては、文法をめぐる研究分野が存在します。そうした文法の正しさは誰が保証してくれるのでしょうか。私たちは日本語を話しますが、文法について完璧な知識を持っているわけではありません。下手すると、いや下手しなくとも海外の研究者で日本語の文法を研究している人の方が文法についての知識を持ち合わせているかもしれません。

そうするとこういう人がいるかもしれません、研究者が判断するんだよ!と。ではこれまで分からなかったことを明らかにする学問において、研究者は新しい研究の正しさをどのように判断するのでしょうか、そしてその研究者が正しいと思うことはどのように構築されてきたのでしょうか。何となく堂々巡りになっているような気がしますね。そして世界に言語はごまんとありますが、その中には今は既に話されていない言語だったり、いても本当に少人数だけが使っている言語などもあります。

このように学問、こと人文学における正しさは非常にシビアな問題です。ここで正しさを保証する方法について私自身がこれと言葉にして説明する術を持ち合わせていないので、みなさんに完璧に理解してもらうことは非常に難しいのですが、一つ答えらしいものをあげるとすれば「その当時の研究者が恐らく正しいだろうと結論づけたもの」が正しいとされるのであってそれ以上ではありません。つまり登山の例えでも言ったように、どうやらこっちの方向が正しいらしいと、研究者がその道を踏み固めたことをもって正しい、とするわけです。もちろんそういった「正しさ」であるが故に時間が経つと「ここがおかしいよね」という適切な批判が他の研究者からなされて、より正しそうな方向へと修正されていくこともままあるわけです。

2-1-5. 学問において重要なこと:面白いか
 
そして最後に「面白いか」についてですが、こちらもまた厄介な問題です。ここまで説明した通り「新しく、正しい」理論や仮説を提唱したとしても、最初の言い方をすれば問いを立てて答えを見つけたとしても、そこからさら今後の研究者が上に研究を積み上げていけるようなものでないと学問として評価されるわけではありません。

簡単に言ってしまえば、これまで当然とされてきた考え方を180度ひっくり返すような研究がめちゃくちゃ「面白い」んです。これまで上だと思っていたのが実は下だった、左だと思っていたのが右だった、たったそれだけのことでも、研究においては一大事です。「もうかなり頂上に近づいたかな」なんて思っていたら、急に肩を叩かれて、「いや頂上は逆だよ」って言われたようなものです。それはもうみんな今いる場所から頂上めがけて奮闘するわけで、研究者が考える余地が多ければ多いほど「面白い」研究とされます。

例えばみなさんが学校で学ぶ物理は、一般的に古典物理学というものです。力学・波動・熱力学・電磁気学はいずれも古典物理学に含まれ、身の回りの物理現象を記述する法則たちはおよそ19世紀までに出揃っていました。ですが、観測を続けているとどうやら古典物理学では理解できない現象がいくつか確認されていきました。結論から言えばその現象を理解するための新たな物理学の一つである、量子力学が20世紀のはじめごろに登場しました。その後の量子力学の発展は目覚ましいものがあります。

ここまで聞くと古典物理学は間違っていたのかな、と思う人もいるかもしれませんがそうではありません。あくまでも我々が日常的に観測できる現象においては古典物理学の範囲内で十分精密な理論が打ち立てられていたのです。分子や原子など肉眼では到底捉えられないよりミクロな視点で世界を眺めたり、光に近い速度で物体を動かしたりすると古典物理学の法則に従わない現象が確認されてしまうというだけです。したがって上が下だったからといって、上に登っていた苦労が水泡に帰すわけではありません。立てられる問いや、後ほど説明するディシプリンが変わったということであり、その問いの範疇であればかつて見つけられた答えは正しいのです。

2-1-6. 問いの立て方
こ のように学問は「問いの立て方」という、学校科目においては扱われることのない要素を軸においています。科目では国語などが最も分かりやすいと思いますが、むしろ問いは出題者によって既に立てられているのです。そのため出題者の意図を読みとって解答を作成することが求められます。現代文における「筆者の言いたかったこと」は、すなわち「筆者が言いたかったと、出題者が考えていること」とイコールの関係にあります。

一方学問は出題者が研究者自身です。そのため出題者である研究者がどのように問いを立てるかによって答えが異なってくるため、永遠に絶対的な正解というものは存在し得ないのです。先ほどの物理学の例では「日常生活で観測できる範囲の物理現象はどんな法則に従うのだろうか」という問いを立てれば、ニュートンの運動方程式や電磁気のマクスウェル方程式が、物理学を端的に合わす非常に綺麗な数式として求められます。

一方で「目では絶対に捉えられないミクロの世界や光の速さで運動する物体はどんな法則に従うのだろうか」という問いを立てればシュレディンガー方程式や一般相対性理論などが求められます。これも無理やり学校の科目に当てはめれば、問題を作る人と解く人が同じと考えると分かりやすいでしょうか。ただし、その問題はこれまで誰も取り組んだことのないものだったり、誰も解けなかった問題だったりするわけです。そして新しく・正しく・面白くないといけません。

学問は以上のように説明されます。学校の授業で学ぶこととは大きく違っているので、少し納得するのに時間がかかるかもしれませんが、ゆっくり読み解いてください。さて学問には物理学・経済学・法学のようにさまざまな分野がありますが、〇〇学と▽▽学といったように名称を分けるものは一体なんでしょうか。その正体について次節で詳しくお話したいと思います。


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