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【連載】ラジオと散歩と味噌汁と(15/15)

15.リクエスト

 曲が終わって、彼女の声が私の回想に割り込んできた。

<おハガキには、まだ続きがあります。『黙って出て行って、ごめんなさい。闘病中、あなたとの暮らしは私の支えでした。私は、あなたと同じものを見、同じものを聞き、同じものを嗅ぎ、同じものに触れ、同じものを味わい、同じように感じることができました。一緒に喜び、怒り、哀しみ、楽しむことも。短い時間でしたが、私はとても幸せでした。ありがとうございました。』ですって……>

 少し間があって、鼻をすする音がかすかに聞こえた。
<あっ、ごめんなさい。涙が出てきちゃいました……。実はこのハガキ、一年前ほどに届いたものです。来年の今頃読んで下さいと一言添えられていました……。事情は分かりませんが、愛ちゃんさん、ご希望通り今日読みましたよ>
 彼女は、気持ちを切り替えるかのように、小さく一つ咳払いをした。
<では次のお便りです……>

 やはり君はいたんだ。
 私は声を上げて笑っていた。

 私はラジオを切った。


 たった四分ほどの曲の間に思い返せた記憶と、直ぐには出てこないけど決して忘れられない思い出が頭の中で渦を巻く。

 気づくと私の目からしたたったものが、テーブルの上で水溜まりを作っていた。
 ――このことだったんだ。
 やっと義母が言っていたことが繋がった。
 やはり君はいた。確かに君は私の側にいて、一緒に生きていたんだ。その三つ目のあかしがこのリクエストだ。

 そう言えば思い出したことがある。
 付き合いから半年ほど経った頃のことだ。突然君が別れを切り出したことがあった。だが二週間ほどして、君はいつもと変わらぬ笑顔で私を訪ねてきた。そして二人の生活が始まった。
 それはつまりこういうことなのだろう。
 君は病気が発覚して私と別れる決心をした。しかし君にはどうしても叶えたかった夢があった。その切なる想いが、君に姿を変えて、私の元へ来たのだ。
 それは突飛な考えかも知れない。非論理的と笑われても構わない。パラレルワールドとも、生き霊とも、妄想とも、何とでも好きに呼べばいい。とにかく私の身にそういうことが起こったのだ。

 人間の脳は、五感で得られた事と考えたことを同じ領域に記憶させるため、往々にしてその種の間違いを起こすことがあるらしい。
 結婚して、子どもを授かり、三人で幸せに暮らす。そんなありきたりの恋物語だったら、私も不本意ながらそうかも知れないと得心が行く。
 しかしその場合には、流産や発病といった、悲しく苦しいことは、とかく排除されるだろう。
 だが、それらがあるから私の記憶が妙に生々しく息づいているのだ。触れれば温もりさえ感じられるほどの現実味を持って、君は私の中に存在しているのだ。

 君が消えれば、自ずと君と私の二つの世界は一つに収れんする。そのつじつま合わせはこくなものだったけれど、その過程で否応なく色んな人と会い、話した。泣いた。笑った。
 それらは、私が君にとらわれて先に進めなくなるのを防ぐための、安全弁みたいなものだったのだろう。

 日常は強いものだ。体を動かしている間は、心が無になる。散歩をし、ラジオを聞き、味噌汁を作る。私はあの頃と同じリズムで毎日を過ごしてきた。
 何となれば、それら全てが君と暮らした証だからだ。
 そしてどれか一つでも止めたら、全てがそれきりになる。そうすれば二人が積み重ねてきたものも崩れてしまう。そう確信したからだ。

 それから一つ君に謝らなければならないことがある。
 正直言って、私は恐かったんだ、君がさらばえていくのを見るのが。そしてその後に訪れる”死”が。その時が来たら、耐えられるどうか自信がなかったんだ。
 だから、そうなる前に君が自ら出て行った時、ほんの一瞬だけだが、ほっとする気持ちが生じたことは確かだ。私はそのことをずっと恥じている。深く悔いている。墓前で何度も詫びた。でもまだ君の許しは得ていない。
 いつか、ご両親にも打ち明けなくてはならない。ご両親が許してくれた時こそ、君が許してくれたと考えてもいいかな。

 さて、もうじき君に教わりながら造った味噌が食べ頃を迎える。
 そうしたら、出来たての味噌を持って、また義母を訪ねよう。そして、それで作った味噌汁でも飲みながら、まだまだ尽きない君の話をしよう。ご両親のあふれる愛に包まれて育った君の話を聞こう。
 君はいなくなったけど、ご両親や私は今を生きている。この先も生き続けなくてはいけない。君の思い出はその支えだ。

 そして、いつか君が少しだけ遠くなって、悲しみがもう少しだけ薄れて、もう少し心静かに君を語れるようになったら、私は君の物語を書こう。
 そして言えずにいた「ありがとう」と「さようなら」を言おう。


 再びラジオのスイッチを入れる。
 ラジオから流れるパーソナリティの声に、りん気で少しほおを膨らませた君の顔を重ねる。やはり君には笑顔が似合っている。
 君のこと、絶対忘れないよ。

 明日の味噌汁の具は、君が好きだった豆腐とわかめにしよう。
 私はそう思った。

<終わり>



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