【短編】蚊遣り器
(10,488文字)
一日目、二日目
「なあ。蚊遣り器、どこにあるか知らないかな?」
私は、居間と続き間の台所から、ソファーに座る娘に助けを求めた。今日、妻が不在なのは分かっていた。だが娘なら、どこに何があるか、私以上にこの家のことは詳しい。
「カヤリ、キ? カヤ、リキ?」
人は知らない言葉に出会うと、自分の持つ語彙の中から何とか似た言葉を選び出そうとするものらしい。変な位置で区切る声に少し違和感を覚えたが、それ以上は気に止めなかった。
「蚊遣り香を焚きたいんだ」
「カヤリコウ? だから、何? それ日本語? ねえ、聞いてる?」
娘じゃない。その時になって私はやっと誤りに気づいた。顔を上げると、怪訝そうに振り向いた亜由美がいた。だが私が間違うのも無理はない。夕べも風呂上がりに母娘して、似たような部屋着だかパジャマだか分からない服装でうろついていたのだ。てっきり娘が起きがけにくつろいでいるのだと思いこんでいた。
どうやら娘も出掛けたらしい。そういえば昨夜そんなことを言っていたような気もする。
亜由美は、夏休みということもあり、所用で帰省した娘と一緒に昨日から来ている。亜由美は中学二年生になって、めっきり女性らしくなっていた。
つい数年前までは――私の中ではまだ昨日のことのようだが――ホットパンツとTシャツから真っ黒に焼けた手足を伸ばして裸足で走り回り、私が両手を広げて迎えると一目散に腕の中に飛び込んできてくれたものだ。そんなおちびさんが、母親に並ぶほどに背が伸びて、色も白くなり、淑やかな姿で玄関に現れた時には、とっさに亜由美だとは分からなかった。薄く紅を――後で指摘したら、リップクリームだと口を尖らせた――差していたことも大きい。いつの間にか毛虫が蝶になった。将にそういう命の輝きに満ち溢れている。尤もそんなことを亜由美にうっかり漏らそうものなら、かんかんに怒るだろうが。
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