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曙ほど格闘技に貢献した人はいない

曙が四月に心不全で亡くなっていたことが分かった。

具体的にいつ亡くなったのかは分からない。

9年前のRIZINに出たあと暫くしてから病いに倒れたという。

実はこの間に全日本プロレスから独立して「王道」という団体を立ち上げていたのである。

しかしそれからというものの、足に出来た傷から雑菌が入ってその毒が頭にまで回ってしまったようで、それからほぼ寝たきりになり記憶障害も併発していたようである。

七年間にも及ぶ闘病生活だったが54歳の生涯を閉じるのであった。

曙の経歴や功績は改めて言うまでもないだろう。

ハワイ勢と呼ばれた力士がやって来たのも30年以上前である。

体がデカければそれだけで強かった時代なので昭和後期から平成初期くらいまでハワイ勢は多く集った。

ただ、途中からモンゴル勢やヨーロッパ勢に押される形でハワイ勢というのは消え失せてしまった。

ハワイアン達が偶にスカウトしに行くらしいのだが土俵に上がる前にタトゥーを入れたりしていて中々獲得も難しくなっているという(偶にいることはいるが平幕にすら上がって来れない)。

ただ単にデカければ良かったのは平成初期までである。

日本人も体がでっかくなり、2メートル級の力士も珍しくなくなった。

モンゴル勢であっても体のデカい逸ノ城や北青鵬(これは不祥事だが)、大露羅はもはや土俵にいない。

ヨーロッパ勢(西アジア)の黒海や臥牙丸も巨漢であったが三役にすらならなかった。

把瑠都や琴欧洲は大関まで辿り着いたが横綱にはなれなかった(そんな把瑠都も格闘技に転身したのち故国エストニアの国会議員になっていた)。

曙は時代に恵まれてもいたが、同時に時代にも疎まれた。

帰化してまで角界に貢献するはずだったが…年寄株が取得出来ず結局土俵を去ることとなり遂に格闘技デビューすることになるのであった。

数億のオファーで曙をK-1に招き入れて大晦日のボブ・サップとの対戦を実現させたのだが、視聴率は一時期だけでも紅白歌合戦を上回ることになったのである。

それからと言うものの、曙をK-1に上げるが勝つことは出来ずにプッチンプリンと言われ人々から侮蔑と嘲笑を浴びることとなってしまった。

角田信朗との試合には勝つことが出来たが、以降曙は格闘技のリングには上がらずプロレスの方へ行くこととなった。

幸いにも曙は愛嬌も良く持ち前の体力もあったのでプロレスでは人気を得ることが出来、各団体では引っ張り凧となり遂にはプロレスでのタイトルを獲得することに至るのである。

しかし、団体にいても前述のように個人団体を立ち上げたりもしているので結局曙は権威の要らない人なんだと思うことがある。

K-1では負け続けていてもプロレスでの活躍の方が目立っていたので評価自体は下がることはなかった。

ただそれはプロレスの中だけではあるが…。

相撲の時代の曙、K-1時代の曙、プロレス時代の曙と各々の曙の顔はあるがK-1まで知っていてもプロレスの曙を知らなかったりすることもある。

プロレスが地上波で放送することがなく、新日本プロレスでさえも深夜放送だったりしていたので中々知ることが出来ない。

タイトルを獲得したのは全日本プロレスのものだったが、ハッスルやゼロワン(奉納プロレス)やDDTなど色んなところにも出ていたので色んな選手からの哀悼の意が多く散見されるのであった。

果たして、相撲を去ったから不幸だったのだろうか。

曙の持ち前の力量で引き寄せたからこそ、みんなから愛されていたのである。

負けると分かっていても曙の試合を観たいと思うからみんなが足を運ぶ。

54歳の生涯だったがその間は濃密であった筈だろう。

合掌。

多分来週辺り週刊プロレスで追悼特集を組むだろう。分かってはいるが。

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