【短編】白い記憶(2/2)
(3,023文字)
眩しくて目を覚したら、燦々と降り注ぐ陽のもと、バス停のベンチで寝ていた。
あれっ、ここはどこ?
白い壁の家は?
あの女の人は?
きょろきょろと見回す。辺りにはのどかな景色が広がっている。
あれは何だったんだろう。
思い出そうとしても、頭に靄が掛かっている。
夢だったのだろうか。僕は頭を何度も振った。
とにかく叔父の家へ急ごう。
バス停を見ると滝川とあった。時刻表にM駅行きがあるのを確認して、ほっとした。しばらく歩くと坂下のバス停があった。
叔父の家はすぐわかった。思いのほか母の地図は正確だった
家の前に佇む叔父の姿を見た途端、僕はその場にへたり込んだ。
「どうしたんだ。遅かったから心配したぞ」
叔父は泣きじゃくる僕を抱えて立たせると、上がり框に座らせた。僕は電話することをすっかり忘れていた。
「水を持ってきてやれ」
叔母が差し出したコップを受け取り一気に飲み干すと少しだけ落ち着いてきた。叔母は奥に下がり、叔父は僕が泣き止むのをじっと待ってくれた。
「少しは落ち着いたか。じゃあゆっくりでいいから、何があったのか話してくれ」
僕は大きく息を吐いて、おもむろに話し出した。バスで寝過ごしたこと、知らない場所で降りたこと、霧みたいな何かに襲われたこと、女の人が僕を助けてくれたこと。
途中何度も声を詰まらせながらも、自分なりになるべく順序立てたつもりだ。
叔父は黙って聞いていたが、話し終えると幾つか疑問を口にした。
「十時半頃のバス?」
「うん」
「本当に運転士は坂下を通ると言ったのか?」
「うん」
「変だな。ここら辺を通る路線バスは、滝川行きの一本だけだぞ」
「でも現に僕の乗ったバスは……」
反論しようとする僕を、叔父は手で制した。
「いいか。滝川行きのバスは十一時十分に駅を出て、ここまでだいたい三十分。寝過ごしたとして、この先が終点の滝川で、そこまで十分くらいだ。そこから子供の足で歩いて戻って四十分ほど、一時間は掛からないだろうから、一時頃には着くだろう」
その時、柱時計が一時を告げた。僕の腕時計も確かに一時を示している。
「なっ、俺の計算どおりだ。つまりお前の話は現実には成り立たない」
叔父は中学で数学を教えている。説明は論理的で疑問を挟む余地はなかった。
「まだ合点がいかないか。俺もよく、怪物とか怖い話とかテレビや本で見た夜は、何か得体の知れない物に追われたり襲われる夢を見たもんだ。その度に泣き出しては母親になだめられたもんだよ。子供の脳はまだ発達途中だから、現実と夢の区別が付かなくて混乱する。そういうことはよく起きるらしい。今日のこともそういうことだろう」
話の最中、叔父が少しでも嘲笑したら、僕も意地になっていただろう。だが叔父の淡々とした口ぶりに、僕は不本意ながらも頷いた。
「それに夢と言ってもな、はっきりした画像で、ちゃんと物語になった、それこそ映画みたいなのを見ることもあるそうだ。それにしても、お前の話は面白かった。案外お前には文学的なセンスがあるのかもな」
叔父は僕の肩をポンポンと叩いて話を終わらせた。僕には何が何だか分からなくなってきた。夢だと言われれば夢のような気もする。擦りむいた膝の痛みは現実だが、肝心の女性の顔も声も全く思い出せない。ただ地名がぽっと浮かんだが、関係があるのかも自信がない。
納得はできなかったが、僕はそれ以上考えるのを止めた。
葬儀は滞りなく終わった。直ぐに帰るつもりだったが、孝男が久しぶりだから家に寄っていけと勧める。妻も着替えたいと言うので、言葉に甘えることにした。奥さんは近所への挨拶に回ってから帰るので遅くなるとのことだった。
あれきりこの地を訪れることはなかったし、今日まであの日の事を一度たりとも思い出すことはなかった。疾うに忘れたものと思っていたが、結構微に入り細に入り覚えていたのには驚いた。
叔父がダムに落ちて亡くなったのは21年前だった。今日、位牌で確かめた。ちょうど僕が訪れた日から数日後のことだ。元来平和な町ゆえ、当時は事件とも事故とも騒がれたと云う。
結局自殺で片付けられたが、叔母は後年まで納得していなかったようだ。
妻の着替えを待つ間、ふと思いついてこの辺りに青沼という地名があるかと孝男に尋ねてみた。孝男は「青沼ねぇ……」と何度か首をかしげていたが、思い当たる所があったのか「あっ、そうだ、あれを見れば……」と呟きながら奥から『川並町の歴史』と書かれた本を携えてきた。
「市政三十周年を記念して作られたんだが……」
孝男は後付けの索引を捲って、
「あっ、あった。これだ」
と該当するページを開いて見せた。
「これによると五十年ほど前に、早水川、ほら道路沿いに川があっただろう、その上流に治水ダムが建設されたんだが、その時湖底に沈んだ村らしいな」
そこには当時の村の様子を撮った三枚のモノクロ写真があった。一枚目が航空写真で、それを見ると、村は山間を流れる川の両側の長細い平地にあったようだ。三十軒ほどの家々があったらしい。後の二枚は村の様子を残したもので、その一枚に写っている白い壁の家に何となく見覚えがあるような気がした。
「ここからはどれくらい?」
「そうだな、ダムまでだと車で一時間くらいかな。そう言えば、五年前の旱魃の時、ダムの水位が下がって、沈んだ村の一部が現れたとニュースでやっていたはずだ。見てないか?」
「どうだったかな」
首を傾げていると、
「どうかしたの?」
と声がした。いつの間にか妻が背後にいた。白いワンピースに着替えたようだ。
「何でもない。昔の写真を見せて貰っていただけだ」
私はそれを機に、孝男に暇を告げた。
家路を急ぐ車の中、妻が窓ガラスを降ろして風を入れる。
「斎場の冷房が効きすぎて、少し頭が痛いの」
「俺もだ」
肌を滑る風が心地いい。妻の髪が風になびく。
「ねえ」
「ん?」
「さっき食い入るように写真を見てたわよね。何かあるんでしょう。教えて」
妻が探るような目で見る。
「子供の頃、バス停のベンチで見た夢さ。十数年ぶりにここに来て思い出したよ。それが妙に生々しくてさ……」
私は夢の話をした。妻は黙って耳を傾けている。
「でね、孝男くんに、ぼんやりと覚えていた青沼という地名を聞いてみたんだ。そしたらその村は確かにあったんだよ。今はダムの底だけどね」
妻は黙って聞いていたが、
「その女ねえ……」
と悪戯っぽく笑った後、
「……私よ」
と言った。
何バカなことを。
私は笑いながら、それならそれでも構わないと思った。
■
水撒きを終えた妻が私を招く。白いワンピースが風に揺れた。
「また、昔のことを思い出していたの?」
白いワンピースが風に揺れた。
その刹那、夢の女の人の貌が妻のそれと重なった。
いつの間にか空は、どんよりと厚い雲に覆われていた。にわかに空気がひんやりして、遠くに望む山々の背から霧が流れ込んでいるのが見えた。
「あなた、早く! また、あれが来るわよ」
私達は急いで家に入った。白い壁の瀟洒な家に……。
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