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文字変換暴走ノートパソコン 前編

あらすじ
全部品純国産ノートパソコンが発売されました。入手が困難になるくらい人気ででしたが、入力された文字の変換が暴走するという不具合が発生します。ノートパソコンの製造会社は、原因究明に注力しますが、不具合の再現性が乏しく困難を極めます。そうこうするうちに、文字変換暴走によって幸せになる人が現れます。ある女性は、デタラメにキーボードを叩くとストーリーが紡がれることを発見して、小説家デビューを果たします。ある男性は、文字変換爆走によって、生涯の伴侶を得ます。一体、この不具合の原因はなんなのでしょうか。事態は混迷していきます。


フリーランスWEBライター カワグチ ナツ

 「パソコンが変・・・」
はじめてそう思ったのは、2日前だった。文字入力の変換機能がおかしいのだ。
たとえば、「きんむじかんたんしゅくのために」と入力すると、「温かい紅茶で」と変換される。
スーパーマーケットで「ママの買いたいの、これでしょ」と、密かに愛飲している高級紅茶を指さす、一年生になったばかりの息子の得意顔を思い出し、口元が緩む。気が利いているが、これでは仕事にならない。

文書作成ソフトの再インストール。言語変換機能の初期化。ウィルスバスター。メモリの空き容量を大幅に増やしたり、思い切ってパソコン自体を出荷時の状態に戻してもみた。バックアップに気が遠くなるような長い時間がかかっただけで、効果は無し。考えられるあらゆる手を尽くしたがお手上げだ。

(フリーランスのライターの最も大切な商売道具なのに!いや、道具というよりは、もはや相棒!締め切り原稿2本も抱えているのに・・・コールセンターに頼るしかないかな・・・)

 そんなことを考えながら、ノートパソコンの縁をそっと撫でる。「純国産」をうたったこのノートパソコンは、発売当初大きな反響を呼んだ。木肌をプラスティックでコーティングした高級感あふれるデザイン。部品も含めて全て「国産」であるうえに、大容量メモリ高速処理と軽量を叶えた夢のようなノートパソコンだ。
あの頃、息子が幼稚園バスに乗ってニコニコして手を振るのを見送り、仕事を再開しようかとぐずぐず迷っていた。背中を押してくれたのは、「純国産」という宣伝文句だ。それを見て、才能という私の資産がどこまで通用するのか試したくなった。自分のサイズで始めればいいのだ。価格も夢のように高かったが、思い切ってこのノートパソコンを手に入れた。
ちょうど、一年前の桜の季節だった。製造・販売している「さくらんぼカンパニー」という会社名も気に入った。きっと、自分の才能は身を結ぶ。そんなふうに応援されているように思えた。

(おいっ、相棒!どうしちゃったのよう!原稿を仕上げなくちゃ!おぉーい、しっかりしろぉ)

そして、今朝、何を入力しても「古龍」としか変換されなくなった。
(『古龍』ってなんなんだよっ!はい、はい、検索してみますよ、検索すればいいんでしょ・・・なになに、ポケモンのキャラクター・・・うーん。おっ、他にもある。香港出身台湾の作家、大酒飲みか・・・豪快な作家なんだな・・・古龍。古い龍と書いて、クルンと読むんだ)

そのとき、頭の上でピカンと電球が灯った!ような気がした。

(そうだった!新人小説家の登竜門のコンテスト!今月末が応募締め切りだった。ライターの仕事が忙しくなって、去年は断念したんだった。今年こそ応募しようとお正月に誓ったのに。あー、どうしよう)

いや、本当は気になっていたけれど、心の隅に押しやって「日常生活の忙しさ」で蓋をして、思い出さないようにしていた。

(だって、小説家なんてそうそうなれるもんじゃないし!だけど、眠っていた「古い龍」を起こしてしまったのかもしれない!あぁ、検索なんてしなきゃよかった・・・)

なんとも、落ち着かない。書きかけの小説をおそるおそる開いてみた。途中で行き詰まったまま、時が止まっている。目をつぶって呼吸を整える。ゆっくり十数えた。

(だめだ。何も思いつかない。)

 このとき、カワグチ ナツは、普段、絶対にしないことをした。子どもの遊びのようにカチャカチャと、指を動かしキーボードをでたらめに叩いたのだ。まるで「もう書きたいことが次から次にあふれてきて、打ち込むのが間に合わない」というように、打ちまくった。なぜそんなことをしようと思ったのかわからない。どうせ、文字変換はうまくできないのだ。あるいは、「古い龍」のなせる技か。

しばらくして、カワグチナツは目を見張ることになる。ディスプレイに物語が書き上げられている。適当にキーボードを叩いているだけなのに、勝手に変換されて、きちんとした文章になっている。ディスプレイの物語を追いながら、夢中で手を動かし続けた。

(「古龍」とかいう作家の魂が乗り移ったのか?あるいは、ストーリーメイキングに長けたAIでも内蔵されていたのか?)

