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【短編】 竈

(1,346文字)

「あっ、かまどなんですね」
「ええ、そうなんです。手間が掛かるから、ガスか電気に替えたいんですけど、おばあちゃんが、なかなかうんと言ってくれないもので……」
 民宿のおかみさんが不平を漏らした。
「えっ、竈って何?」
 娘が尋ねる。食堂は炊事場の横にあり、戸板の隙間から土間が目に入った。
「ここでご飯を炊いたり、味噌汁を作ったりするの」
「お嬢ちゃん、こんなの、珍しいでしょう」
 おかみさんに話しかけられて、千加は恥ずかしそうに下を向いた。
「ママもねぇ、これを見るの随分久しぶりなの」
 ごゆっくり。おかみさんは食事を運び終えると炊事場に戻っていった。
「風が強い日は煙が逆流して来てね。とっても煙いの。よく涙流して、顔をすすだらけにしながら、おばあちゃんのお手伝いしたのよ。チーちゃんには、わかんないかな」
「チーも、それ、知ってるよ」
「えっ、本当?」
「学校でキャンプに行った時、カレーを作ったもん」
「あっ、そうか」
 私はご飯をよそって、娘に渡す。
「チーは、ご飯の係だったの。ケンちゃんのママがやってくれたから、チーは熱いのと煙いの我慢して、ジッと見ていたんだから」
「偉いね」
「それでね……」
 ふっと、千加の声が遠くなっていく。
 
 あれはいつだったんだろう。竈の前で背中を丸めていた母の姿を思いだした。祖母にしかられたのだろう。私が近づくと、慌てて前掛けで顔を拭いながら、煙が目にみてねと笑っていた母。これまでも何度となく目にした光景だった。
 それから間もなくして、母に手を引かれて、逃げるように家を出た。父は何も言わなかった。祖母は顔さえ見せなかった。その夜、初めて宿に泊まった。実家までは決してその日の内に帰れない距離ではなかった。しかし母には、自分の気持ちを整理し、明日からの生活を覚悟する時間が必要だったんだろうと思う。今になってそれが分かる。
 それからというもの、母は女手一つで私を育ててくれた。辛いことも苦しいことも黙って飲み込んで、いつも竈の前にかがみ込んでいた母。
 私が働くようになって、少し生活にゆとりができてきた。私はガスに替えようと提案したが、母は頑として耳を貸さなかった。
「この方が使い慣れているし……」
 喜びも悲しみも、みんなここにあると言う。私は、煙突から立ち上る煙を見ると、何だかホッとしたものだ。
 そして。老いた母を一人残して嫁いで行く日の朝も、あの竈であさを作ってくれた。
 それなのに……。

「ママ、聞いてる?」
 肩を揺すられて我に返った。
「あっ、ごめん。ねぇ、チーちゃん。いよいよ明日は、おばあちゃんの所だね」
「おばあちゃん、チーのこと好きになってくれるかな」
「絶対。大丈夫よ」

 昨日、母には電話で報せておいた。バス停を降りてあの角を曲がると……。
「もうすぐだよ」
 私がつぶやくと、繋いだ千加の手に力が入る。生垣の上から古ぼけた屋根が見える。少し傾いた煙突からは、煙が棚引いている。肩の力が抜けた。
「あれっ、ママ。煙いの?」
「ううん。ああっ、そう少しね」
「チーは煙くないよ」
「チーちゃんは偉いねぇ。さあ、行こう。おばあちゃん、待ってるよ」
 私は千加の手を握り返した。


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