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山猫と物語と私

人生のどん底にあった私にある日届いた迷惑メール。 (7600字)       「#やさしさにふれて」コンテスト応募         


私は人生のいろいろなことにつまずいていた。どん底だった。メンタルの病に罹って勤め先を無くした。ほどなく頼りの妻に見捨てられた。家から出ることもままならなくなり、絶望に支配されてしまわないために残る力をすべてふり絞る日々となった。長年ひとつの会社に勤めたのに寂しい辞め方をせざるを得ず。会社人生を思い返せばたくさんのことがあったはずなのに自分に誇れることがあきれるほどひとつも思い出せない。子供がなかったから子供を育てて世に送り出せたんだからいいじゃないかと自分に言いきかせることもできない。

ただただ思うのは、それでも人生終わりの時には自分の人生にはちゃんと意味があったと思えるようにしたい、ということ。今はどん底の気持でもきっといつかはそう思えるようになるはず。そういう望みすらなくなればとても生き続けていけない。

だから必死になって、自分が好きなこと、できるかもしれないことの中で、それができれば自分でよくやったと思えることが何かないか探した。とうとうそれは本を書くことだと気がついた。私はいつか本を書いてみたいと心の底で考え続けている人の内のひとりだった。

そういうわけでまずは何を書くかあれこれ考えを巡らせた。本にもジャンルはいろいろある。読んだ人に何か役立つような本を書きたいと思った。自分に書けそうなことをいくつかリストに挙げた。その中からさらに選んで本の構成を作ってみた。そして書けそうな所から書きはじめた。昼も書き、夜も机に向かった。疲れてはごろりと眠り、また目覚めては書いた。何時間もかかって十行も進んでいないことに気がついたりした。書けないときは頭をかきむしった。床をごろごろころがった。逆立ちして背中がつりそうになった。しかしそうしているうちに、いつしかキーボードに向かうことが少なくなっていった。ぼうっと窓の外を見たりすることが多くなった。

ある日携帯に一通の迷惑メールが来た。その文章ときたら。

滝 一太様
突然のメールごめんください

折り入ってお願いこれあり
ぶしつけながらお便り差し上げました
ついてはメールへの返信を伏してお願いいたします

ごきげんよろしく

エドモン・オーステルリッツ


なんていかれたメールだ。たくさんの迷惑メールを受け取ったがそれにしてもこんなのは初めてだ。送信アドレスにもちろん覚えがない。気持ち悪いのは自分の名前を正しく知っていることだ。知り合いのいたずらだろうか。そんな悪ふざけをしそうな交友関係は全然思い当たらない。どうであれ、できることは放置しかない。返事を返すなんてとんでもない。

それから三日後。夜も日付の変わる頃、ひさしぶりにキーボードに向かって執筆を何とか進めようとぽちぽち文字を打っていた。急に背中から声がした。
「あなた、ひきこもりがずいぶんひどいですねえ」
驚いて振り返るとその光景にぎょっとした。箪笥の上に子供くらいの大きさでチョッキを着たものがちょこんと座って脚をぶらぶらしている。チョッキの上にある頭はどうみても猫だ。ただし目が糸のように閉じる寸前まで細くニタニタ笑っているよう。東照宮の眠り猫の目を思い出す。ただしこちらは眠っているのではなくて笑っている。
箪笥のふちを持つようについている両手も猫の前足だ。ぶらぶらしている後ろ足にはおとぎ話の挿絵でしか見たことがないような先の尖った革製の靴を履いている。


「わたし、エドモン・オーステルリッツです。三日前にメールしましたよね」
なじるような口調。声は子供のように甲高い。
「あなたが返事はくれないしぜんぜん家の外にも出ないので、この場所この時に来なくてはならなくてずいぶん苦労しましたよ」
「き、き、君は...」
口がからからに渇いてしゃべりにくい。
「い、いったい...」
「いったい何者だと聞きたいんですね。私は山猫ですよ」
「やまねこ?」
「ええ」
「でも、でも、しゃべってる」
「山猫は話します。当然です」
当然のことをわざわざ言う奴を見下す表情で山猫は言った。そして言葉つきを和らげた。
「それから、きっと心配するでしょうから申し上げておきますが、わたしはあなたの幻覚ではありません。あなたはそんなに具合が悪いわけじゃありません」
そう聞いて急に腹が立ってきた。おかげでちゃんと口がきけるようになった。
「そうかい、そうかい、それを聞いてとっても安心したよ。ついでにもっと安心できるように、どういうわけで僕の部屋に無断で入り込んできてそんなところに座っているのか聞かせてもらいたいもんだね」
「一太さん、お願いしたいことがあると書いたでしょうに」
「あ、ええと。ふうん…。それで山猫が僕にどんな頼みがあるんだって?」
「頼みというよりは発注の相談とでもいったほうがいいでしょうね。ですからもう少しビジネスライクな冷静な態度をとってくれませんか。あなたもいい大人でしょ」