カワグチ ナツは、混乱しながら物語の渦の中に引き戻された。

お客さま対応センター(アルバイト) イシダ タケル

 カワグチ ナツが、壊れたようで、実は不思議な変換機能を持ったノートパソコンを利用して小説を一編仕上げた一週間後、イシダ タケルは、純国産ノートパソコンを製造、販売している、さくらんぼカンパニーのコールセンターでお客さま対応に追われていた。
 暇なわりに高時給。最高のバイトのはずだった。が、ここ二、三日、電話が鳴り止まない。チャット相談の依頼もひっきりなしだ。大規模な不具合が起きているらしい。イシダ タケルは、ため息をつく暇も、ミネラルウォーターで喉を湿らす暇もなく、
「申し訳ありません。すぐに原因を究明し折り返します」
を繰り返した。合間に手首を回し、首を回す。コキコキ音がする。

 どうやら、お客さまの苦情は、共通している。

「文字入力の変換機能がおかしい」
「正しく変換されない」
「キーボードがおかしい」
「入力した文字が反映されない」
「まったく違った言葉に変換されてしまう」

きっと、キーボードか文字変換ソフトウェアのバグだろう。クレームはまとめられて、開発部に送られているはずだ。

 五時間の残業からやっと解放されて、コールセンターの玄関で大きく伸びをしたら、まん丸の月と目が合った。
(いくら春休みだって、残業長すぎ。社会人になったら、こんな日々なのかな。さくらんぼカンパニーで働きたいなと思ってたけど、微妙かも。まぁ、どうせ、一週間も経てば、また穏やかな日がやってくるよな⁉︎)
月は何も言わない。
(無視かよ・・・)
声を出すのは、もううんざりだった。心の中でつぶやいた。

 イシダ タケルの予想と期待に反して、事態は悪い方向に進んでいった。収束するどころか、不具合は拡大していった。ネットやテレビのワイドショーで、「純国産ノートパソコンの文字変換爆走問題」と正式名称がつけられ、騒がれた。プログラマーの過失、AIの暴走、陰謀論、太陽フレアの影響、宇宙人のしわざ・・・あらゆる専門家が声高に持論をぶちまけていた。損失額はかなり大きいと噂されている。謝罪会見が何度も行われ、社長のナガセ カイトは何度も頭を下げた。

 さくらんぼカンパニーの社員はそれぞれ、不具合品回収と交換、原因の解明、お客さま対応に追われて疲弊しきっていった。急になぜそんな障害が発生するのか、全く原因がわからなかった。出口の見えないトンネルの中にいた。イシダ タケルもトンネルの中でアルバイトに励んだ。

そんな中、明るいニュースが飛び込んできた。始まりは、
 #文字変換爆走ノートパソコン
 #幸せユーザー
がつけられたSNS投稿だった。たちまち「いいね!」が集まり、話題を呼んだ。「文字変換爆走ノートパソコンの被害者たち」を取材したテレビのドキュメンタリー番組が放送されたのも自然な流れだった。この頃から、変換暴走の被害者たちは、「幸せユーザー」と呼ばれることになる。

テレビのドキュメンタリー番組
「文字変換爆走ノートパソコン
#幸せユーザーケース1

 ドキュメンタリー番組のオープニングは、大映しされたキーボードだ。美しい指が軽快にキーボードを叩く。ディスプレイに画面が切り替わり、一文字ずつ文字が現れる。
「#幸せユーザーケース1」
場面が変わる。黄色のヘルメットをつけた小柄な女性が、差し出されたマイクに答えている。

 「私の場合は、何を入力しても『ドゥクブロラビラツァ』と変換されるんです。『ドゥクブロラビラツァ』って何だろう?って、まず思いました。それで、検索してみたんです。なんと、中世からの建造物が残る観光都市でした!知られていないのが、不思議なくらい、美しい街並みなんです。
 メインストリートの石畳を見て、ハッとしました!『これだ!』って!こう斜めに長方形の石を組み合わせてあるんです。あっ、あの、私、公園の設計をしています。地方活性化事業の一環で、『特徴のある街づくり』をテーマにした公園のデザインを任されていたのです。市民の皆さんも観光客も、楽しめる公園について、いい提案ができずに行き詰まっていました。ところが、ドゥクブロラビラツァの石畳にヒントをもらって、地元特産の石を美しく配置した設計図を提案したら、満場一致で賛成していただけたんです。美しいのはもちろん、どこか日本の伝統芸術に通じるような懐かしさもあり、何よりも安全なんです。石の角を落として丸くして、石と石の継ぎ目の隙間をなるべく小さくして、段差をなくしています。車椅子の走行にも支障がありませんし、小さなお子さんが自転車に乗る練習をしても大丈夫なんです!
 実は、私、設計の仕事向いていないかなって悩んでいたんですが、プロジェクトは大成功でした!変換爆走パソコンのおかげです!」

