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ハードボイルド稼業 -1-

私立探偵である私は、その日昼食を終えて店を出た路上でとある依頼を受けた。

小説を書くとき、主人公を作者自身に近いグループに所属する人物として描くこともできる。国籍、年齢、性別、等々のことだ。
あるいは、地球上の別の場所、異なる生い立ち、大きく違う時代にすら主人公をほうり込んでしまうこともできる。
全三回。

(第一回 6000字)

アメリカ。1900年代はじめ。

そこには私立探偵という職業があった。またそのころ作家ダシール・ハメットがハードボイルドという新しい小説ジャンルを創造して私立探偵の活躍を描いた。そして彼自身も名の通った有力探偵社ピンカートンの実際の探偵でもあったため、世の人達が作中の探偵の活躍と実際の探偵業を重ね合わせて考えることは自然な成り行きだった。そんなハメットやら他のミステリー作家やらの小説を読んで、私立探偵になるのはめちゃめちゃクールなことに違いないと思い込んでしまった山ほど居たガキの一人が俺だ。

俺はその日、街なかのレストランで昼飯を終えて車へ戻ろうとしていた。下ろしたてのグレーのスーツに明るい青のネクタイ、グレーの帽子を身に着け、うららかな陽気のロスアンジェルスの五月に、春のヒバリのように朗らかな気分だった。財布の中にはセルロイドに挟まれた許可証が入っている。三週間前に受け取ったその許可証によるとブライアン・スコットという男が私立探偵として仕事をできるということになっていた。

ここカリフォルニア州では、幸か不幸か、探偵の免許を取るためには三年以上の警察その他での実務経験が必要だ。その三年間で俺は小説の私立探偵と浮き世の探偵の違いを嫌というほど思い知った。地味な書類調査やら、退屈な張り込みばかりがほとんどだ。その三年間は私立探偵への道を思いとどまるいいチャンスだった。それでも自分独りで仕事ができるようになれば状況はまた違ってくるという希望を俺は捨てなかった。なんといってもアメリカ合衆国だ。犯罪者の息づく暗黒界には銃撃や刃傷沙汰があふれている。俺へのスリルの割り当てもきっとあるに違いない。

ここから車で十分ほどのビルの一角にささやかな個人探偵事務所があり、ドアには財布の中の許可証と同じ名前が掲げられている。俺は今からそこへ仕事場の主として帰るところだ。それまでの仕事を辞め、必要な手続きをすべて済ませ私立探偵としての人生を始めたばかりだった。開業以来18日間ひとつの仕事も無く、懐は寂しくなる一方だったが、まだヒバリのような気持ちは損なわれていなかった。

タイヤがきしる甲高い音が辺りに響きわたると何か重たい物が何か固い物にぶつかったような音がした。また急に静かになった。道の向かい側で一台の車が後部車輪を斜めに歩道に乗り上げていてコンクリート製のベンチが車の後ろ側に奥深くめり込んでいた。どうやら車を急発進させて威勢良く道を飛ばしていこうとしたが、あいにくギアがバックに入っていて思い切り後ろに飛び出してベンチに急停車させられたということのようだ。

