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【短編】匂い

(1,660文字)

「あなたのにおいがする」
「ん?」
 私は、ネクタイを解く手を止めて、妻を振り返った。
「これ」
 受け取った上着のことらしい。日中は少し汗ばむほどの陽気だったが、まだ衣替えには少し早い。
「一日中外回りだったから、少し汗くさいかも知れんな」
「ううん、そうじゃない。やっぱり、あなたの匂い」
 妻はハンガーに掛けた上着に顔を押し当てている。
「変なヤツだな」
 苦笑いしながら、渡されたパジャマを着る。
「それは止めて。子ども達が見たら真似するから」
 私はいつも一番上のボタンだけを外して、頭からかぶってそでに手を通す。そのたびに注意されるが、なかなか直らない。
「それならスエットシャツみたいなものにすればいいじゃない」
 妻はそう言うが、子どもの頃から寝間着はパジャマと決まっていて、今更それを替えるつもりはない。妻いわく、私は幼児性が抜けていないのだそうだ。
「いいじゃないか。もう寝てるんだろう」
「そういうことじゃないの。前にリュマが言ってたわ、ずぼらな人は猫の生まれ変わりだって」
「リュマ? って誰だ?」
「猫よ。子どものころ飼ってたの。私、彼の言うことが分かったの」
「何に馬鹿なこと言ってるだ。そんなの、聞いたこともないよ」
「あなたも頭でばかり理解しようとしないで、たまには心で感じることも必要なのよ」
「そんなこと、俺には、とても無理だな」
「じゃあ、仕方ないわね。はい、お風呂、お風呂」
 妻に背を押されて浴室に向かう。

 湯船に浸かりながら、回想する。
 ――出会った頃からそうだったな。
 彼女は、時々変わった言い回しや行動をした。私には、それがとても新鮮に思えたし、面白くもあった。
 デートの時は、いつも駅のホームで別れた。私が先に電車を降りるときは、
「さっさと立ち去ってほしい」
 と言う。理由を尋ねると、
「見送られていると、心だけが勝手にあなたについて行ってしまいそうだから」
 と答えた。
「だから振り返ってほしくもないの」
 そのくせ自分が見送る番では、電車の影が消えた後もホームに立っていた。
「俺の心を連れていくつもりか」
 私が文句を付けると、彼女はけらけらと笑った。
「君は猫みたいだね。気まぐれで、自分勝手で」
 猫は、居心地のよい場所を匂いで覚えている。そして気が向いた時だけ、寄り添ってくる。私はいつもそいつに振り回されるが、そのくせそれを楽しんでいる。
「猫はね、いつもごろごろ寝てばかりでしょ。だから寝る子でネコだって。ねっ、面白いでしょ」
 彼女の眼がきらりと光った。

 その昔、ある俳優が「せつけんの香りがする女性が好きだ」と言ったら、世の女学生達はカバンの中にちり紙に包んだ石鹸を二、三個忍ばせて通学したそうだ。
「私もその一人だったのよ」
 と妻は遠くなった日々を笑う。
 人にはそれぞれ心地いい匂いがあるもので、妻のお気に入りは「空気がほこりっぽくなる前の春先の縁側で、丸くなっている猫の背中の柔らかな毛に閉じ込められた日向ひなたの匂いなの」だそうだ。
「抽象的で、なに言っているのか分からないよ」
 私が白旗を揚げると、
「ほんと、仕方ないわね」
 と妻は笑った。

 風呂から上がると、妻はソファでうたをしていた。私は起こしかけて、止めた。
 ――心で感じるのが大事だと言ってたな。
 私は妻の柔らかな髪を両手で掻き上げて指にからませ、そこに顔をうずめてみた。気づいた妻が目を開けた。
「ごめんなさい。眠ってたみたい。ん? 何しているの?」
「君を感じているところだ。しばらくこのままでいいかい?」
「もう、仕方ないわね」
 妻は再び目を閉じる。昼間子供達と近くの公園で遊んだと言っていた。シャンプーの人工的な香りに混じって、髪に捕らわれていた日向の匂いが解き放される。
 ――本当に、猫の生まれ変わりなんじゃないのかな。
 今にもごろごろと喉を鳴らしそうな横顔を見ながら、私は大きく息を吸い込んだ。


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