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【短編】蝦蟇の油

(2,579文字)

 今は健康がブームなのだろうか。この頃新聞のテレビ欄を見ると、その手の番組がやたらと目に付く。現代人はそれほどまでに病んでいるのだろうか。ことある毎に体にいいという食べ物や健康法を紹介されても、そうそう実践できるものではない。
 ――本当?。
 だから私はいつもちょっと斜に構える。
 一方、夫はこういうことにすこぶる熱心で、片っ端から手を出しているがひとつきと続いたことがない。
「これは俺には合わなかった」
 その都度聞かされる夫の言い訳だ。
 今日も今日とて、今や冬の定番となった脳溢いつけつの予防法を紹介した番組の録画を、食い入るように見ている。
 ――やれやれ、今度は何を始めることやら。
 私はため息をく。

 しばらくして居間をのぞくと、夫がすねをさすりながら首を傾げている。どうやらビデオは終わったらしい。
「どうしたの?」
「ちょっとな、でこぼこしているんだ」
 触ると確かに少しおうとつがある。
「大丈夫なの?」
 私はにわかに心配になった。
「治るのには後数年かかるらしいんだ」
 夫は声を落とした。
「本当? 痛みとかないの? 病院には行ったの?」
 私は畳みかける。私の不安げな様子に、夫は苦笑いしながら、
「あいつら、遠慮会釈なくかじるからなあ」
 と子ども達の部屋の方に向けてあごをしゃくる。
「えっ。あっ。もう、馬鹿にして。本気で心配したのに」
 痛てっ。私は夫のすね毛をむしり取ってやった。

 これといって趣味がない夫。休日は昼近くに起きてきて、午後は決まって居間の床に転がり腕枕でテレビを見ているか、そのまま居眠りしていることもままある。そのせいか体重は結婚当初から優に二十キロは増えた。子ども達から与えられた愛称はトドだ。
「ごろごろしてテレビ見ているより、少しでも体を動かした方が健康にはいいわよ」
 私は口っぱく言う。そのたびに帰ってくる返事が、「たまの休みぐらい、のんびりさせてくれよ」だ。
 無理もない。このところ仕事が忙しいらしく、平日はほとんど午前様、土日も二日連続で休めたためしがない。疲れているのは分かる。
 ――大目に見るか。
 そうは思うものの、心配の芽は膨らむ一方だ。


『……さあさあ、お急ぎとご用でない方は、ご覧あれ。取り出したりますこの油、そんじょそこらの油とは、わけが違う。筑波の山中で捕れた四六の蝦蟇、前足の指が四本、後ろ足が六本という代物だ。こいつを四面が鏡張りの箱に入れ、三日三晩掛けて絞ったという、正真正銘、の油だ……』
 今度は録画した時代劇でも見ているらしい。行者風の凝った衣装をまとった香具師やしが滑らかに口上を述べている。

 時計を見ると、夕飯の準備まではまだ間がある。
 ――この頃なかなか二人だけの時間が取れないから、たまには甘えてみるか。
 しかし、そうは思うものの照れが先に立ってなかなか素直になれない。
「あなたも鏡張りの部屋にでももって、お腹の脂肪でも絞ったら。トドの油として売れるかもよ」
 いきおい憎まれ口を叩いてしまうことになる。だけど夫は何の反応も示さない。それどころか夫は背中を向けたまま、あっちに行けとばかりに手を振る。ぞんざいな扱いに、私はかちんときた。
 ――よーし、あなたがその気なら。私だって。

 私は、夫におおかぶさるようにして画面を覗き込んだ。
「あら、この『蝦蟇の油』、一昨日デパートで見たわよ。名前はもっと小洒落たカタカナ名だったけど」
 夫の耳に入ったのを確かめながら、私は体を起こした。
「ほら、この間テレビショッピングに出てたじゃない、何て言ったっけ、あの男の人……。小太りで、眼鏡掛けてて、えーっと……ほら……」
 私があまりに五月蠅うるさいので、早く追い払いたいらしい。画面に目を向けたまま、「包丁を売っていた男か? それとも……」と、夫も名前までは知らないらしく、紹介している商品を列挙した。私は三人目に反応した。

「そう、それそれ。その人が、売っていたの。何でも、ぶんぴつ物から抽出した何とか酸という成分が、長ったらしいカタカナ名だったから覚えられなかったけど、体にとてもいいんですって」
 私は夫のアンテナをくすぐりそうな、それっぽい単語を幾つか並べた。加えて『何とか酸』と言葉をにごしたのがだ。これで夫は、それが自分が知っている体に良いとされる成分だと、勝手に思い込むはずだ。
「そんなに体に良いのか?」
 やっと夫は私の方に首を捻った。しかし、まだ疑いが半分顔に貼り付いている。
「らしいわね。それを料理に使うと、コレステロール値を下げて血液をサラサラにするらしいのよ。でもね、こんなに小さいので五千円近くもしたのよ。もう、信じられない」
 私は親指と人差し指の間隔で、その容器が『小さい』ことを示す。それに『五千円近く』という値付けが絶妙だと自分でも思う。これで一気に現実味が増したはずだ。夫の目が輝く。

 ――本当に分かりやすい人。さあ、もう一押し。
「それにね。東京何とか大学で、効能が医学的に証明されたんですって。新聞にも載ったらしいわよ。切り抜きのコピーが貼ってあったもの」
 仕上げは、この『医学的に証明された』という言葉。
 夫は技術屋で、自分の専門分野に関してははなはだ慎重で疑り深いが、反面それ以外のことは大抵においてとんちゃくという、いわゆる専門馬鹿だ。専門外のことは「もちは餅屋」と、その道のプロの目や言葉をり所にする。
 つまり夫は、これで間違いなく信じるはずだ。
「未だ、やってるんじゃない。行ってみれば」
 予想通り、夫はがばっと体を起こして私の方へ向き直った。

「さて」
 十分な手応えを感じた私は、エプロンのすそを直しながら台所に向かう素振りをみせる。
「ちょっと、待て。それは、どこのデパートだ」
 夫は、私の話にがっつり食らいついてきた。少し距離を取ったところで、ねたばらし。
「うそだよーん」
 私は舌を出しながら逃げる。
「あっ。このヤロー」
 夫は左手を付いて体を目一杯伸ばしながら右手を大きく振る。トドは思いのほか機敏だ。しかし私のお尻を狙った手は、すんでの所で空を切った。


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