そちらへ向け足を運ぶ。近づくと運転席には縁のある白い帽子をかぶった男が座ってハンドルをにぎったままじっとしていた。見ているとゆっくり右手を上げて顎の辺りをさすると口を開いて舌を出してまた入れた。舌を強く噛んだのだろう。さらに近づいて顔がよく見えるようになると、紙のような白い顔と焦点の定まらない目を正面に向け続けている。車の脇まで行って運転席のガラスをコンコンと叩くと放心したような目をこっちへ向けたのでドアを引き開けて話しかけた。
「大丈夫か?  怪我はないか?」
間があって返事が返ってきた。
「あ、ああ」
茶のスーツを着た若い男だった。両手はまだハンドルを握っていた。
「これを一杯やるといい」
俺は上着の内ポケットからウィスキーの小瓶を出し、封を切り栓を開けると男に渡した。事務所の備品の補充として買ったばかりのものだった。男は手にした瓶を一瞬眺めていたが顔を仰向けて一口あおり、荒い息を吐いた。すぐに顔色が戻ってきた。男は瓶を俺に差しだした。
「すまない、恩に着るぜ」
「もう一杯やった方がいい。遠慮はいらんよ。それから立ち上がって本当に何も怪我がないか確かめておくのも悪くないんじゃないか」
男は言われるがままにウィスキーをもう一口ごくりと飲むと俺に返し、車から出てきた。背は俺より低く、体つきはスリムというのが適当だった。男は自分の身体のことは心配していないようだったが車の状態に目をやると顔を曇らせた。
「くそ、ドジ踏んじまった」
俺も彼の隣に立ってつくづくと車の状態を見た。
「修理屋も引き離すのにだいぶ苦労するだろうなあ」
男はだいぶ自分を取り戻してきたようでふわふわしたところが無くなってきた。改めてすばやく俺を上から下まで見定めると言った。
「この界隈で通りすがりの人間に親切にされるなんて思いもよらなかったぜ。俺はトニー・スターリングっていうんだ」
「ブライアン・スコットだ。いつもおせっかいが過ぎる質なんだよ。電話はそこの薬屋にある。一番近い車修理はスミス商会だ。今なら送って行ってもいい」
「えらくお人好しなんだな。こう言っちゃ何だが時間がつぶれても気にならない優雅な暮らしぶりってわけかい」
「しがない私立探偵で、目下は仕事を抱えていないというだけさ。スミス商会は俺の事務所から車で十五分足らずだ」
男は俺を見つめながら考える風だった。俺に送ってもらった方がいいかどうか考えているのだと思った。俺は間違っていた。
「なあ、あんたの言うのが本当なら今ここで仕事を頼むかもしれないぜ。探偵のバッジを持ってるかい?」
俺は財布からセルロイドに挟まれた許可証を出して見せ、同じく財布から名刺を一枚出して渡した。男は許可証を見、それから手にした名刺を指で弾きながら言った。
「それで、今からあるところへある品物を届けるとしたら、いくらになるんだね」
「まずは事情を聞かなきゃならない。事情に特に問題がなくて届ける品物にも問題がなければ後は掛かる時間次第だね。晩までに帰って来れるんだったら特別に半日分の料金として15ドルとガソリン代で引き受けてもいい。こっちとしては本当は一日単位で仕事をしたいんだ。タクシーを呼んで自分で届けた方が安上がりだよ」
「この車は俺んじゃないんだ。乗り回しているが使っているだけという訳さ。持ち主は気安いダチでもなくて、傷もんにしちまったとなると俺はこっぴどく絞り上げられるに違いない。一刻も早く詫びを入れに行ったほうが絞られるにしてもずっとましだ。だから品物の方は俺が今から持って行くわけにはいかなくなった。といって品物を渡す方も先延ばしにできない事情なんだ。で、代わりを頼むのがあんたでもいいかもしれないと思ったのさ」
「分かった。じゃあ品物を届ける方の話を聞こうか」