なぜかわからないがそれを聞いて急に怒りが冷めてきた。そしてこんな状況をもっと恐ろしく感じた方がいいのではないかという疑いが湧いてきた。
「依頼というのはですね、あなたに物語を書いて欲しいんですよ」
「え?」
「あなた、いま本を書こうとしているでしょ?」
「本?」
「ついさっきまでキーボードをぱちぱちしてたじゃないですか」
「あ、ああ。そのことか」
「言っておきますが、今書いているのは全然だめですね。ひどいもんです」
息を吸った。息を吐いた。
「どこがどうだめだって?」
「説教くさいんですよ。あなた自分で書いたところを読み返して自分で疲れていますね。説教くさいからですよ。それじゃあ書けば書くほど気力がすり減るばかりです。たとえ書き終えることができたとして、今度は読む方もすごいエネルギーが要るわけですよ。そんなに苦労して読むかいのある内容があったとしてもね」
ここからはつぶやくような小声になったが残念ながら明瞭に聞きとれた。
「『ネットが百倍使えるようになるツボ』、ふふん」
相手の顔に血が上ってくるのを見たのかどうか、山猫はコホンと咳をして話を続けた。
「まあ、それでもどうするかはあなたの勝手ですけど。つい余計なことを言いました。話を戻すと、とりあえず今書いてるのはちょっと脇に置いておいて、先に物語を書いて欲しいんですよ」
「物語? 物語って、いったい何の?」
「何でもけっこうです、物語であれば。つまりストーリーがあって読み始めたらどんどん読めて、おもしろく最後まで読み終えるようなもの。要するに物語です」
「そういうものを何でもいいから書けというの?」
「ええ、そうです。この世界には絶望的に物語が足りませんからね。なんとかその不足を埋めていかないと。壮大な事業です。それでも一歩ずつ進めていくほかありません。何事もそういうものです」
「言ってることがさっぱりわからないけど、それはともかくどうして僕に?」
「見込みがあると思うからです」
「見込み?」
「ええ。あなたにはこの世界に付け加えるだけの価値のある物語を生み出せるかもしれない、ということです。あくまで見込みですけど」
「僕には物語の方が向いていると思うの? ノウハウものよりも?」


「あなたね、自分のことをちょっと振り返ってみてくださいよ。 本好きはもちろんのこととして、変わったへきがありますよねえ。気に入った本があると何度も読み返すでしょ。これまでに一番たくさん読み返した本は何回読みました?」
「え? ええと、そうだな、どうだろ。多いのはたぶん40回くらいかな。」
「あまり近くないですね。74回ですよ。ちなみに40回以上読んだ本は28冊です。言うまでもありませんが全部物語です。なんでそんなに同じ物語を何度も読むんですか?」
「何でって、それは好きな本は何度読んでも楽しいし、そんなに好きな本は限られてるから、結局同じのを何度も読むことになっちゃうんだ」
「それですよ」
「え? それって?」
「つまり、あなたは本の好き嫌いが激しいんですよ。書きぶりにしても、ストーリーの展開にしても、心に残る教訓にしても。すべてがしっくりきたときにはこの上ない喜びが得られるし、何度でも読む度に得られる。でも何かが欠けているともうだめ、というわけです」
「うーん、そうか。そういうことか。なるほど」


「まだ納得するのは早すぎます。そういう人は自分で書くものにも好き嫌いがはっきりします。書いている途中でちょっとでもしっくりこないところがあると自分で嫌な気がします。だめだと分かれば書き直すことができる。だから自分がほんとうに好きだと思えるものに最終的に少しずつでも近づけていける可能性があるわけです。自分が書いたものが良いのか悪いのかもぼんやりしてるようではまず見込みはありません」
「そうか、そういうことか。なるほど」
「そいうことです。では、お引き受けいただけますね?」
「あ、ちょっと。今のをうっちゃって、物語のほうを始めるのはいいけど。でも僕におもしろいストーリーが考えられるだろうか?」


