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【連載】冷蔵庫と魔法の薬 (9)

9.冷蔵庫

「えっ? 冷蔵庫の話? 何だ、それ?」
「焼き鳥屋さんでジェニーさんに話したんでしょう。私にも教えて。何?」
 環に詰め寄られても、健二には記憶がない。
「夕べは結構飲んだからな」
「そんなの、関係ないわ。ほら、ちゃんと思い出して」

 環は容赦ようしゃない。
「冷蔵庫ねえ……。なんでそんなこと言ったのかな。逆に俺が知りたいくらいだよ……」
 健二はつぶやく。酩酊めいていした脳がつむぎ出した虚構か、はたまた妄想もうそうか。健二は首をひねる。
 ――そう言えば先日帰省した時、実家のが新しくなっていたなあ。
「ねえ、聞いてる?」

 少しいらついたような環の言葉に、健二は我に返った。
「そんなに責めるなよ。自信ないけど、多分『冷蔵庫で話ができる』とでも言ったんじゃないかな」
「どういうこと?」
「うーん。この間、帰省しただろう。その時、久しぶりに親父と呑んだんだ。お袋はせっせとさかなを作って、食卓に運んでくれてさ……」


 元々無口な父のこと、一通り私の近況について質問し終えると、その後は黙ってグラスを傾けるだけだった。
「これ、新しくしたんだね」
 少し息詰まりを感じた私は、冷蔵庫を指しながら話の穂を繋いだ。
「ああ、もう結構古くて、かあさんが冷えが悪くなったと言うもんでな。なあ、かあさん」
 父が台所で料理に腕を振るう母に声を掛ける。

「あら、お父さんだって、もう十年近いから、そろそろ寿命だって、賛成してくれたじゃないですか」
 重い父の尻を叩くのは、いつも母だ。だが父は一旦動き出したら行動は早い。昔からそうだった。暗黙の了解というか、それぞれの立場で、それぞれの役割をこなしている。
 肴を作り終えた母は、自分のグラスを持って父の横に座った。
「そうさ。あの時は俺の予想が当たっただろう」
「本当。きっかり二ヶ月後に故障しましたからね。見直しましたよ、お父さん」
 父は我が意を得たとばかりとうなづく。

「そう言えば、冷蔵庫より井戸水で冷やしたスイカの方がうまかったって思わないか?」
 父が自分から話題を振る。私はへぇーという顔で父を見た。
「そう。ありましたね、お父さんの実家の裏に井戸が。ざるに入れて直に井戸に投げ込むんですから、あれにはびっくりしましたよ。でもね冷蔵庫は時間も掛からないし、均一に冷えるし、私はこっちの方が好きですよ」
「どちらが好きかとは聞いてない。どちらが旨かったかを聞いているんだ。お前はそうやってしょっちゅう話をり変える」

 母は全く意に介する様子もなく、
「お父さんの家では、いつ冷蔵庫買いました?」
 と話題を変えた。父の指摘は置き去りにされたままだ。
「忘れたな。お前の所はどうだった? よく細かいこと、覚えてるじゃないか」
「そんなことないですよ。ただおやつにアイスが入っていたのが嬉しかったですね」
「俺はうっかりドアを閉め忘れて、氷やアイスが全部溶けるし、魚や肉も傷んでしまって、親父からこっぴどく怒られた記憶しかない」

「そうですか。今度のは最新型だから、ドアを開けっ放しにしていると、教えてくれますよ」
「ああ。ピピピピッ、ピピピピッって五月蠅うるさいくらいにな。誰かと一緒だよ」
「誰かって、誰のことですか」
 私はすっかり取り残された。父の話と母のそれは、いつも微妙にずれている。ずれて、合いかけて、またずれる。それくらいが丁度いいのかも知れない。

「あっ、そうそう。あなた、プリン知りませんか? 私、楽しみに取って置いたんですよ」
「ああ、あれか。日が過ぎていたから、俺が処分した」
「捨てたんですか?」
「そんなもったいないことするか。ここだ」

 父は腹鼓はらつづみをぽんぽんと打った。あらっ。母はあきれた顔を見せたが、その対象がビアだるみたいに出っ張ったお腹になのか、プリンを食べられたことになのか、私には判断が付かなかった。
 冷蔵庫の話はまだ終わりそうにない。

「俺、先に休むよ」
 昔をなぞる更なる旅に出た二人を残して、私は部屋に引き上げた。
 それに途中から気づいたことがある。
 二人の会話は、年取るにつれて綻び始めてきた思い出をつくろっている作業なのだと。がれてきた記憶を塗り直しているのだと。話が中途半端のまま次から次へと飛んでいくのは、痛んだ部分だけ修復しているからだろう。


「高校ぐらいまでは、父とこんな話をすることも、両親の会話に耳を傾けることもなかった。いつも食べ終わるとさっさと部屋に引き上げていたからな。まあ、俺も少しは大人になったということだな」
「でも、おじさんは意外だった。もっと無口だと思ってた」
「お前が知らないだけだよ。お袋と親父はいつもこんな感じだよ。あの日も、よく冷蔵庫だけで延々と話せるなって、ある意味感心したよ」

「……」
「二人が歩いてきた人生は、何も平坦な道ばかりじゃなかったはずだ。でもそれを、何気ない口調で、何気ない日常の出来事として、振り返っている二人を見ていたら、何だかこういうのも、いいなあって気持ちになってさ」
「ふーん、そうだったんだ」

 ――だから自分からは話したくないと言ったんだ。

 環は、ジェニーの気持ちが何だか分かったような気がした。

<続く>


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