「届ける場所はバンカーヒルのクライトンホテルだ。クライトンホテルは知ってるかい?」
知っていると答えた。
「そこのロビーで女が待っている。約束の時間は三時だ」
「時間はまだあるな、それにしては急いでたみたいだが」
「いや、ちょっと考え事をしていたんだ。ギヤを間違えるなんて焼きが回ったぜ。で、届ける品物はこれだ」
スターリングは上着のポケットから布製の小さな袋状のものを出した。
「中身はルビーのはまった指輪だ」
油断していたので思わず「えっ」と声に出そうになった。しかしビジネスの話になっていたので冷静沈着な態度をかろうじて保った。
「値打ちものかね」
「良くて200ドルといったところらしい。俺もそれ以上は詳しくないんだ。女の母親の形見かなんかなんだが、もめごとがあって取上げられていたのを俺が取り戻すという話になって、首尾良くいき、今日渡すという段取りになったんだ」
「もめごとというのと、そこにあんたがどう関わり合いになったのかもう少し聞きたい」
「ああ、話すよ。だが、まずあんたの車でコート通りまで送ってくれないか。ここに居てお巡りにとっつかまって身動きできなくなりたくないんだ。警察に俺より先に車の持ち主に連絡されたらことだ。あんただって藪から棒にサツから電話が来たらどんな気分になるかわかるだろう」
ぼちぼち野次馬が集まりだしていて我々二人をちらちら見ていた。俺達は道の向かい側の六台分程離れて駐めてあった俺の車まで歩いていくと乗り込み走り出した。

スターリングが車に乗り込むとき、上着がめくれホルスターに吊した銃が見えた。それがどうした。銃所持の許可を持っていれば銃を持ち歩いても合法だ。俺だって許可された銃を事務所に置いてある。それでも彼が車を借りていて今から謝りに行かなければならない相手というのがどういう素性の人間かおおよそ見当がつく気がした。

スターリングは前を見たまま話しだした。
「女は前に金に困ったことがあって指輪を質に入れようとした。だが質屋では入り用の額には足りなかった。それで女が思い出したのは知り合いで自分は顔が広いと常々吹聴していた野郎のことだ。相談を持ちかけるとまかせろと言って指輪を持っていったが持って帰ったのは質屋と同じ額だった。すったもんだしたが女も時間が無かったんで金を受け取った。その後女にはいろいろつらいことが続いたがやがて羽振りも戻ってきた。それで指輪を取り戻したくなった。だが野郎に受け取った額を渡しても素直に返さないことを怖れて中に入ってくれる人間を見つけようとした。

女はどこかで俺がその野郎の兄貴分だと聞いたらしくて相談してきた。おれは兄貴分なんかじゃないがそいつの大口がいつも気に障っていたんで懲らしめる口実ができるのも悪くないと思って引き受けた。

もし指輪が人から人へと渡っていたらもう手が届かないと思ったが、ツキは残っていた。その野郎をちょっとこずいて聞き出したのはこうだ。指輪は別の男、いわゆる街の顔役のところに預けてあると。そいつを引きずって顔役の所に乗り込むとけっこう話の解る奴だった。どうやら指輪は野郎の親戚のものということになっていて指輪をかたにだいぶ気前のいい金額を借りていたようだ。顔役は女を泣かせてはした金を稼ぐようなことに自分を巻き込んだといってきつく野郎を決めつけた。その場で指輪を返してくれて女からは金は要らない、嘘を並べた野郎にきっちり落とし前をつけさせるからということだった」

話がそこまで来たところで車が信号に引っかかった。指輪を確かめたいと言うと男は袋から出して俺の手に乗せてくれた。小さな赤い石がついた指輪で長い間指にはめられていたらしく細かい傷もあり話と矛盾するところはない。価値は分からない。信号が変わり、指輪を返して車を流れに乗せた。

「先延ばしにできない理由がやっぱり分からないな。ホテルに電話して女を電話口に呼び出して事情を説明すればいいじゃないか」
「あんたこの話、気乗りがしないのか」
「すっきりしないことをすっきりさせたいだけだ。気が乗る乗らないで仕事をしたりしなかったりできる身分じゃない。といって金になれば何でも引き受けるということでもない。身体はひとつしかないから大事にしていきたいし、変な依頼に関わったがために探偵の許可証をあっという間に取り上げられてしまうことだってある。それとは別に評判ということもある。仕事柄トラブルにぶち当たるのは覚悟の上だが、そもそも仕事を引き受けたのがまぬけだったという評判は立って欲しくない」
スターリングはしばらく黙り込んだ。
「言いたいことはまあわかるぜ。うん。うまく説明できるかわからないがやってみよう。