 悩んでいたとは思えないほどイキイキと話す女性の背景には、大きな長方形の石を吊り上げるクレーン車が映り込んでいる。

#幸せユーザー ケース2

 再び、キーボードが画面に映し出され、そのあとにパソコンのディスプレイに、
「#幸せユーザー ケース2」
の文字が浮かび上がった。

「ハイっ、彼女と会えたのは、文字変換爆走パソコンのおかげです。」マイクを向けられた男性は、照れを隠そうとしているように見受けられるのだが、全く隠しきれていない。

「え?あぁ、僕の変換ワードですか?『ラテ・アート』なんです。何を入力しても『ラテ・アート』って変換されるんで、そういえば、最近、近所に専門店ができたことを思い出したんです。ぼくは、ウェブデザインをなりわいにしていまして。ほとんど自宅にこもって仕事しています。気分転換にちょうどいいと思ったんです。それで、お店にいたのが彼女だったのです。彼女、ラテ・アート職人なんです」
男性がチラッと横に目をやり、笑みがこぼれる。目線の先には、赤いエプロンの女性。まぶしそうに男性を見上げる。瞳と瞳がぶつかる。

マイクを持つアナウンサーが先を促す。

「あぁ、すいません。彼女に『絵柄はどうなさいますか?』って聞かれて、ぼくはドギマギしちゃって。『い、いるかってできます?』って聞いたら、彼女、僕の顔をマジマジと見るんです。それから、ぷっと吹き出して、笑いが止まらなくなっちゃって。何が何だかよくわからないまま、ぼくは、もう一目惚れですよ!あとで聞いたら、彼女のパソコンは、何を入力しても『い、いるか』って変換されるそうなんですよ。いやぁ、ほんとびっくりです。ぼくが興奮するとどもり気味になることが、彼女のノートパソコンにバレてるってことなんですかね?不思議なんですよね。お互いに初めて会った気がしなくて!」

イルカをモチーフにした結婚指輪を、画面に向かって見せてくれている。
お似合いのカップルだ。

#幸せユーザーケース3

 ドキュメンタリーは続く。
「#幸せユーザー ケース3 新鋭人気作家 カワグチ ナツ」

「『古い龍?なんじゃ!それ~』って思いましたっ!」
彗星のごとく現れた新人作家は、目が覚めるようなブルーのワンピース姿だ。芝居がかったしゃべり方で、周りを笑わせている。

「なにしろ変換ワードが次々にヒントをくれるわけなんです。手を動かすのが忙しくって。腱鞘炎ですよ。あっ、すみません。私、次の予定がありますので・・・失礼します」

みょうに慌てて、彼女は消えてしまった。

 ドキュメンタリー番組の最後には、全部品国産が売りのさくらんぼカンパニー製ノートパソコンには、「神」が宿っているという話題について、スタジオで、神道や古事記の専門家が議論するという構成だった。販売を中止しているノートパソコンが、ネット上で高額で出回っているという情報もあるそうだ。

さくらんぼカンパニー研究開発部部門長 
ヤナギサワ トモヤ

 不具合発生から、四ヶ月が経とうしていた。原因の究明に時間がかかり過ぎている。研究開発部の小さなビル全体に、黒い雲が重く立ち込めていた。「幸せユーザー」たちの出現によって一瞬射した光も、疲れ果てた社員たちのなぐさめにならなかった。

 他社製のパソコン、自社製のデスクトップで検証したところ、文字変換のソフトウェアには全く異常がないことが確認された。ソフトウェア開発部のメンバーは心底ホッとした。ファームウェアも異常なし!だった。

 疑惑をはらんだ黒い雲は、最近は、ここハードウェア開発部のフロアに集まってきている。基盤、電子回路、部品の検証は、問題発生当初から行われていたが、部品の数が多いだけに時間がかかっていた。

 さくらんぼカンパニーの創業メンバーであり、研究開発部門部門長、兼、材料部レアメタル担当部長のヤナギサワ トモヤは、「文字変換爆走」の第一報を聞いたときから、いやぁな予感がしていた。ヤナギサワは、パソコンのハードディスクのモーターを強力に動かすための磁性材料、レアメタルと呼ばれる希少金属を含む鉱物の調達を担当している。

 レアメタルをめぐって世界各地で紛争騒ぎも起きている。国内で調達できるとなれば画期的だ。学生時代からの友人でもあり、気概にあふれた社長のナガセ カイトが、全部品国産ノートパソコンを創ろうと言ったとき、
「レアメタルも国産で?」
と聞き返した。人懐っこい、いつもの笑顔を浮かべながら、ナガセ カイトはうなづいた。
「もし、実現したら、すごい。磁力を持つレアメタルを国内で探す、それも仕事として!なんてロマンがあるのだろう!」
子ども時代、きれいな石集めを競い、近所の仲間たちと山や川を駆け回った身としては、胸がときめかないはずはない。
「だろ!」
と、明るい顔で言うナガセ カイトに、ヤナギサワ トモヤは、迷うことなく言った。
「やる。ナガセ、一緒に純国産ノートパソコンを作ろう」

 それからは、採取と会社の研究室に戻り実験という日々。充実していた。五年かかった。そして、ついに、これだというものに出会った。ある霊験あらたかな有名な古いお寺の裏山から、採掘できることになった。もちろん、合法的にだ。
明確なビジョンを掲げた、ナガセとヤナギサワの二人の創業者のもとに集まった、さくらんぼカンパニーの社員もまた志が高かった。イメージできるものは、必ず創り出せると信じていた。みんなの力の結晶で、製品化、販売にまでこぎつけることができた。「全部品国産ノートパソコン」が完成したときの感動は今でも忘れることができない。