「そこまでは請け合えません。でも、あなたは振っても何も出てこない空っぽのでくのぼうには見えませんけどね。それなりに経験も積み、いろいろ考えるところもおありのようですし。なぜだかときどき心に現れてきて、妙にひっかかっていることがありませんか。そういうのを見過ごさずに周りをぐるぐる回ってみるのもいいですよ。では、とにかく始めることはよろしいんですね」
「ええと、それで、他に条件はないの? 期限とかは?」
「期限は別にありません。お好きなだけ時間をかけてください。私はね、物書きに向かって締め切りを守らせようとする役回りにだけはならないことを心底願っています。物書きにうるさがられるだけでまったく報われない貧乏くじこの上なしですので」
「内容も自由だし、期限も全くなし?」
「そうです」
「でも時間をかけたけど、君が気に入らないものができたとしたら?」


山猫はすぐに返事をせずしばらく黙っていた。やがてぽつりと言った。
「ははあ、なるほど」
「え?」
「いやはや。私もしばらく人間の相手をしていなかったのですっかり勘が鈍りました」
「何がなんだって?」
「つまり、私が気に入らなかったときには報酬はどうなるのか、とおっしゃりたいんですね?」
「まあ、そういうことかな。発注とか言ったよね。そういえばそもそも報酬の話はまだ何も出てないけど」
「そうでした。失礼しました。あなたが私の依頼した仕事をする。すると私があなたに報酬をお支払いする。当然のことですね」
「そうだね」
「ではそのことについてお話ししましょう。でもまず最初に、私にとって人間一般の考え方はとてもエキゾチックだということをぜひご理解願いたいのです」
「エキゾチック?」
「ええ、とても異国風です。なかなか慣れません。ですから逆に私の言うこともあなたにはエキゾチックに聞こえるかもしれません。そのあたり留意の上聞いてください。さて、あなたが私の希望通り何か物語を書いてくれれば、私にとってのメリットは、世界の物語を増やすという私に与えられた役割が一歩前に進むということです。そしてあなたにとっては、自分で読み返すに足るような物語を後に残すことができたということになるわけです。それで全てです。わたしからあなたに何かお渡しするということはありません。それでは不足だと思います?」
「うーん、まあ、もうちょっと違う話かと思っていたかな。正直な話。というか、いっそその取り決めなんてものがあっても無くても違いはないんじゃないか」
「まさに! そこがミソでもあります、ある意味ではですが。この取り決めに同意したとしても、あなたは今日のことはこの場限りでまるでなかったことのように振る舞うことができるというわけです。ただ残るのは物語を書くということだけ。そういうことでいかがでしょう?」


私はしばし考え、言った。
「その物語を増やすというのは君にとってきっと大切なことなんだろうね?」
「ええ、とても。まあ、せっかくのお尋ねなんでちょっとお話ししましょうか」
山猫は後ろ足をぶらぶらとして、身体をちょっと揺すって背筋を伸ばし、すでに細かった目をさらに閉じて自分の内面を見つめるように話し出した。
「人や他の種族の一生はそれぞれ満足のいくものだったり、不満な一生だったりさまざまでしょう。でも、例えば人間のそんな人生が世界中で毎日毎日何十億人分も過ごされているわけです。それが何十万年以上も続いていて、じゃあその総体としてはいったいどういうことなんだ?という疑問を持ったことはありませんか。言い換えると生物が生きて後の世代に残っていくものは果たしてあるのか?ということです。
 もうおわかりでしょうけど、その一つとして物語というものがあるわけです。ある物語がある言葉で語られ、でも長い間には言葉だって変わっていってその言葉を話す人がいなくなれば、元の言葉で語られた物語は失われてしまいます。でも物語自体はそんな歳月を生き抜いて、語られる言葉を変えても伝わっていくこともできるんですよ。民話とか神話とか呼ばれているものです。作者などもちろん分からないし、世界のあちこちに似た話があって、オリジナルはどこで生まれたのかもはっきりしなかったり。でも民族ごとに必ずそういうものがありそれは大切にされている。まあ、そういうのは物語の中のチャンピオンですけど。


それほどではなくても、世界中で愛されている物語をあなたはたくさん知っているでしょう?あなたはもとの書かれてる言葉は読めないし、その物語に出てくる人の生活はあなたが一度も体験したことのないことばかりだとしても。その別の人生をあなたも生きることができる。生まれてから死ぬまで何の関わりの無い、時代も場所も遠く隔たった人どうしでも同じ物語を愛しているということがあるわけです。そういうものが要するに代々生きた人の総体としての何かだということなんですよ。
実を言えば、人間の物語は人間以外の種族からもとても愛されています。まあ、その話まですると長くなりすぎますので。とにかくそういうわけで私はいっしょうけんめい世の中の物語を増やそうとしているのです」