女はロスアンジェルスにはもう見切りをつけるつもりなんだ。いろいろ嫌なことがあった街だからな。住まいを引き払う算段も終わって、指輪のことを最後にもう一度だけ動いてみようということだったんだ。俺が指輪を取り戻したのはちょうど昨日で、向こうから電話があって、もう指輪のことはいい、頼みは忘れて欲しいと言い出した。明日には長距離バスに乗るからと言うんだ。俺が指輪は手に入ったが、その日には都合が悪くて渡しにいけないと言った。じゃあもう一日だけ出発を延ばして受け取るということで、それが今日というわけなんだ。だからもう一度先延ばしという話をしたら女がもうしびれを切らして行ってしまうかもしれない。俺は最後くらいロスアンジェルスでもいいこともあったと思ってもらいたいんだ。女が指輪を置いていってしまったら後味が悪いことになる。俺が特段損をするというわけでもないが、女の頭の中でロスアンジェルスで出会ったろくでなしの中に俺が入っているということになるのはいただけない」

コート通りに着いてスターリングが此処でいいと言ったので車を道の端に止めた。スターリングは俺の顔を見た。俺は自分に問いかけた。さあ、スコットさんよどうするんだ。陽気なヒバリはすっかり台無しだ。奴の話は一応筋が通ってるが大事な事を全部言ってはいない気もする。一番気にくわないのは此処が気にくわないから断るとはっきり言えないところだった。
「半日の料金にガソリン代と諸経費を合わせて20ドル。前金でもらえるなら引き受けよう」
スターリングは意外にも20ドルの持ち合わせとそれを払う気があった。

「女の名前と特徴を教えてくれ」
「名前はヘレン・ブライト。ミス・ブライト。歳は二十四、ブロンドで細面。目は青みがかった灰色でちょっときつい感じ。背は五フィート五インチくらい。太ってもいないし、痩せすぎでもない」
さらにスターリングの住所と電話番号をメモ帳に書き留めた。
「今日の首尾については電話すればいいか?  何時頃にしたらいい?」
「今日は帰る時間が分からない。今夜か明日にこっちから連絡する。あんた事務所と寝るところはいっしょかい?」
違う、と言って彼にやった名刺を取り返して裏に住居の電話を書いて返した。スターリングはこう言った。
「なあ、あんた俺のダチということにしておいてくれないか。いきなり私立探偵と言ったら女がびっくりするかもしれない」
「だが、あんたのことは何も知らないぜ。すぐにばれちまう」
「まあ、そこはうまくやってくれよ。どうしても無理だったらそれは構わないから」
「あんたが来れなくなった理由についてはそのまま言っていいんだね」
スターリングは渋い顔をした。
「ああ、みっともない話だがしかたがない」
スターリングは指輪の入った袋をよこし、我々は握手をして、頼んだぜ、引き受けたと言い合い、彼は車を降りた。バックミラー越しに肩をいからせて威勢良く歩いていくスターリングをしばらく見ていた。いつもの癖なのか、車をおシャカにしてしまったことを告げに行く自分を鼓舞しているのか。エンジンを掛け、車を出した。

走り出してすぐ、後方でパンパンという乾いた音が4発聞こえ、最後の銃声に被さるように大きなエンジン音が街の騒音を圧倒して鳴り響き、そして遠のいていった。急いで身体をねじって振り返る。みるみる小さくなっていく黒い車が先に目に入り、次に道に倒れている小さい姿を認めた。ぐいとハンドルを切って車を脇に寄せ、座席から飛び出した。スターリングがちょうど歩いていておかしくない位置だ。駆けつけると下向きに両手両脚をばらばらな角度に開き、顔の右側を道路に押しつけて横顔を見せ、男が倒れていた。スターリングだった。

        <続く> ハードボイルド稼業 -2-

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