 ありがたいことに、国産レアメタルは安定供給が叶っていた。
(それなのに、こんなことになるなんて・・・)
ヤナギサワは、理系の畑が長い割に、毎朝夕、仏壇の前で手を合わせるおばあちゃんの後ろ姿を見て育ったせいか人智を超えた偉大な力を信じていた。
(神様の力が宿ったとてつもなく力を秘めたものをパソコンに搭載してしまったのではないか? いや、バチが当たったのではないか?)
目をつぶっていても場所がわかる自販機のブラックホットコーヒーのボタンを押して、不吉な考えを追い払った。

 不具合がでたお客さまのパソコンのロットナンバーからある程度疑わしいものが機種が絞られた。念のため、これまで出荷したすべての機種で試したが、不具合が出たのは、ある期間に出荷されたものだけだった。さらに、ソフトウェア、ファームウェア系に問題はないことが証明された。

残るは、ハードウェア。ヤナギサワトモヤが所属する小さなビルの電気は消えることがなった。そして、こともあろうに、ヤナギサワトモヤの悪い予感が当たり、剣城山寺のレアメタルを使ったものが特定されたのだ。しかし、すべて悪かったわけではない。一部のものに限られていた。その夜は、ようやくビルの電気が消えた。

けれども、何がどう障害を引き起こしていのかがわからない。あるものは、全くの異常なし。あるものは、異常が出る。

これ以上不具合の特定に時間をかけるのは、無駄ではないかという議論になった。けれども、このレアメタルを諦めてしまうということは、「純国産」を謳うことができなくなるということだ。
代わりのものを探すことはできないのか?
ヤナギサワ トモヤは、口元をきっと結んだまま。首を横に振った。

 さくらんぼカンパニーは、志が高い集団であった。
よし、もう一度考えてみよう。
そんな声が上がり、再び、社屋の灯りが遅くまでつくようになった。研究開発部門は出社時間が自由だったので、こんなことになった。

そんな中で、研究員のタナカショウゴとチュウジョウモモの二人が注目を浴びた。
彼らが、試験をすると、結構な頻度で文字変換暴走が起きるのだ。二人は出ずっぱりになった。100%の誤変換を目指して、頑張ることになった。

 議論が重ねられた。
問題はレアメタルだけではないのだ。では、人か?
レアメタルと人の掛け合わせではないか。
もし、そうだとして、どんな条件なんだろう?
それがわからなければ、商品として売り出すわけにはいかない。『タナカのような男性とチュウジョウのような女性は、不具合が生じる可能性がありますので、お買い求めはお控えください』って但し書きするわけにもいかんだろう。
うーん。
人のどんな要素が、文字変換の不具合に結びつくのか?
科学的な説明をしてもらおうじゃないか?
説明したいのはヤマヤマですが、本人たちにもわからない。現に、このロットのレアメタルを使ったすべてのものに障害が出ているわけではないんです。
うーん。
研究開発部のビルの一階に設置された自販機は、売り切れを示す赤いランプがいくつもついた。

脳科学者タカジョウ ホクト

 さくらんぼカンパニー研究開発部門の研究員たちが、うーんと唸っている頃、脳科学者タカジョウ ホクトは、学生が帰って静まり返った研究室のソファに腰を下ろし、インスタントコーヒーを飲んでいた。

 タカジョウの研究の原点は、愛犬ホープだ。ものごころついてから、雑種のオス犬ホープと一緒だった。ホープの横に寝そべりながら、少年少女向け科学雑誌を読むのが何よりも幸せだった。放課後、サッカーに誘われ、ランドセルを玄関に置いたその足で出かけようとすると、ホープは決まって恨めしそうな目で、ホクト少年を見上げた。そんなとき、ホクト少年は、自分のおでこをホープのおでこにそっと寄せて、心の中で言うのだ。
「ホープ、ごめん。五時まで待ってて!今日のさんぽは長いコースにしよう!」
ホープは、わかったというように欠伸をして、ゴロンと横になる。ホクト少年は、人間と犬とは、おでことおでこをくっつけると会話できるのだと信じていた。

 老衰でもう目が開けられないホープのおでこに、涙でびしょびしょになった顔を寄せ、「ホープ、ホープ」と呼び続けたとき、少年はホープの心の声を聞いた。確かに聞いた。
「ホクト・・・」
と、自分の名前を呼ぶホープの声を聞いた。少年は自分の心が暖かいもので充されるのを感じた。同時に、自分がホープと呼ぶたびに、ホープの心にも暖かい何かがあふれることがわかったのだった。

 タカジョウの専門は、神経細胞の情報伝達機構の解明だ。
撫でられた犬と撫でている人間の両方で、幸せホルモン、オキシトシンの分泌が高くなるという研究は有名だ。だが、タカジョウが目指すのは、肉体の物理的な接触以外で、受け渡される何かを発見することだ。

