2021年の春

 今年も桜が咲いて散っていった。今年の春は暖かくなるのが早く、咲くのも早かったが、大分長く残っていた印象だ。
 当然のように人々は桜を楽しんだ。新型コロナウィルス感染対策のため、人との接触、密集を避けなければならない、と言われる中で、人々は各々の「まあこれぐらいならいいだろう」という範囲で、それを逸脱した。「宴会中止」の看板が立てられる中で、花の下にブルーシートを敷く輩はいなかったが、ある人々はその他大勢が近くにいるのも気にせず花の下をゆっくりと歩いていき、またある人々は花の下で缶チューハイを片手にマスクを外して談笑していた。そしてテレビはその様子を放映した。感染しないよう、感染させないよう外出を控えて家にいる人々に向かって。
 新型コロナウィルスの感染対策で人々に行動制限がかかりだしてから、1年を迎えようとしていた。テレビの中でマイクを向けられた人は「もう我慢ができない」と語った。「自分も出ているから人のこと言えないけど…」と、言った。昨年のゴールデンウィークにまばらだった渋谷のスクランブル交差点に人が戻り出していた。
 結局のところ、新型コロナウィルスによる人々の行動変容は、一時的な「その場しのぎ」であった、ということだ。いつかこの生活に終わりが来る、だからそれまで一時的な工夫でしのいでいこう。その“一時”は人々の想定を超え、しのぐことができなくなった。人々は出来立ての料理に舌鼓を打ちながら顔を合わせて談笑したいし、酒を飲みながら人前で自分を曝け出したいし、そのためにマスクは邪魔なのである。その人々の欲望と折り合いをつけるだけの社会の仕組みは発明されなかった。その結果がコントロールの効かなくなった群衆であって、人々の「想い」だけで、協力だけで「その場しのぎ」以上の感染対策などできるはずがない。もちろん、それを自覚した統制者が効果的な「一時しのぎ」を折よく行うことで、人々はもう少し、お互いを信じて自制できたかもしれないが。
 ワクチンがゲームチェンジャーとして期待されたが、人々が本当に求めていたのは、人類の行動によって新型コロナウィルスに打ち勝つことであって、もちろんそれは人類の叡智の結集である有効なワクチンが開発されることも含まれるが、人々が納得して自分自身の行動を替え、問題を一刀両断できるような、新しい社会の仕組みの発明であったのではないか。それは、求められているからといって、ついぞ現れてはくれなかったが。
 ワクチンの摂取が医療従事者に向けて終わり、高齢者の受付がはじまっていた。相変わらず新型コロナウィルスは猛威を奮っており、大阪を中心に第4波が来ているそうだ。まん延防止等重点措置が出されているが、感染力の強い変異種によって感染者はまた増え出している。
 そんな中、延期された東京オリンピックの聖火リレーも始まっている。
 オリンピックもしたい、経済も回したい。しかし、感染者が増加し医療崩壊が起きれば、そんな希望すら語れない。
 いやしかし、一体どうして諦められることができるだろう、1年にたった2週間もない美しく咲いた桜の姿を見ずに自分の気持ちを収めることなど。人間の変わることのない欲望を収める仕組みがあるなら、今の社会の問題の多くが解決されることだろう。

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