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男の最高の栄誉とは死して神になること

「いのちだいじに」と言われ続け、男性の平均寿命は81歳にまで伸びた。

医療や技術の進歩の御蔭で人間の体の構造が分かり、どれを行えば死なずに済むかというリスク回避の術までみんなに知れ渡るようになったと思える。

しかし、そこまで来てしまったからこそ超高齢化社会へと我が国は突入するのである。

人口比もピラミッド型から一輪の花を差す花瓶みたいな形になってしまっている。

人は生まれてから天寿を全うすることは出来ないので近代までの人口比は低い山の形をしていたのは当然だった。

それもあってか老人と言うのは知識の宝庫であり人類の宝でもあったのだ。

敬老とはそういうことを指していた。

先述のように誰しもがリスク回避によって長く生きられるようになり、誰しもが事故や急病や事件や災害に巻き込まれない限り還暦を迎えられるようになった。

昭和の頃の平均寿命は60歳くらいだったが、平成に入り70歳を超え、末期や令和になれば80歳を超えるようになった。

余りにも長生きする人が増えてしまったので、政治の世界では声が届くようになってしまったのである。

国政でもいいが地方選挙や首長選を見ても殆どの公約が「人生やわらかくておいしいもの」ばかりである。

因みにこの人生やわらかくておいしいものとはちびまる子ちゃんでまる子の希望する晩御飯のメニューは応えて貰えずに祖父の友蔵が「人生固くてまずいもの?」と嘆いたところに母親が希望に応えたと言うことに因む。

それだけ老人パワーというかシルバー民主主義の力は絶大なのである。

既に1960年代から少子高齢化は叫ばれ続け、70年代半ばを舞台としていたちびまる子ちゃんですらこれだった。

まる子の家のさくら家は親と祖父母の二世帯の暮らしだが、孫世代となるとまる子と姉の二人しかいないのである。

都市化が広がり核家族化も進んだので祖父母が孫の面倒を見るというモデルケースはなくなり、子育ての負担からか4人だとか5人だとかも生まれなくなってきたのである。

当然良い暮らしをしたい人々は都市を目指すので、田舎での担い手を欠き過疎化が益々進む他なかった。

ある種少子化は皆が思いも付かない秘めた設計通りに進んだとも言える。

一人っ子となれば男子しか生まれない場合そこで終わる。

そうやって男子が余ってゆく。

一人っ子の場合だと中国の例を挙げれば大体甘やかされて育つこともあるので、現実に対応しきれない子供が育ってしまうこともある。

男子も女子もほぼ同数となればよいが、中国は男尊女卑が根深く男が2000万人以上余っているという。

(この場合一人っ子に限らずとも)甘やかされて育った子供は生きる力を身に着けられずに人生の漣ですら挫折してしまうこともある。

となれば、ずっと独りで暮らしていくことになる。

独りではないが親と暮らすので山田昌弘の言葉を借りれば「パラサイトシングル」になるのである。

複合的な要因で現在の結果とも言えるが、一つ解決したらオールオッケーではない。

今まで独身中高年男性については以下に述べたのでそれを参照されたし。

このシリーズも長くなったな。

暫くこれは続きそうだ。

中国のような極端な男尊女卑の社会でなければ偏った人口比にはならない筈である。

しかし、男が基本的に稼いでいく社会が理想とされてしまっているので妻子を養えない男は最早男ではないのである。

これは真理である。

男女平等などは嘘であり、実現していれば極端な話ヒモでさえも結婚して子供を育てられる。

言い方変えれば「主夫」だろう。

しかしそんな家庭があるとすればごく少数である(2019年の調べでは0.89%)。

誰も本音では男女平等を望んでいない。

これが現実なのである。

育休取得を目指してもどうせ現在の既婚家庭でしか通用しない。

妻または母親たちの負担を減らすことで子育てをし易くさせ、更に子供を産み育てるきっかけを作らせるのが政府としての方針なのだろうと察しが付く。

さて、その分の経済的負担は誰が負う?