 人間と人間の場合で考えてみると、トキメキは、確かに個体と個体の間で共有することができるように思う。あくまでの肌感覚だが。
一方、ヒラメキは、宇宙から降ってくるのをキャッチするイメージだ。その時、頭を空っぽにしていないと、キャッチし損なう。シャワーを浴びているときや散歩のときに、「アイディアが浮かぶ」というが、自分の内側からホッと出た感じではない。むしろ、外側から与えられるもののような気がする。現に、漫画では頭の上に豆電球が灯ったように描かれる。それは、おそらく電気信号のようなもだ。それを人間の脳内にある受信機がキャッチ、電気信号をイメージに変換するのだろう。それをパッと思いついたかのように人は感じる。その電気信号は取り損ねることがあるくらいのショット的なものだろう。
さらに言うと、「いつくしみ」は、ゆったりした振幅の大きな、波長が長い、持続性のある電気信号なのではないか。故に、脳というよりは、体の細胞が受信しているのではないだろうか。それを人は温かいものに包まれるように感じるのだと思う。

 人間の脳には、神経細胞の触手が網目のように張り巡らされている。神経細胞同士は、電気信号を流すことでやりとりをしている。同時に、神経細胞が集団で電気信号を発生させることで脳波を作り出し、遠く離れた部位にも信号を送ることができる。ここに、「量子もつれ」の概念を入れた研究者もいる。それなら、波動よりも速い伝達、伝達というよりは「瞬間わかっている」が説明できる。閃き、直感の性質とよく合う。

 外からきた電気信号のようなものを瞬間キャッチできる受信機、それを見つけたい。脳内に、磁力をもつ化合物を含む器官があるのではないか?
「磁力を持つ化合物」がわかれば、人工レアメタル生産に貢献することができるかもしれん。携帯電話やパソコンの部品に必要なレアメタルを巡って、世界各地で頻発している紛争騒ぎを思い出していた。

タカジョウは、「脳内レアメタル」とつぶやいてみた。新しくていい響きだ。ポストイットに
「脳内レアメタルの可能性」
と書いて、それを一番目立つところに貼り付けた。

学生に学者も積極的にSNS投稿をしないと乗り遅れると言われたことを思い出して、慌てて、写真に撮って投稿した。
「脳内レアメタルの可能性」と書かれたポストイットの横には、ホープの写真がある。タカジョウ ホクトの最終目的は、空に帰ってしまったホープともう一度、会話することだ。
「ホープがオレのことを呼んでだら、すぐに答えてやりたいのだ」

宇宙電磁波研究所 ウサミ  ミナ

 そしてまた同じ頃、宇宙電磁波研究所のベテラン研究員ウサミミナもコーヒーを飲もうとイタリア製のパーコレーターを取り出していた。

 空気がきれいで高度があるという条件を満たした山の上の観測所では、最近、高周波の短い未知の電波をたくさんキャッチする。それが何でどんな意味をもつの解明するのが目下のプロジェクトだ。

(宇宙人やUFOが何か信号なのか・・・)

 人里離れた研究生活では、どうも世間の話題に疎くなってしまう。コーヒーを飲みながら、ふと開いたニュースサイトのトップは、
「『文字変換爆走ノートパソコン』による『幸せユーザー』がさらに増えている」
というタイトルだった。「変換暴走のおかげで生き方が変わった」人たちは、本当に幸せそうだ。幸せになったというよりは、目の前にあった幸せに気がついたというニュアンスが近いように聞こえる。販売促進のためにうまく作り込んだものには見えない。

(おっ、そう言えば、私のノートパソコンもこの純国産製じゃん!やってみよ!ここんとこ、自分のノートパソコンを開く機会がないほど忙しかったもんね・・・)

文書作成アプリを開く。試しに、日記ふうに文章を綴ってみる。全くきちんと、変換される。

(なぁんだ!つまらない・・・『変換爆走』って人を選ぶのかな・・・それとも、やっぱり会社PRのような策略が絡んでいるとか・・・)

ふと、思いついて、

「最近の増えつつある、宇宙電磁波は何に由来するのだろう?宇宙は、一定の決まりきったものではない。星が生まれて死んで広がり縮んで、命そのものだ。私は、その命の始めから終わりまでを目撃したい」

そう入力しようとした。ところが、「もくげきしたい」が、「偏りが」と変換される。

(あれ?「偏り?」わぉ!もしかして、私も『変換暴走』できたのか?YES!)

その後は、何度やっても、別の言葉を入力しても、「偏り」になった。

(偏り?そっか、最近の宇宙電磁波の世界データと比べてみよう。偏っているのかもしれない!)

確かに偏っていた。単発の高周波は、日本の観測所で集中して観測されている。ウサミミナは、「偏り」という言葉から連想して、波形のデータを色や形に変換できるソフトを思い出した。早速、試してみる。

(驚いた!まるで、これって、神経細胞の発火する様子と同じだ!宇宙からヒラメキが降ってきているみたい!)