「質問したいことがますます増えてきたけど。でもまあ取り決めのことはやることにするよ。今日から僕は物語を書き始めてみる。それで完成したと僕が思ったときが取り決めの完了ということだね」
「あなたが完成だと思い、それを人の目に触れるようにしたときが完了ということです。あなたのパソコンの中にだけあってそのまま消え去ってしまうのでは世の中に付け加えたことにはならないですからね」
「ああ、人の目に触れるね。例えば、ひっそりとネットに上げるだけでもいいのかな? 絶対に誰かに読んでもらうということだと、なかなか自分の努力だけではできないことだけど」
「限られた人に見せるということではなくて、見ず知らずの人の目に触れる可能性があるようにしていただければ結構です。後のことは物語の力で決まること」
「それで僕の方は、たとえ誰も読んだことを僕に教えてくれなかったとしても満足できるるんだろうか?」


「自分が満足できるものができたとしたら、それでいいじゃありませんか。誰が読んでくれたのかわからなくても。後に大作家と呼ばれた人ですら、生前には書いたものがほとんど相手にされなかったなんてことは多々あります。自分でなんともならないことを何とかしようとするのは苦しみの元です。人間にはそういうことがわかっていない人が多すぎます。私にはなぜなのかさっぱり理解できませんがね」
山猫は箪笥の上に立ち上がってベストの下を持ってひっぱって皺を伸ばすような仕草をした。
「さてと、それでは合意に至り喜ばしい限りです。ここへ来るために費やした苦労が報われました」
「ちょっと」
「まだ何か?」
「あの、また君に会えるかな?」
山猫の目がぎゅっと変形し笑いが深くなったような気がした。
「ほほう。こんな経験はもうこりごりかと思いましたよ。見ず知らずの者に突然訪問され、一方的に上からずけずけ言われるなんてことはね」
「まあ、最初のうちはたしかにそう思ったけど。だけど、つまり、…」
「わからないこともありませんけどね。なにしろ物書きというのは孤独な作業ですからね。しかし私もこれでけっこう多忙な身なんですよ。よろしいです。お約束はできませんが、機会がありしだい、スケジュールがつくかどうか調整してみます。そうすぐには無理だと思いますよ。気長にお待ちください。それではごきげんよう」
言うなり山猫は振り返ると、あるはずのないドアを開けて出て行った。閉まった後にはいくらよく見直してもドアなどはなかった。

しばらくたってこの出来事が本当にあったのかと振り返ってもそれを証拠立てるものはエドモンの言った通り何もなかった。いや、強いて言えばひとつだけ。エドモンが座っていた箪笥の上に数日経ってからどんぐりがひとつあるのを見つけた。細長いありふれたどんぐりだった。だが、そんなところにどんぐりは絶対になかったはずだ。といってその確信すら時間と共に曖昧になってくるのだが。それでも私の考えを言うと、もちろん単なる推測だが、エドモンの世界で彼らは山猫の姿などしていないのだろう。人間のもとへ赴くにあたって人間が書いた物語にちなんだ演出をしてくれたのだと思う。エドモン自身が宮沢賢治を評価しているのか、あるいはエドモンの世界で広く名の知れた人間の物書きなのか。それはどちらか分からないが。


それから私は約束の通り物語を書き始めた。物語を書くこと以外にもいろいろなことが起こった。つらいこともいいこともあった。つらいことのほうが多かったかもしれない。しかし何が起きても物語を書くことは止めなかった。以前はなかなか筆が進まないと気落ちしたが、何時間もかかって結局数行しか残らなくても気にしなくなった。消えずに残った行が自分の力になるようにということだけに気をつけて書いた。

その後山猫は一度も現れなかった。とうとうこれで完成だと思ったときには一年以上が経っていた。どういう方法で世の中に付け加えたらいいだろうと考えた末、とある小説やらエッセイやら絵やら動画やらを対象とする投稿サイトに投稿した。それから数日は、どこからか急に高くて横柄な声が聞こえるかと期待したがそういうことはなかった。一週間が過ぎ、一ヵ月、とうとう季節も変わった。その後も世の中に物語を付け加える事業を独自に継続することにした。物語を書くことが自分に力を与えてくれ、それで人生歩んでいける糧にできると思ったから。

いつか。時と所が合ったとき。あの甲高い声と独特の笑い顔に再会する日が来ることを信じて私は今日も机に向かう。


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