と、既に上記で答えは出しているのだが独身者である。

今まで保育所の充実などを模索してきたが、それでも少子化には歯止めが掛からなかった。

結局独身者に結婚させずにずっと働いて貰って税負担を押し付けて使い捨てる方針を政府は取ることにしたのである。

明らかな“ジャンプ台”の役目を負わされるのだが、こういった人達に対して政府はどのような説明をするのだろうと思う。

何も説明しなければ知らぬ間に独身者は縊り殺されるだけである。

この絡繰りに独身者が気付けば行動に移すだろう。

生きさせろと言うだろう。

政府としては財政をケチる訳にはいかなくなったので、本気の本気を出して子育てに全力を注ぎ込んでいる感じにも見える。

就職氷河期世代は後回しどころか、この問題は終わっているので後回しにすらならない。

つまり、「死ぬしかない」のである。

人生は誰しもが希望に満ちた終わり方をしないので計画など立てられる筈もないのは承知だが、支配者がある種の計画に基づいて意図的に人の人生を操作できてしまうとなればどうなるか。

意図的な分断を食らい、押し込められて選択肢すら失わせられてしまうような人生を歩まされるのなら、必死に抵抗すべきだろう。

どれだけその抵抗の意思を示せるのか。

表現規制が及んだ時もオタク達は必死に抗い山田太郎を国会に送り込んだ。

それで政府権力者は露骨な表現規制を行うことをしなくなったのである。

権力者としてはオタクを規制して人口増加のブーストの役目を負わせるつもりだったのだろうが、抵抗されてしまったものだからこの志向も失敗してしまった。

その次にAV観る男にオタクと同じようなブーストを掛けさせる起爆剤の役割を負わせようとしたが、そもそもAV自体が斜陽で利用者も黄昏に入っているのでこれも失敗に終わってしまった。恐らくAVを観るのは性欲の余りある若者だと思い込んでいたのではないのか。それは全く逆で実際は孤独で貧しい中高年男がメインユーザーなのである。

恐らく政府、いや権力者としては国内の切り離すためのロケットのブーストの2本は失敗に終わってしまったので残りの使うべき一つが最後のチャンスなのではなかろうか。

その最後の一本は就職氷河期世代である。

これに失敗したら次は移民である。

失敗とは文字通り就職氷河期世代が政府権力者の意図に沿ってくれないと言うことである。

失敗のパターンを考えれば無敵の人になって周りに危害を加えてしまうところまで行くことにある。

権力者の念入りの狙いに沿ってくれればターゲットにされた人々は堪ったものではないだろうが、どのような説得力を持たすか。

社会福祉も望めないのならば栄誉や名誉を与える他ない。

就職氷河期世代に国民栄誉賞でも与えるつもりだろうか。

そんな空っぽなものを与えてどうする。

今の世の中は現物を与えることでしか対価と言うものは存在しない。

生きている時に現物となった場合はあの世があることを想定しないことである。

しかし、よく考えてみればその現物とて一種の信仰から生まれたものなので、その信仰でさえも限界が来てしまったら他の代替物を与えるしかないのである。

あの世が存在した理由を考えてみれば、生きている人達が死せる人に対して申し訳ない気持ちが芽生えて生み出されたものなのではないかと思う。

死んだらお金は持って行けないので結局死んだ人の最大の栄誉として“神”として祀る他なかったのではなかろうか。

正直褒め称えることさえも後ろめたさから来ているのではないかと思う。

人が歴史を刻む前に、文字を覚える前に神話が存在していた。

人類の最初の死者が神様になっていたりするのも結局生きている人達が最初の死者に対して思いを馳せたかったのではないかと思う。

こういう神様がいたのだとずっと後世に伝えて来たのが人類だと思う。

狩りに出る時に襲われて死んでしまった人を称えるために神様になったり、洪水で生き残った人が死者を埋葬することで死者を司る人となりあの世の裁定者となったりとしていたのではなかろうか。

生き残った人が死んでいった人のことを忘れないで記憶に留めておくことが神様の始まりだったのではないかと思う。

就職氷河期世代を靖國神社の英霊として祀れと考えたが、戦死者を英霊とする考え方は古い時代からの継承なのではと考える。

命を燃やして守るべきものを守ったのだから。

就職氷河期世代も生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされるかも知れない。

もしも最終的な結末が死ぬことしか選べなかったとすれば、その人を神様として推挙すればよいのだ。

恐らくではあるが生きている時は昼行灯だろうが、死ぬことで神様として祀られることを過去ずっと行われて来たことなのだろう。

生きていた者の意思を信じているから魂の存在を信じ、お墓が建てられる。

お墓がなくても石碑が建てられたことも記憶に留めておくためのものである。

しかし今の世の中はこうした無縁者を称えることはないので誰かが記憶しておく必要があるだろう。

彼らは、日本の未来のために礎となり神となったのであると。

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