 ヒラメキは、研究生活の中で一番トキメク瞬間だ!閃いて頭の上でピカンと電球が灯ったときを思い出させる画像が気に入り、SNSに投稿した。「宇宙から降ってきたヒラメキ」というハッシュタグをつけた。

(このヒラメキ形の高周波が日本に集中して観測されているのか。なんだか、ゴールデンウィークの高速道路の大渋滞がの本列島中にあるのを連想させるわ。あるいは、受け取り手がいなくて渋滞している宅急便の荷物の集荷場みたいだわ)

アマノ・チョコレートカンパニー
星のチョコレート製造工場

 アマノ・チョコレートカンパニーの工場の総責任者のサトウ ユカリは、ベルトコンベアーを止めようかと迷っていた。止めたら、負けたような気がする。けれども、積み上げられた商品の箱が工場が占領したら、敗北感で押しつぶされるだろう。そう考えて、スイッチをオフにした。
一瞬にして、工場から音が消えた。それを打ち破ったのは、自分の声だ。サトウ は、声を張り上げた。

「みなさん、ちょっと早めですが、休憩にします。対策を考えます」

八人いるパートのみんなは、ホッとしているように見えた。社長でもあり、ママ友でもある、アマノ マミが近づいてくる。
「おつかれ。戦略会議しようか」
コーヒーのマグを手に、八人のパートも集まってきた。
「私たちも。戦略会議に参加します」

サトウとアマノの二人で始めたころは、小さいチョコレートを売る小さなお店だった。子育てと両立できる私たちらしいサイズのお店だ。地域の人たちに笑顔を届けるというコンセプトを掲げていたた。ある日、看板商品の星をかたどったチョコレートを、売れっ子のママタレントがインスタに上げた。あれよあれよと評判を呼び、ベルトコンベアを装備した工場を構え、パートさんを雇うまでになった。生産体制が整うと、オンラインショップをオープンした。売上は順調に伸びていった。それが、一年前。

 ところがだ。急にこの二週間で売上がパタっと落ちた。誰かが妨害しているのではないかと疑わざるを得ないくらい、唐突だった。原因は全くわからなかった。

 ベルトコンベアで流れ作業していたのに、箱詰めの人が急にいなくなってしまう。星形のチョコレートが、ベルトコンベアの上で渋滞しやがてあふれかえり、こぼれ落ちる・・・サトウは、ここ二、三日、そんな夢を立て続けに見た。ハッと起き、その後は、アレコレ考えて眠れなくなる。一日中頭痛がしていた。

 思い切って、今、ベルトコンベアと止めた。止めたら、一緒に働いている仲間が集まってきてくれた。

「営業に行きましょう。チョコを置いてくれるお店があるかもしれない」
「私たちが売りに行きましょう。駅に、よくお店が出てるでしょ」
「SNSも活用しよう」
「星だけでなくて、動物とか海の生き物とかそんなもの作っちゃう?」
「オーダーメイドしますっていうのも有りかも」

みんなが活発に意見を出している。サトウは、肩の荷が下りていった。

「受け取り手がいない。それなのに、どんどんチョコレートができてしまう。チョコレートを作るのを止めるしかないのかと思っていたけれど、そうじゃない。受け取り手を探せばいいのだ。
『ここに、美味しいチョコレートありますよ!一口食べたら、笑顔になりますよ!』
と、もっと宣伝すればいい。流れは止めては行けない」
気がついたら、声に出していた。周りから拍手が沸き起こった。

幼稚園 イシヤマ トシタカ

 緑豊かな郊外の幼稚園の園長であり、教育評論家でもあるイシヤマ トシタカは、
「子どもたちの身体の感覚をもっと高めよう」
と提唱してきた。
イシヤマの幼稚園では、園児が「お腹すいた!」と言い出すまで、お弁当の時間にしない。一人が言い出すと、他の子どもも、「あっ、ぼくも!」、「わたしも!」となる。夢中で遊んでいて、お昼が二時過ぎになってしまうこともある。

イシヤマは、ベストセラーになった著書でこう説く。

 身体の声をきちんと聴くことができる子どもに育てましょう。得られる恩恵は数えきれないくらいあります。まず、健康であることは間違いありません。自分の欲求を第一優先に叶えることは、「自分はこうだ。こう思う」と、たやすく主張することができるようになります。それは、決してわがままではありません。自分の欲求を自らが大切にして、周りが自分を尊重してくれると、その子は相手の意見を尊重できるようになるのです。
 「我慢」という言葉はいずれ消えていくでしょう。「我慢」というものを知らない世代が出てくるでしょう。かわりに、WinWinの落とし所を見つけるのが上手になっていきます。人間関係を健全に築くことができるのです。
 さらに、才能や能力を発揮しやすくなるなるでしょう。WinWinが土台の健全な人間関係が作り出す、安心、安全な環境で育つと、その子は挑戦します。失敗に捉われなくなります。

 文字変換暴走問題が話題になったころ、時を同じくして、著書が売れ始めベストセラーになった。「お腹が空いてから食べる運動」が注目され、地方の一幼稚園の取り組みは全国に広がっていった。今や子育ての常識になりつつある。

天才マッド・サイエンティストBB博士

 自称、天才マッド・サイエンティストのBB博士は、自宅の庭にしつらえた長椅子の上で、冷えたドクターペッパーを飲みながら、さくらんぼカンパニー製の純国産ノートパソコンとにらめっこしていた。

 BB博士は、実は、純国産ノートパソコンに使うレアメタルの採掘場の持ち主でもある。莫大な遺産を受け継いだ彼は、自分の研究に没頭することができている幸せ者である。興味のおもむくままに研究分野を広げているので、何か一つに特化した研究者とは言えない。それで、自らをマッド・サイエンティストと名乗っている。その怪しさとデタラメさが自分にぴったりのような気がしている。ちなみに、BBは、バババンジロウというふざけた名前を、天才マッド・サイエンティスト風に変えただけだ。

 目下の研究テーマは、純国産ノートパソコンの不具合だ。BB博士はワクワクしていた。

(やはり、うちの『石』が関係していたか・・・これはおもしろいことになってきたぞ)

BB博士は、脳科学者タカジョウ ホクトと宇宙電波研究所研究員ウサミミナのSNS投稿を見逃さなかった。在庫を抱え一時は窮地に陥ったアマノ・チョコレートカンパニーが、新規販路を開拓してV字成長したかの経済新聞の記事も読んだ。ママさんパワーはやっぱりすごいと再確認した。

(これは、フラクタルだな)

「フラクタル」というのは、部分が全体と相似な形を有しているという性質だ。
「事実のかけらから同じ要素を見つけ出し、全体の形を知る」
という特殊能力ゆえに、BB博士は「天才」を名乗っている。

(今度から「フラクタル研究家」と名乗ろうかな・・・)
などと、考えていると、庭に面した幼稚園から賑やかな声が聞こえてくた。

イシヤマ トシタカが経営する幼稚園からだ。園庭が、BB博士の庭に隣接していた。
最近またテレビの取材がよく入ると、イシヤマはこぼしていたが、全国の幼稚園児、保育園児が、いっそう元気になり、目の輝きが増してきたことは喜ばしい。
実は、これも、変換暴走の謎を解く重要な要素の一つだとBB博士は考えていた。

 こんなふうに社会に何か変化が起こる時には、小さな波が重なって徐々に大きくなるような広がりを見せる。今回の場合、キーワードを拾い上げると、こんなストーリーが浮かび上がった。
何かが、受け取り手がいなくて、渋滞している。流れが止まっている。そんなときは、普段サぼっているアリが働き始めるように、何か代わりのものが動き出す。

 滞ったら、自然の力が働いて、流れは取り戻される。大いなる何かが世界を統制しているような気がする。それは、神なのか?
天才の思索は続く。

さくらんぼカンパニー社長 ナガセ カイト

 人懐っこいいつもの笑顔は、ここ最近ナガセカイトの顔から消えている。

 直感に従って生きてきた。二十代でヤナギサワ トモヤと意気投合して、さくらんぼカンパニーを立ち上げた。三十代前半で、全部品を国産で賄うノートパソコンを開発し世に出すことができた。
仲間に恵まれたことも大きいが、自らの直感を信じてきたからだ。
しかしながら、今回の文字変換の不具合を前にして、会社は危機に瀕している。

 この不具合が発生する条件をなんとしても見つけなければと焦っていた。原因は、かなり限定されてきた。ナガセはもう一度、この期間に出荷されたパソコンの部品のすべてについて、部品の調達先や入荷日、品質検査結果、作業に関わった担当者までを洗い出して検討し直すよう指示した。

不具合は確かにある。だが、不具合は再現できないと報告を受けている。

 明日は、研究開発部のヤナギサワと共に、レアメタルの産地、霊験あらたかな有名な古いお寺の住職に、相談に行くことになってる。なんとかなるとか思えないけれど、何もしないではいられない。どうにかして、突破口を見つけたい。

剣山城寺 住職

 さくらんぼカンパニーの社長ナガセ カイトと技術者ヤナギサワ トモヤの二人がやって来た。
出迎える住職は、もう還暦に近い。若い才能と志を応援してきた。寺の裏山のレアメタル採掘場の持ち主BB博士との間に入って交渉を助けた。レアメタル採掘が法に叶うように援助した。
五年前は、希望に目を輝かせていた二人は、今、しょんぼりと肩を落としている。

「あの、バチがあたったんじゃないでしょうか?」
おずおずと社長のナガセが切り出す。人懐っこい笑顔は健在だが、少し元気がないように見える。
住職は、暗い雲を吹き払うように、咳払いをして、言った。
「こう見えて、わしは、理系畑でしてな。大学では、理学部で物理学を専攻しておったのですよ。だから、どんな現象にも科学的な説明がつくと信じております。何の因果か、跡取りの宿命で坊主をやっておりますがね。
目に見えないことが科学的に証明されたからといって、神聖なものは神聖ですよ。その価値は下がることはないですからな」

「少し、裏山を歩いてみましょうか。まぁ、まずは、ゆっくりとお茶を飲んで」

 三人は、無言で裏山に登った。高い木々に日差しが遮られて、セミの大合唱の中に足を踏み入れる。別世界に迷い込んだようだ。御神体である大きな岩が聳えている。三人は、御神体の前で手を合わせた。心が落ち着いてきた。

 採掘場は、ここからもっと奥にいかなければならない。ここから先、ナガセは初めて足を踏み入れる。少しワクワクしていた。
住職も、小学生時代に帰ったようだと感じていた。
ヤナギサワは、緊張でドキドキしていた。
「試練というものは、人を強くする。力を合わせて乗り越えてほしい。どん底に落ちたら、あとは上がるだけじゃよ」
住職は、立ち止まり、緩やかな波形を指で空中に描いた。緩やかな曲線は、山あり谷ありと続いていく。
「ヤナギサワさんがここの石を使いたいって言ったとき、正直、わしは驚きましたよ。明治以来、採掘場は人が入っていないらしいから。いいことやと思いましたわ。風通しようしとかな、何でも」
と、励ますように住職が続けた。

 「これこそ、ご縁だとぼくは思っています。パソコンに使える石探しに難航していたら、どこで聞きつけてくれたのか、BB博士が連絡をくれたんです。藁にもすがる思いでここに来ました。実験室に持ち帰って、使えるとわかったときには、神様はやっぱりいるって確信しました。だから、石が原因だなんて」
と、ヤナギサワが肩を落とすと、ナガセが取りなした。
「まぁ、石だけが悪いって決まったわけではないし。何かの条件が同時に作用するときに不具合が発生するんだと思うのですが、それがわからなくて」

「そうですか。ヒントが見つかるといいですな。ここまでがお寺の地所、ここからは、馬場さんの土地ですわ。あ、馬場さんやのうて、BB博士と呼ばれているんでしたな。こんな山の中ですさかい、境界線やらきっちりしてませんけど。ほら、木見たらすぐわかりますでしょ。ここで木の種類がガラッと変わります」
住職が歩き出す。

 三人が歩いてきたのは、落ち葉が降り積もった広葉樹林の林だった。これから足を踏み入れようとするのは、針葉樹林。一段と暗くなる。スッキリしたスギのような香りがして、ひんやりする。バタバタっと音がした。ヤナギサワとナガセが身を縮めると、住職が笑った。
「カラスですよ、ハハハ。ほんとにもうバチなんてありませんから。きっと解決方法がありますよ」

山道が細く険しくなった。木の根っこや石でゴツゴツした山道を、住職は草履でスタスタ登っていく。ナガセ社長、ヤナギサワが慌ててあとに続いた。

初めて、ここに来たナガセが振り向いて、ヤナギサワに声をかける。
「採掘場に行くには、この道だけ?」
息が上がっている。
汗を拭きながら、ヤナギサワが答えた。
「そうなんだよ。この細い獣道のようなものしか、採石場にたどり着く道はない」

「採石したものは人が運んでいるんだったな」
「はい。あっ、でも部品に使うのはほんの少量だから。3キロ採掘すれば十万台分になります。堀師という人は、本当に慣れていらして、掘り出し運ぶところまで、きっちりやってくれるんだ」

 採石場は突然現れた。大きな石のトンネルが暗い口を開けていた。トンネルの入り口に立つ。背を屈めなくてもよさそうだ。携帯の懐中電灯で照らしてみる。中は、意外と広い。二十畳はあるだろうか?剥き出しの岩壁を照らしてみる。どの面も綺麗に削られている。岩肌は黒く、丁寧に光を当てても、どこが新しく削り取られたものなのか判別できない。
「ここから、不具合を作り出す要因を探り出すのは無理だな」
ナガセは、ヤナギサワの意見に同意した。

洞窟が出ると、陽の光にクラクラした。

「こんな貴重な石が採れる場所なのに、無防備なんですね」
ナガセが、住職に話しかけた。

「まず、この場所にたどりつくことができないでしょう。ある意味、うちの寺は、この先には何もないという目隠しのために立てられたんだと、わしは思っています。寺の先は、急な崖に見えますからな」

「護っているのではないですか?」

「そうかもしれないが、寺には、ここに来る道以外、何も伝わっておらんのですわ」

「この道は秘密にされているんですか?」

「いや、秘密も何も、こんな山に来る人はおらんでしょう。隠されているとしたら、地理をうまく利用しているんでしょうな。うちの寺を通らなければ、なりませんし、仮に、通ったとしても、寺の裏は急な崖で、そこを上がる道はないように見える。また仮に、小さな窪みを見つけて崖を上ったとして、そのさきはほとんど獣道のようなものだし」

「なるほど」

「それで、その採石場の持ち主の馬場さんというのは、だいたいは聞いていますが、連絡が取れないと?」
ヤナギサワは、うなづいて、住職の顔を見た。

「電話してみましょう」
寺に戻ると、住職は、電話をかけに奥に言った。しばらくして、小さな紙を持って戻ってきた。
二人はお礼を言って、剣山城寺をあとにした。

(後編に続く)

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